美丈夫の嫁9 5





 翌日ビジネスホテルをチェックアウトした後は、唐津城から見えた海と街の間に境界線のように植えられていた松の道を実際に歩いていた。
 虹ノ松原と呼ばれるその道は、松の森の中を歩いているようだった。見上げると首が痛くなりそうなほど立派に育った松の木々は、何百年という長き年月を感じさせる。
 息を吸い込む度に、松の豊かな香りが肺いっぱいに入って来た。
(これほどの数の松の木を眺めることも、そうないな)
 木陰をずっと歩きながら、壮観な様にスマートフォンで写真を撮る。ここに来て、普段はあまり使うことがない写真機能が大活躍をしていた。
 SNSなどは利用していないけれど、帰ってからこの旅行を話す際に、写真があると伝わりやすいだろう。
 美丈夫は少なくとも俺の話を聞きたがると思う。
(……心配、しておるじゃろうな)
 昨夜は何を感じたのか、言葉少なく引き下がってくれたけれど。家に帰れば色々と聞いてくるのではないか。それとも逆に、たかがあれだけのことで過敏に反応して逃げ出すような男に幻滅しただろうか。
(いやこれで幻滅するくらいなら、もっと早い段階で俺との付き合い方を考え直しておるような気がする)
 そもそもこれで幻滅するような男が、俺を嫁にしようと決断するとは思いがたい。美丈夫は妙なところで頑固であり、一途だ。
(俺は、嫌ではないと美丈夫に言わねばならんのだろうか)
 昨夜の電話で自分のことを見詰め直していると言った。そして見詰め直すのは美丈夫との関係でもあり、抱かれることに対する答えを探しているということでもある。
 自分が口にするだろう言葉は、おぼろげに思い浮かんでいる。けれどそれをいざ美丈夫に伝える時の自分を想像すると、まだ帰りたくないという気分になった。
 曖昧に出来ないだろうか。言葉を濁せないだろうか。
 そんな儚い希望も、まだ捨てられなかった。
 がらりと自分が変わるような予感を歓迎出来ない。
 まだ腹をくくれないまま、虹ノ松原を歩き続けるのに疲れては佐賀を後にする。
 飛行機の搭乗時間を考慮して早めに電車に乗った。空港まで一時間半、自然豊かな光景を電車の窓から眺めつつ、日常に帰るのを躊躇っているとスマートフォンがメッセージの受信を告げる。
『今、何処にいますか?』
 少し違和感のあるメッセージだった。
 しかしどこに違和感があるのか自分でもよく分からなかった。素直に、電車に揺られているとだけ返信して、まさか地元の空港まで迎えに来るのだろうかと危惧する。
(自宅で大人しく待っておると良いのじゃが)
 飛行機から降りて、到着出口に美丈夫がいる。なんて事態にはなりませんようにと祈る。
 美丈夫は時々突拍子もないことをするので、飛行機に乗っている間に、万が一の場合の予測もしておくべきだろう。
 落ち着かないまま、電車が空港のある駅に辿り着く。多くの乗車客と共に流されるように改札に向かうと、俺はそこで目を疑った。
 改札を過ぎたすぐそこに、とてもよく知っている姿が立っている。人混みの中でも目立つ身長とすっと伸びた背筋、何より人目を惹くに充分過ぎる顔立ち。
 整った顔に誠実そうな雰囲気とくれば女性たちが気に懸けるのも仕方がないのだろう。通り過ぎる人の中には美丈夫をちらちら見る人もいた。
 けれど美丈夫は周囲の視線は一切気にしていない。それどころか先ほどから俺とずっと目が合っている。
 見間違いかと思うことすらも許さない、確かな眼差しだ。
 改札を通る前に、足取りが乱れた。歩みが遅くなった俺に、美丈夫が近寄ってくる。早くこっちに来いと催促されているみたいだ。
 圧力を感じて、のろのろと俺は改札を出た。人の流れに逆らわず、また邪魔にならないように壁際に避けては美丈夫がすぐ後ろに従う。
「おかえりなさい」
「……ただいま。おまえさん、ここは福岡だぞ」
 地元の空港ならばまだ、辛うじて理解は出来る。けれどまさか福岡空港に辿り着いていない段階で捕獲されるとは思わなかった。
 いくらなんでも、迎えに来るという想像の段階を越えている。
「はい。福岡ですね」
「何故ここにおる」
「上総さんが帰って来られるなら飛行機を利用するだろうと思ったので。佐賀、しかも唐津に行かれてましたね」
 満面の笑みを浮かべる美丈夫に、俺は驚きの声が出そうになった。佐賀県と言われて、どうして唐津とピンポイントで当てられるのか。いくらなんでも観光地は他にもあると思うのだが。
「佐賀の唐津という観光地は良いところであるらしいというお話を、以前上総さんは俺に話して下さいました。まして行くなら飛行機が便利だろうと」
(いつの話じゃ……)
 志摩から佐賀県の話を聞いた直後辺りに、美丈夫にもそんなことを零したのだろう。
 おそらく日常の、些細な会話の一つだったはずだ。いつどこで喋ったのか、俺は全く覚えていないのだが、美丈夫は交通手段すらも記憶していたらしい。
 記憶力が抜群に良い人は、そんな些末な世間話も覚えていられるものなのか。
「旅行に出られたと知った時、真っ先に唐津が思い付きました。そして上総さんから佐賀県にいると聞いた時に確信に変わりました。唐津から福岡空港に向かう電車はこの路線だけ。帰宅時間から飛行機の搭乗時刻などを計算して、そろそろ戻って来られる頃だと思って待っていました」
「だからわざわざここまで、迎えに来たのか」
「そうです」
「ちゃんと帰ると言ったじゃろう」
 不意打ちでこんなところまで来たなんて、俺を捕まえようとしたのだとしか思えない。家出のようなことをしていると自覚はしたが、美丈夫までそう思っていたのだろうか。
「それでも早く、逢いたかったんです」
「どうして」
「……貴方が、俺とのことに悩んでいる気がして」
「悩んではおったさ」
 俺の返事に美丈夫は傷付いたような顔をした。悩んでいるとだけしか言っていないのに、ここで傷が付くのかと思うと言葉の先が分からなくなる。
「嫌、でしたか?あんなことはもうしたくないと思われますか。我慢しろと言うなら」
「我慢が出来るのか?」
「逃げられるくらいなら、我慢くらいします」
 俺が美丈夫の元からいなくなる方が辛いのか。
 しかし俺は我慢が出来るという台詞に、つい笑ってしまった。
「我慢すると言われても、俺はあの目をしたおまえさんと暮らすんじゃろう。なかなかに厳しいものがあるぞ」
「あの目?」
「人に食い付きそうな目をしておった」
 あの夜の美丈夫は、俺を押し倒しながらまさに噛み付きそうな目つきをしていた。それだけ欲情していたのだろう。
 我慢すると言っても、あの目を隠すことは難しいのではないだろうか。日常生活の中であんな視線に晒されて、平然としているだけの精神力を俺は持っていない。
 むしろ誰だって欲情に晒されれば、心が乱れるものだろう。
「すみません……」
 自覚があるのかないのか、美丈夫は頭を下げた。
 少なくとも否定は出来ないらしい。
 小さくなって謝る様が、あの貪欲な目つきと結び付かなくて、苦笑が浮かぶ。
「正直、指を入れられた時はびっくりした。そこを使うのだと。それまで言葉で聞いていても現実味がなかったんじゃろうな。おまえさんが本気なんだと察して、俺は……」
 何と言うべきか、そこで言い淀んでしまった。それに美丈夫が心細そうに俺を見る。
「気持ち悪かったですか?」
「いや」
「怖かった、とか」
「それはあったかも知れない。じゃがな、俺はその時一番最初にはっきりと思ったのは、入らないんじゃないか、ということだ」
「…………急には入らないかも知れません。ですが時間をかけて丁寧にならしていけば、入るようになりますよ」
「そういうものなんじゃろうな」
 後孔を使って性交をする方法をインターネットで調べた際もそう記載されていた。人間は訓練すれば尻に性器くらいは入れられるものであるらしい。
「入るか入らないかを気にするなんぞ、入れることに同意したようなものじゃろう」
「……そうでしょうか」
「翌朝の俺はそう思った。おまえさんに抱かれるというのに、俺は嫌でも気持ち悪いでもなく、体内にあれが入るのかどうかという物理的なことを考えていた。つまり男として抱かれることに抵抗感を失っていた自分に気付いて、ショックを受けた」
 翌朝の俺は、美丈夫の目からすればぼーっとしていたらしいが。それは頭の中をがつんと殴られて、ミキサーにかけられたくらいの衝撃があったからだ。
「ショックということは、嫌になったということですか?」
「違う。嫌じゃない。嫌になったならおまえさんに昨日直接言うておる。嫌じゃないからこその、ショックじゃ」
 上手く伝わっていないのだろう。美丈夫が当惑しているようだった。俺にとってもまだはっきりと固まっていない気持ちだから、言葉が拙いのも許して欲しい。
「俺は男であり、おまえさんよりも年上じゃ。これでもお兄ちゃんだの、父親代わりだのと頑張って来た。それが二十歳の男に言い寄られて、抱かれることを良しとした。人生が総崩れじゃ」
 母子家庭の中、たった一人の男として、性別に縛られた役割を担ってきた。これでも男ということを強く意識しながら暮らしていたのだ。
 それがいきなり嫁になってくれと言われ、性行為の役割でも男ではないものを求められて。混乱するなというほうが無茶な話ではないか。
「……それで佐賀県に?」
「ああ、人生を見詰め直しに行った」
「それで、どう思われましたか?」
 美丈夫の肩に力が入った。俺が一つの答えを抱いていると信じているような、すがるような表情に俺は首を振る。
「易々と答えなぞ出るか。たった一泊二日で何が分かる。まだ迷っておるわ。なのにここまで迎えに来るやつもおるしな。もう少し猶予があるものだと思っておったのに」
「せいぜいあと三時間くらいですよ」
 ここから自宅までの時間は大体それくらいだ。そう思うとこの男はたった三時間を短縮するためにここまで来たのか。
(物好きじゃな)
 しかし美丈夫が俺のことに関して物好きなのは、今に始まったことではない。
「上総さん、明日もお休みでしたよね」
「まあ、そうじゃが」
 三連休なのであと一日休みはあるのだが。旅行をするとなんだかんだと疲れてしまい、出勤する前日は出来れば一日休憩として家でのんびり過ごしたいというのが俺の希望だ。
「もう一日、こちらに泊まりませんか?上総さんがご覧になった佐賀の土地を俺も見たい」
「おまえさん、明日は?」
「休講です。バイトもないので明日は一日空いてます」
 忙しい人なのに一日オフとは珍しいことだ。俺も休みなのでもう一日旅行を増やすことは可能ではあるのだが。
「しかし今から佐賀に戻るのか?」
「今からでなく、明日でも」
「ううん……今からすぐに戻っても、明日一日かけても、俺が見たところを回りきるのは無茶がある。回ったとしてもちゃんと堪能出来ずに勿体ない。じゃから今度は二人で来れば良い。あそこは良いところだから、俺もまた来たいと思ったしな」
 今回は突発的に来たけれど、思ったよりずっと見所もあり、ゆったりと穏やかな時間を過ごすことが出来た。今度は別の季節、たとえば藤が咲いている頃などに来ても良いなと思った。
 美丈夫が見たいというならば、今度は二人で来れば良い。何も急ぐことはないだろう。
 俺の提案に美丈夫は面食らったようだった。
「二人で旅行ですか」
「おまえさんに時間がある時にな」
 さしておかしいことでもないだろう。同居しているからといって、泊まりがけで旅行に出掛ければまた気分も変わる。
 何より新しい場所に行けば楽しいと思うことも多々あることだろう。それを美丈夫と共感出来るのは、きっと今日よりも目に映る景色が特別鮮やかに感じられる気がした。
「嬉しいです。是非、二人で旅行に来ましょう」
「そうじゃな」
「では福岡で一泊しましょう」
「何故泊まりにこだわる。ああ、おまえさんはこっちに来たばかりじゃから観光がしたいのか?もしかして福岡は初めて来るのか?」
 わざわざ時間と金をかけてここに来たのに、ただ俺を迎えに来ただけで帰るというのも無駄だろう。せっかくならば観光がしたいと思うのも当然だ。
 そのために一日帰宅をずらして、美丈夫に付き合うのは構わない。
「いえ福岡に来たことはあります。観光がしたいというのも、正確な目的ではありません」
「では何か用事でも?」
 ここか、もしくは佐賀に何かしらの目的があるのだろう。
 そう問う俺に美丈夫は躊躇いを見せた。この人が自分の発言にこんなにもはっきりとした迷いを見せるのは珍しい。
 しかもそれほど難しい質問でもなかったはずだ。
 つい小首を傾げると美丈夫がだらりと下げていた両手に力を込めて、拳を握った。勇気を奮い起こした、そんな仕草だ。
「……上総さん。一つ欲張りなことを言ってもいいですか?」
「それは俺に嫁になってくれと言った時よりも欲張りか?」
 緊張している美丈夫の前で、俺はおどけるようにしてそう尋ねる。
 あれ以上の欲張りなどありはしないだろう。そう高をくくったのだが、美丈夫は口元を引き締めた。
「……それに等しいかも知れません」
「それは随分、欲深い」
 あれに匹敵するような願いなど、そうあるものではない。
 聞くのが怖いけれど、だからといって気になるまま放置も出来ないだろう。こちらも腹をくくるしかなかった。
「聞かせて貰おうか」

「今すぐ、貴方を抱きたい」




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