美丈夫の嫁9 4





 佐賀県に降り立って、天気の良さにほっとした。
 天気予報では曇りだったのだが、随分綺麗に晴れ渡っている。駅のホームから街が一望出来た。自分がこれから行こうとしている唐津城の天守閣もうっすらと見えて方向がしっかり確認出来た。道に迷うこともないだろう。
 駅から出ると真っ直ぐ北へと向かう。玄界灘に面したこの都市は、海沿いに江戸時代に築城された唐津城という本丸があり、街を見下ろしていた。
 廃藩置県により廃城となり、払い下げの末に取り壊されたらしいが、昭和初期に模擬天守閣が作られ、現在に至る。
 駅から天守閣までは城下町の空気も漂っており、商店街を横目で眺めながら石垣を通り天守閣へと続く道を歩いて行く。市役所の前にはかつてのお堀や石垣なども再現されていた。
 時代劇を少しばかり体感出来る、古めかしい空気がある。
(空気が柔らかい)
 通り過ぎる人たちが観光客である俺に会釈をしたり、笑顔を向けてくれる。俺も反射的に同じ反応はするのだが、穏やかな雰囲気になんとなく嬉しくもなった。
 和やかな土地なのだろう。
 海沿いに出ると潮の香りがした。
 天守閣の近くは学校になっており、学生達の元気な声が聞こえてくる。学生時代はとうの昔になった俺にとって、その声は懐かしさのあるものだ。
 元々この辺りは唐津城の本丸跡地であったらしい。そこが学校になり、すぐ隣には天守閣がそびえ立っているというのは、なかなかに歴史を感じられる立地ではないだろうか。
 天守閣は少しばかり山の上に立っている。急な角度の石畳の階段を上らなければいけないため、エスカレータが付いていた。利用料は百円であるらしい。
 足腰に不安がある人には有り難いことだろう。
 俺自身は特に支障はないのでゆっくりと階段を上がる。階段の左端には「唐津城」と書かれたのぼりが上がっている。階段を上りきると大きな藤棚が見えた。残念ながら季節ではないので花は咲いていないけれど、初夏に来れば見応えがあっただろう。
「さすがに……息が切れる」
 普段さほど運動をしている人間ではない。角度と高さがある階段に呼吸も乱れ、身体が重くもなる。
 そういう人々の心理を配慮しているのか、階段を上がった先の藤棚の周囲は開けており、休憩スペースも作られていた。
 そこにあるベンチに誘われるようにふらふらと近付いては腰を下ろす。ほっと息をつくと知らずの内に汗ばんだ肌が潮風に吹かれて、涼しさを感じた。
 天守閣はすぐ隣なのだが、一度座ると次に立ち上がるのに少し勇気がいる。ましてベンチのすぐ前には膝ほどの高さの低い柵があり、眼下には街と海が見渡せた。
「綺麗なところじゃな」
 玄界灘と、大波が来ても直接街が飲み込まれるのを防ぐかのように浜と街の間にずらりと並んで植えられている松の木の道。左手にある街並みの向こう側にはお椀のような形をした山が重なっている。
 いつの間にか山の天辺まで来ていたような気分だ。それほど高くまで登ったつもりはなかったのだが、標高があるらしい。
 深呼吸をして、整っていく呼吸と共にどうして自分がここにいるのか、という意識も戻ってくる。
 佐賀という土地に目的はない。
 この前妹である志摩と会った際、志摩の友達がここに来て、とても良かったと話していたらしい。志摩も興味が沸いたらしく、あれこれ調べてそれを俺に教えてくれた。
 その情報をなんとなく覚えていて、旅行に出ようと思った時に真っ先に候補に挙がった。
 深く考えることもなく、衝動に逃げ出した。
(そう、逃げた)
 昨夜俺は美丈夫に後孔に指を入れられたまま、絶頂したことに衝撃を受けた。正しくはその瞬間は驚いたけれど体感していることを理解するのに精一杯で、パニックになるだの逃げ出すだのというところまで頭が回らなかった。呆然としていたのだ。
 だが翌朝、記憶が蘇って来て改めて自分が体験したことを理解すると、俺は酷く動揺した。
 それまで俺が知っていたセックスと、体内に指が入ってきて、内側を弄られながら絶頂してしまうという行為は、あまりに懸け離れたものだった。そもそも抱く側の立場であった俺が、明らかに抱かれる側の立場を突き付けられている。
 本来ならば性器を入れられることなどない身体なのだから、指を入れられる愛撫に気持ち悪いだの、駄目だの、嫌だのということを思ってもおかしくない。
 だが俺が思ったことは「入るかどうか」だった。
 そんなものが入るのか、入らないだろう、と美丈夫の性器を脳裏で想像して考えていた。それは入れられることを想定して、受け入れようとする者の考えだ。でなければサイズがどうだのなんて考えない。ひたすらに嫌悪と拒絶だけが全身を支配していたはずだ。
 まして俺はあの時、身体を押さえ付けられていたわけでも、縛り付けられたわけでもない。美丈夫を殴り飛ばして逃げることだって出来たはずだ。
 だがそうはしなかった。それどころか入るかどうかなんて馬鹿馬鹿しいほどに冷静なことを思案した。
 男なのに性器を受け入れることに反発がなかった自分に、ショックを受けた。俺はそんな男だったのかと、自分が分からなくなった。
 あのまま美丈夫と顔を合わせて平然と暮らせる自信がなかった。美丈夫にどう見られているのか、どう扱われているのか、そんなことはとうに知っていたはずで、それを体感しただけのこと。今更だと言われればそうなのだ。
 美丈夫とて、自分の気持ちを知った上で俺がずっと一緒に暮らしている、まして同じベッドで寝ているのならば、抱かれることを半ば許容していると思ってもおかしくない。だからこそ、昨夜後孔に手を出してきたのだろう。
 駄目なら、受け入れられないなら、もっと早く逃げ出しておくべきだった。
 それこそ蔭杜がどう、家族がどうなどと悩まなくても良かったはずだ。家柄や身内のために貞操を売る時代でもなければ、そこまで我が家は困窮していない。
 家族とて俺が身を売りたくないと言えば必ず耳を貸してくれたはずだ。帰って来いと言ってくれる、その信頼もあった。
 でもそれをしなかった。ずるずると、現状を見ない振りをしていた。曖昧でふわふわとした環境が続くものだと思い込んでいた、そう思いたかったのだろう。
(そのツケが来た、いや、当然の未来が来たというべきか)
 ショックを受ける方がきっとお門違いだ。
「男……なんじゃが」
 受け入れる性でもないのに、それを求められている。そして自分もまたそれに拒絶出来なくなっている。
 美丈夫が俺を塗り替えようとしているのだ。
 そして俺自身もそれを半ば認めていた。
(俺はいつから、それを良しとしたんじゃろう)
 抱かれても良いかも知れないなどいう判断をいつの間に下していたのか。自分では何も気付かなかった。
 それが一番のショックだった。



 唐津城を内覧し、その周囲にあった明治後期に作られた、重要文化財にも指定されている元炭鉱経営者の邸宅にも立ち寄った。和洋折衷の美しさを見事に表した建築物で、ノスタルジーと当時の上流階級の人間の暮らしを肌で感じることが出来た。
 驚いたのが個人宅であるというのに、大広間に能舞台があったことだ。これは実に珍しいことであるらしく、俺以外に人がいないのを良いことにじっくりと眺めることが出来た。
 邸宅を堪能した後は有名な焼き物の土地ということで、唐津焼きをメインに取り扱っているカフェに立ち寄り、休憩がてら店内に並んでいる焼き物も見せて貰った。
 正直あまり何の期待もせずに来た観光地なのだが、歩いているとその土地の風土や文化、歴史などを感じることが出来て面白い。特に幕末辺りの歴史が色濃く滲んでおり、これまで読んできた時代物の本を思い出しては楽しくなった。
 夜になり、名物のイカ料理を食べてからビジネスホテルで本日の予定を終了させた。
 壁に沿ってテーブルとベッドを配置しただけで、ぎゅうぎゅうになってしまった狭い一室に実家の自室を思い出した。蔭杜に引っ越すまでは俺も本棚に圧迫された部屋で生活をしていた。今のように寝室が別などという優雅な暮らしは貧乏人である俺には不釣り合いなものなのだ。
 ベッドに腰掛けて深く息を吐く。
 蔭杜に住居を移した直後は、随分と身の丈に合っていない空間で寝起きをしているなと思ったが、やはり人間は慣れてしまう生き物だ。このホテルの部屋がとても窮屈だと感じてしまうのだから。
「欲深いな……」
 部屋はとても静かだ。テレビでも付ければ良いのかも知れないが、普段からテレビを見る習慣があまりない。窓の外は海が見え、月が出ているせいかほんのりと海面が光っていた。その光景をぼんやりと見詰めていると、不意にスマートフォンが鳴った。
 画面を見ると美丈夫の名前が表示されている。おそらく自宅に俺がいないことに気付いたのだろう。
 昼間に昨夜のことを尋ねるメールが来ていたが、どうにも返信する気持ちにならずに無視してしまったのも、電話をかける理由になったのかも知れない。
「……………」
 スマートフォンを見詰めながら、俺は躊躇っていた。
 通話に出たとして、俺は何と言えばいいのか。ここにいる理由も、何故メールを返さないのかも、ちゃんと説明出来ない。自分でもどうしてなのかよく分からないからだ。
 躊躇ったまま、じっと着信を告げるスマートフォンとにらめっこをしていたのだが、一向に音が鳴り止まない。
「…………長いな!?」
 出るまで絶対に引かないという強い意志がひしひしと伝わってくる。
 一晩中でも電話をかけ続ける美丈夫の図を想像しては、笑えないその現象が発生しないためにも、渋々画面をタップした。
『もしもし?上総さん?ご無事ですか?』
「あ、ああ、何もない。ちょっとトイレに行っておった」
 電話先の美丈夫は酷く心配しているようだった。俺が電話に出ないことで、何か緊急事態なのではないかと無駄な不安を抱かせてしまったらしい。
『そうですか。ご無事なら良かった。ところで今どちらに?メモには旅行に出られるということ以外何も書かれてなくて、さすがに心配になりました』
 黙って姿を消すのは非常識であり、騒ぎになるだろうと思って、リビングのテーブルにメモを残してきた。
 一泊二日で旅行に出る。という簡単なメモだ。行き先を書かなかったのは、家を出るまで本当に佐賀に行くかどうか自分でも分からなかったせいだ。
「今は佐賀県におる」
『佐賀ですか。突然行くには、少し遠いところですね』
「まあそうじゃな。だが深い意味はない。たまたま三連休などというものが取れたから、旅行に出たくなっただけじゃ。行き先が佐賀だったのもその場の思い付きじゃな」
『そうですか……昨日のことを気にされているんじゃないですか?』
 昨日のこと、と言われてやはりそれを心配するのかと、ごく自然に考えた。けれど心臓がどくりと鳴った。動揺するところでもないのに、美丈夫にそこには触れて欲しくないという気持ちがあるからだろう。
「何故、そう思う?」
『今朝の上総さんはぼーっとされているようだったので。悩んでいるというか、心ここにあらずというか』
「まあ、ぼーっとはしていたかも知れない。なんとなく……」
『なんとなく?』
「……自分が、分からなくなった」
 ぽつりと本音が出てしまった。
 こんな情けない弱音を美丈夫に聞かせたくはないのだが。他に返事のしようもなかったのだ。
 適当に嘘を言って、美丈夫を煙に巻くという手段もあったのだろうが、俺はその選択はしたくなかった。これまで俺に誠実に、素直な気持ちを伝えてきた美丈夫に対する礼儀だ。
『自分のことが分からなくなった、ですか?』
「上手く言えん。自分でもよく分からんのだ」
『……今、上総さんは自分捜しの旅に出ているということですか?』
「この辺りに俺は落ちてはおらんだろう。そもそも俺はどこにも行っておらん。常に、自分の元にいる」
 一時期世間では人生に迷った、未来が見えなくなったということを理由に「自分捜しの旅」というものに出るのが流行った。日常から抜け出して、新しい環境に接することで、これまで知らなかった自分を見付ける。新しい自分に出逢う、というのが自分捜しの旅であるらしい。
 それを聞いた時、俺は一切共感が出来なかった。
 自分というものは常に身の内、心の中にあるものだろう。自分が自分という殻を飛び出していけるわけもない。
 そう思ってしまうのだ。
「いつだって俺の元に自分というものはあった。なのにそれが、急に分からなくなった。だからショックを受けておる。自分はこうだと思っていたものが、いつの間にか違っていたらしい」
『それは、昨夜のことが関係していますか?』
「……うん」
 誤魔化しても仕方がないことだ。このタイミングでこの行動に出たのならば、問題は昨夜にあるに決まっている。
 美丈夫は俺の返事に、口を閉ざした。小さな沈黙に俺は「少し」とすぐに声を出していた。
「自分を振り返っておる最中じゃ。まあそう大袈裟なことでもない」
 旅行に出たのは大袈裟に見えるかも知れないが、要はこれから自分がどうしたいのか、考えてみたくなっただけのことだ。
 自分の心の変化に気付けなかった間抜けさと、身の振り方を決めなければならない覚悟が、まだ足りていない。だから美丈夫と正面から向き合えず、ここにいる。
『……いつ帰って来られますか?』
「明日の夜には帰る予定じゃ」
『何時頃になりますか?』
「そうじゃな……二十時頃じゃろうか。その頃には家に戻っておるよ」
 飛行機の時間が計算すると、その時刻には家に辿り着いているはずだ。
『分かりました。待っています』
「ああ、必ず帰る」
 旅行に出たことを家出のようなものだと勘違いされると困る。なので帰るということをちゃんと強調しておいた。
 それにどれだけ現状から逃げたところで、あまり意味はない。気分転換になる程度だ。
 先ほども自ら口にした。自分を見失ったなんて言っても、常に自分というものはここにあるのだから。どこかに行く必要なんて本当はない。
『分かりました』
 おやすみなさい、と告げて美丈夫は通話を切った。
 あれこれ追求してこないことに拍子抜けしたけれど、無理矢理言葉を捻り出さなくても良いので救われた部分もある。
 身構えて電話に出なかったことに罪悪感を抱きそうになるくらいあっさりとした態度だ。
(おやすみ……か)
 美丈夫の声を思い出してはベッドに転がる。一人で眠るのは久しぶりだ。誰の気配も呼吸音もない空間はとても静かで、耳が痛いくらいだった。
 ごろんと寝返りを打って、目の前にある壁に苦いものが込み上げてくる。
 一人で寝るというのにこのベッドは随分と狭い。




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