美丈夫の嫁9 2 仕事帰りに雨に降られた。小雨なので走って帰ればさして濡れないと思ったのだが、あっと言う間に本降りになり。家に辿り着く頃には頭からびしょ濡れになってしまっていた。 天気予報を確認することなく出社した俺の過ちである。 後悔などしてもとうに遅く、玄関のドアを開けて我が身を見下ろしては、そこで立ち止まった。 ぽたりと髪の毛の先から雨粒が落ちては溜息をつく。 「風呂場に直行じゃな」 こんな有様では自室に辿り着くまでに廊下が濡れてしまう。それならば風呂場に直接行って、被害を最小限に抑えた方が良いだろう。 自室に水たまりを作るつもりもない。 着替えを諦めて風呂場に向かう。濡れそぼった服を洗濯籠に放り込んでは勢い良くシャワーを浴びた。冷えていたつもりはないのだが、温かなお湯に身体が弛緩していく。 疲れた身体を多少癒してから、風呂を出る。 自室に行けなかったため全裸だ。心許なさを感じながらも腰にバスタオルを巻いて脱衣所から出る。どうせ家には誰もいないのだから、見られる心配などないだろうと、そう油断をしていた。 「……ただいま戻りました」 「おかえり……」 脱衣所から出た途端に、たった今帰ってきたばかりであるらしい美丈夫と鉢合わせた。鞄を肩にかけた状態の美丈夫は俺を見て硬直している。 風呂に入っていたことは音や気配で察しただろうが。まさか半裸で出てくるとは思わなかったのだろう。 こちらも美丈夫がバイトから帰ってくるのはもう少し後だと思っていただけに、びっくりして固まってしまった。 美丈夫の視線が、俺の身体を辿る。 バスタオル一枚だけである現状を否が応でも意識させられた。これが他の同性ならば何とも思わなかった。せいぜいみっともない姿だと恥を感じたところだろうが。美丈夫の視線には羞恥心と共に気まずさを覚えてしまう。 性的なものがそこにあると、肌で感じてしまう。 「仕事帰りに雨に降られて、びしょ濡れになったんじゃ。帰って来ても、着替えを取りに行くこともままならんかった」 どうしてこんな有様なのか、言い訳が先に立つ。無性に居心地が悪いのだが、だからといって男のくせに裸体を隠そうと足掻くのもおかしい気がして当惑するしかなかった。 「あの、それは分かりましたから。早く服を着て下さい。目の毒です」 顔を逸らした美丈夫に「すまん」と一言謝ってから自室に戻った。 (目の毒) これまでそんな風に言われたことはなかった。 あの男は確かにそういう目で、俺を見てくる。 けれど俺は職場の女の子のように嫌悪を抱かなかった。セクハラだと言っても何等おかしくないはずのことなのに、沸き上がるのが多少の羞恥なのだから。根本的にあの子とは心境が異なるのだろう。 (そもそも互いを手で慰めたこともあるのじゃから。この程度でセクハラだ何だと言えるものでもないか) 互いの性器をその目に晒し、手で慰めたこと、慰められたこともある。 その時点でセクハラだと言えるような領域は飛び越えている。だからといって付き合っているのかと聞かれると、俺は答えられない。 付き合っていないけれど嫁である。 (その方がよく分からないか) それに嫁というものになることは承知していたのだが、嫁としての役割が与えられるとは思わなかった。名前を貼り付けられるだけで、ただの自分のままでいるのだと思い込んでいたのだ。 それは浅はかだったのだと、今更知らされているだけのことだった。 (浅はかだったら、どうするべきなのか) 間違いましたとも、受け入れますとも言わずにここまで来ている自分はきっと愚かであり、卑怯なのだろう。 この問題を考えるといつも鬱々とした気持ちになる。俺はこんなに優柔不断だったのだろうか。 服を着てキッチンに行くと美丈夫が鍋を掻き混ぜていた。 「今晩はシチューです」 中身は白くてとろりとした美味しそうなシチューがたっぷり入っている。俺が仕事の日はお手伝いさんが料理を作っておいてくれる。お手伝いさんはみんな料理が上手なので、味は保証されているようなものだった。 「ああ、良いな。今日は少しばかり冷える」 「そうですね。びしょ濡れになった身体は温まりましたか?油断していると風邪を引きます」 「大丈夫。おまえさんよりずっと身体は頑丈じゃ」 雨の中、俺を捜して走り回り、美丈夫は風邪を引いたことがある。 それを思い起こしていると美丈夫は苦笑した。 シチューを眺めたまま、少し口元を緩めた表情はどことなく優しい。顔立ちが整っており男らしさがあるだけに、柔らかな表情を浮かべるとぐっと情が深そうに見える。 「おまえさんは、セクハラをしてもセクハラだと認められそうもないな」 「どういうことですか?」 唐突な俺の台詞に、美丈夫はさすがに怪訝そうだった。 「不謹慎な話かも知れんが、セクハラというものはされた側の女性が不快でなければ、成立はせんだろう。たとえ肩を抱かれても、腰に触れられても、抱き付かれて口説かれたとしても、受け取る側がそれを好ましいと感じればセクハラにはならん」 「それはそうですね」 好みの相手に抱き付かれ、熱烈に口説かれた場合。不愉快だと思うよりも、高揚が先立つ場合が多いのではないか。 「おまえさんの場合、大抵の相手ならセクハラと感じずにそのまま流されてしまいそうじゃ」 この顔面があればごり押しも出来るのではないか。 俺はそう思ったのだが、美丈夫は「まさか」と軽く笑った。 「好きでもない相手に迫られれば不愉快になるものですよ。好みであったとしても、好きな人、とはまた別ですからね」 「しかしこれだけの男前じゃからなぁ女性ならばぽーっとして我を忘れてしまうものではないか?」 「女性はこの人はと決めた相手以外は一切受け付けられない。という人が多いそうですよ。どれだけ顔が好みでも、好き人以外に触られるなんて耐えられない。志摩さんもそのタイプでは?」 「ああ、そうじゃな。それもそうか」 志摩を出されて、確かにそうだと思った。 どれほど格好良い、イケメンだの何だのと言っていても、いざ自分がその男に接触される、性的な目で見られると思えば気持ちが悪いと思うのも無理はない。 見ているだけと、実際に触れられるというのは、別の話だ。 格好良いと褒めそやすとある俳優に対して、志摩は見ているのはいいけど付き合うのは無理、とはっきり言っていた。好きと一言で表現しても中身は複雑に分けられているのだ。 「一方、男は下半身に正直で、好きでもない女性でも抱けるとか」 「さあ。俺にはその辺りのことは分かりません。経験がありませんので」 (美丈夫なら意中の人を射止めるのは容易そうじゃからな) 好きでもない相手より、好きな人に触れたいと思うのが道理。美丈夫ならば好きな相手を恋に落として、触れてきたことだろう。 「さて、男性も抱かれる側となると、どうなんでしょう。好きでもない男に抱かれるのを良しとするものでしょうか」 美丈夫がこちらを見ながら問いかけてくる。 この男と性的な行為をしたことがある。性器に触れ合って、絶頂を覚えたことがある。 そんな事実を思い出しては、俺の気持ちを探ろうとしてくる視線に痛みを覚えた。 (藪蛇か) こんな話題をするべきではなかった。 「人によるのでは?」 「便利な言葉ですね」 自分の気持ちを濁し続ける俺を知りながら、美丈夫はさらりとそんなことを口にする。軽く恨めしいと言われているような気がして、何とも気まずい。 「上総さん」 「……なんじゃ」 何を言うつもりかと身構えていると、美丈夫の手が首に回された。そしてネックレスの留め具を外される。 「あ……」 びしょ濡れで帰って来て、風呂に入ることで頭がいっぱいだった。そのため仕事中はネックレスに通して首からぶら下げているリングを指にはめ直すのを忘れていた。 美丈夫はネックレスからリングを取っては、俺に掌を差し出した。しかし奇異なことにその掌にはリングが載っていない。 「手を貸して下さい」 「……小っ恥ずかしいな!?」 「上総さん」 「自分でやりたいのじゃが!?」 どうしてリングをはめるのにわざわざ美丈夫にして貰うのか。異様なまでに羞恥を刺激されて抵抗を示すのだが、美丈夫は頑として譲らない。 「させて下さい」 (……指輪なぞ別にはめずとも良いと言えば、拗ねてしまいそうじゃな) へそを曲げられるとどうなるのか。あまり考えたくなくて、俺は渋々左手を差し出した。ゆっくりとはめられるその指輪は、久しぶりにずっしりとした重量感がある。 (最近は身体に馴染んであまり気にならなくなっておったのじゃが) 美丈夫にはめられることによって、改めて存在感を増した。 「シチューが温まりましたね」 「そうか」 鍋を覗き込むと、とろりとした白いソースからこぽりと小さな気泡が沸いて来る。確かに温まっている証に、俺は棚から耐熱皿を出した。 そしてそこにご飯を半分ほど入れる。 「シチューにご飯ですか?」 「ここにシチューをかけて、チーズを載せてオーブントースターで焼く。簡易ドリアじゃな。我が家ではよくやるんじゃが、行儀が悪いか?」 実家ではシチューを作ると毎度ご飯の上にかけて、チーズをトッピングしては焼いていた。 しかしシチューとして出されたものを、勝手に改造して別の料理にするのはマナー違反だろうか。美丈夫は行儀には厳しそうだ。良い顔はしないかも知れないと思っていたのだが、美丈夫は瞬きをしては口元を緩める。 「いえ、美味しそうです。俺もやりたい」 「では二つ分作るか」 どうやらお気に召したらしい。美丈夫の分も用意しては、その上にシチューをたっぷりかける。ご飯が埋もれて見えなくなり、食欲をそそる匂いや大きめのジャガイモと肉が載っている様は、まだ口に入れていないのに美味しいと確信出来るものだった。 「こういう食べ方もあるんですね」 「ドリアが焼けるまで、シチューも軽く食べておく。そうすると本来の料理も楽しむことが出来るわけじゃ」 「なるほど、一石二鳥ですね」 感心したような美丈夫に、こうして互いの食生活が馴染んでいくのがどことなく楽しかった。 next |