美丈夫の嫁9 1





 事務所の机を挟んでバイトの男性と向き合う。背後のパソコンには俺の仕事が山積みであり、本社から送られてきているはずの返信メールの確認をしなければいけないのだが。生憎今の俺は目の前に集中しなければならない。
 向かい側に座っている男性、前島さんはこの職場に入ってきて三ヶ月。まだ新人なのだが、仕事の覚えは悪くなく、以前も同種のバイトをしていたらしく彼が入って来て有り難い面もあった。
 だが現在、前島さんに関して大きな問題が起こっていた。そのため勤務中に彼をここに呼び出して話をしているのだが、先ほどから俺は頭が痛くて、出来ることならば休憩を取りたかった。
(疲れた……)
 憤りを覚えているらしい前島さんに、溜息をつきたくなる。けれど俺はそんな心境はおくびにも出さずに穏やかに、出来るだけ丁寧に喋り続けていた。
「十代の女の子が年の離れた男の人にいきなり身体を触られるとびっくりして、怖いと思うのは普通のことなんですよ」
 高校生の頃からずっとここでバイトをしており、現在は大学生になった女の子が。前島さんからセクハラを受けていると俺の元に相談に来た。
 内容を聞いたところ、確かに彼女が嫌がるのは当然だろうと思うものであり。上司の立場から前島さんと話をしなければいけないと思ったのだ。だから一時間ほど前、この事務所に前島さんを呼んで、事情を聞いていたのだが。
「同じ職場で働いている仲間ですよ。怖いなんてことがありますか?」
「仲間ではあります。ですがだからといって気安く腰などに触れるというのはセクハラです。強く手や腕などを掴むのも止めて下さい。握る力が強く、跡が残っていました。私も確認しました」
 腰に触れられ、耐えられずに彼女が前島さんに注意と共に嫌悪を見せると、前島さんは彼女の腕を掴んだそうだ。力が強く、手の跡が赤くうっすらと残っているのを俺も見た。
 その手の形に、俺もまたかっとした怒りが込み上げたのは事実だ。
「手を掴んだのは彼女の言い方があまりに失礼だったからです。チーフもセクハラだなんて言いますが、ちょっと触れただけでそんな言い方をしますか?」
「ちょっとであったとしても、腰なんて部分に触れる必要性が分かりません。それにちょっとであっても女性にとっては怖いと感じるには充分ですよ」
 そもそも腰だと言っているけれど、彼女からはお尻だと主張されていた。
 前島さんが決してそこではないと言い張るので、腰だと改めたけれど真偽の程は謎だ。
「俺には分かりません。ちょっと触ったことだって、スキンシップを取っただけです。スキンシップを取ることでもっと親しみを覚える。仲間としての連帯感も生まれるはずです」
「仲間としての連帯感を得るために、スキンシップが必要だとは思いません。連帯感にはスキンシップより言葉などによる信頼感が必要であると私は思います。彼女が怖いと感じた時点で信頼感はほど遠いものになってしまう」
「彼女が慣れていないだけです」
(何故人のせいにする)
 彼女のせい、自分を受け入れない、理解しない周囲のせい。
 前島が言いたいのはつまりそういうことなのだろう。このやりとりが始まった時からそうだった。
 自分はセクハラなどしていない。受け取り方が悪いだけ。
 自分がやっていることは間違っていない。この職場のためでもある。仲間意識を作るためであり、連帯感が生まれてきっと良い職場になるはずだ。そのためにやっていることをどうして咎めるのか。
 ということを俺は先ほどから延々聞かされていた。
(三十六歳でここまで人の話を聞かんと、性格上言動を改めるのは難しいやも知れん)
 聞く耳を持たない人間の相手をすることほど、疲れるものはない。
 どっと疲労感に襲われながら、俺は深呼吸をした。
 投げ出してはいけない。それが出来る立場ではない。そして怒ってもいけない。それはパワハラだと言われる。おまえはセクハラだと人を責めるくせに、パワハラをしているじゃないか。同罪だと言われる。
「現代社会において、職場の女性に気軽に触れるというのはセクハラ、もしくはそれに近い行為と見なされます」
「それはおかしくありませんか。手や肩に触れることはあるでしょう。相手に気付いて欲しい際、肩を叩くことは一般的です」
「不意に接触することはあるかも知れませんが。意図的に触れるのは避けて下さい。肩を叩く前に相手の視界に入り、声をかけるなどの行為をお願いします」
「両手が塞がり、風邪などで声が出ない場合はどうするんですか」
「前に回って下さい。そもそも風邪などで人を呼べないほど声が出ない場合は、仕事を休んで下さい」
 ありとあらゆる状況と可能性に照らし合わせて、自分の行為を正当化しようという意思が、前島さんからは感じられた。自分が間違っているのだと指摘されることを厭い、正しいのは自分だと思わなければ気が済まないタイプなのだろう。
 実はそれは最初から感じていたので、俺は話し合いに苦労することは覚悟していた。
 しかし現実のものになっては欲しくなかった。
「これではまるで女性は爆弾ではありませんか」
「爆弾という言い方は失礼だと思います」
「失礼なのはそっちです!人を犯罪予備軍みたいに言って!」
「不必要な摩擦を避けるためです。ご理解下さい」
「何でもかんでもセクハラだなんて言う方が失礼です。俺は納得出来ません」
 女性の腰や尻などに触るな。というだけのことなのだが。どうしてここまで反発するのか、俺にはさっぱり分からなかった。
(決定的に、理解出来ぬものを感じる……)
 俺はこの仕事に就いてから女性の腰や尻に触ったことはない。必要性がない。何なら肩や手に触れた記憶も持っていない。
 それはセクハラを疑われる、疑われないなどという意識があったわけではない。業務上必要ではなかったからだ。
 触れなければ出来ない仕事など、ここにはない。
(だというのに、どうしてこの男はこれほどまでに頑なに理解せぬのか)
「会社の意向です。前島さん。そういう時代なんですよ。セクハラにとても厳しい社会になりつつあるんです。妙な誤解を招いて、無駄な揉め事に巻き込まれたり、不愉快なことを言われたりはしたくないでしょう。私も前島さんにこんなことを言うのは気が進みません。ですが会社として言わなければいけないんですよ」
 お互いにとってこの時間は無駄だ。有益ではない。
 ならばこんな時間を過ごさないように、問題になりそうなことは避けるべきだ。
 冷静に、出来るだけ疲れを出さず、前島さんに好意的な態度でそう告げた。
 好意的に優しく語りかけなければ、前島さんは怒りを膨らませて、セクハラ対象にどんな行動を取るか分からないと思ったからだ。
(爆弾はどっちだ)
 憂鬱で、胃の辺りがとても重い。金属でも次々飲み込んでいるみたいだ。
「人に触れるということは、それだけ重大なことになったんです」



「チーフ、ありがとうございます」
 前島さんの勤務時間は、事務所で二人きり籠もって話し合いをしている間に終わった。なのでそのまま前島さんは退勤したのだが、事務所の椅子に座ったまま放心している俺の元に、セクハラをされたと訴えてきた女子大生がやってくる。
「とりあえず、言うべきことは言ったから。これで改善してくれたらいいんだけど」
「さっき前島さんが私のところに来て、セクハラだと訴えられたら怖いから君には一切スキンシップは取らないよ。そういう会社らしいね、信じられない。俺はセクハラなんてしてないのに!って言ってました」
「ああ……そう」
 やはり納得はしていないらしい。疲労感が更に増しては、椅子に沈み込んでしまいそうだ。
「でも、もう触らないって言ったましたから!」
 恨み節も込められていたそうだが、触れないと本人の口から言質を取ったことが嬉しかったらしい。
 満面の笑みを浮かべている女の子に救われた気持ちになる。
 これで前島さんが一向に態度を改めてない、となれば俺の二時間はただの徒労になるところだった。
「それは良かった。でもまたあったら、教えて欲しい」
「ありがとうございます」
 これでセクハラがなくなることを祈りながら、ペットボトルのお茶に口を付ける。甘めのお茶を買っておいてよかった。渋いお茶を飲みたい気分ではなかった。
「スキンシップだなんて、四十歳のおっさんが女子大生のお尻に触ってきてセクハラじゃないなんて有り得ないですよ!」
「三十六歳ね」
「一緒ですよ!大体肩を叩かれるのだって嫌でした!でもそれはセクハラじゃないしって思って我慢してたら背中とか腰とか触ってくるようになって!止めて下さいって何度も言ったんですよ!?そしたら今日お尻に触ってきて!もう気持ち悪くて!」
「うん、そうだね」
 その話は前島さんと話をする前にも聞いていた。というかその話を聞いたから前島さんと話をしたのだ。
 しかし彼女は怒りが収まらないのだろう、同じことを繰り返している。
「大体家族でも彼氏でもない男が触ってくること自体間違いですよ!馬鹿じゃないの!?下心丸出しで近付いて来て、その時点で本当に無理!あの目つきが、マジで吐きそう!」
 下心を露わにしている男の視線に晒される気持ち悪さを露わにする女子大生に同情を覚えると共に、全く気持ちのない相手から性的な視線を向けられることは気持ち悪いのだという、当然の理屈にどことなく自分の中で目を逸らしたいものもあった。
「本気でバイトを辞めようかと思ってました」
「それは勘弁してくれ」
 働き手が少なく、人手不足が社会問題となっている今のご時世。彼女に辞められるとうちの職場も例に漏れることなく苦しい労働環境になりかねない。
「前島さんとシフトをずらして下さい」
「それは……考慮するけど。ラストまで入ってくれる人が少ないんだよ。学生さんはテスト前になると一斉に抜けるから。ある程度夜の人員を確保しなきゃいけない」
 閉店まで働いてくれる人員は家庭持ち以外、主に学生バイトかフリーターで回っている場合が多い。学生バイトは特に夕方から仕事が始まるので、よくラストまで勤務して貰うのだが、彼らは学校がある分。テスト前になると一斉に休みを取るのだ。
 その間、残った人員で店を回さなければいけない。その場合前島さんのようなフリーターに支えられている。
 セクハラをしたから彼女とシフトを完全に分ける、と簡単には言えない事情があった。
「本当にごめん。二人きりにならないよう他の子にも頼むし。出来る限りシフトも考えるから」
「お願いします。私本当にもう限界です」
「そうだろうね」
 よく喋り明るく、そして言いたいことはきっちり口にする少し勝ち気なところがあるこの子が、泣きながらセクハラを訴えてきたのだ。
 俺は普段の彼女の、何事もおおらかに、細かいことはあまり気にしない性格を見ていただけに。泣きだした時点でただ事ではないと察した。
「……でも良かったです。チーフが私の話を真面目に聞いてくれて。友達もバイト先で似たようなことがあって、そこの店長にセクハラを訴えたらしいんです。でも店長は気のせいだ、セクハラなんて神経質になり過ぎだって聞き流されたらしくって。それが辛くて辞めたんです。チーフもそういう人だったらどうしようって、怖かった」
 泣き出す前にどうしてセクハラを教えてくれなかったのか。
 正直そんな気持ちもあった。
 そんなに辛いならば、我慢せずに嫌だと思ったその時に伝えて欲しかった。
 そうすればもっと早く、今日のような話を前島さんにしただろう。そして彼女も泣き出す前に解決したかも知れない。
 けれど彼女は友達という前例を見てしまったが為に、尻込みをしていたのだろう。
「あー……そういう人もいるかも知れないけど……俺には君くらいの年の妹がいて、女性はどんなことをされると嫌なのか。男性に対してどれほど身構えているのかっていうのも身近で見てきたから」
「妹さんもセクハラをされたことがあるんですか?」
「セクハラというか……それに近いことっていうか……」
 志摩とは年が離れている上に、父親がいなかったせいか、よく面倒をみていた。その内に女として暮らすことがどれほど窮屈なものなのかを知る機会が幾度かあった。
 電車に乗れば痴漢を警戒し、繁華街に行くと見知らぬ男に声をかけられる。中には売春を持ちかけられることもあるらしい。
 下着類は洗濯しても盗まれるかも知れないので外に干すことは出来ない。夏場でも露出をすると気持ちの悪いことを直接言ってくる男、そうでなくともじろじろ眺めてくる者もいるという。
 女性がどれほど周囲を気にし、自分を守らなければいけない生き物なのか。
 特に俺が辛いと思ったのは、志摩が高校生の頃、部活で帰りが遅くなった時に帰り道で変質者に遭遇して、泣きながら帰ってきたことだ。しかも一度だけではなかった。
 俺が高校生の頃には、そんな目に遭ったことはなかった。けれど女子高生たちに聞けば、その周囲には変質者が出ることはままあったらしい。
 その変質者は後に捕まったのだが、それでも志摩にとって変質者に遭遇したという恐怖は消えないと言う。
 俺と比べ、性別の違いでこんなにも差があるのは苦しいと泣かれた時、俺は何も言えなかった。仕事が休みの日、少しの間学校帰りの志摩を迎えに行くことしか出来なかった。
 そういうことを目の前にいる女の子も体験しているのだろう。
「女の子ってだけで嫌な目に遭ったり、変な目的で近寄ってくる人や、こっちを見てくる人がいるっていうのは知ってる。自分を守ることが大変だってことも」
「そうなんですよ。女ってだけで気持ち悪い目で見て来たり、声かけてくるじじいとかいますからね!ヤり目的なのか丸分かり!そういう目で見られること自体無理ですよ!気持ち悪い!耐えられんない!この世から消えて欲しい」
「ああ、まあ、うん」
 その気持ちもない相手に、性的な目で見られれば気持ち悪いものだろう。この世から消えて欲しいとも思うだろう。
 我が身の危険も感じるはずだ。
(普通はそうだ。好きでもない相手ならこの反応が正しい)
 しかし彼女の台詞が妙に自分に刺さってくる。
「誰が好きでもない男と付き合うか!ましてヤるわけないじゃん!手を握られるのも無理!近寄って来ないで欲しい!」
「事務所でそういうことは叫ばないでくれ……」
 ヤるとか、直接的な表現をしないで貰いたい。ましてまだ十代の女の子が、そんな言い方をするのは行儀が良くない。
「大体、好きでもない男に触られたら気持ち悪いものですよ。みーんなセクハラです。その代わり、好きな男の人だったら、ベタベタしたいんですけどね!」
 憤っていたかと思うと、ころりと笑みを浮かべてはそんなことを言う子に、俺は苦笑するしかなかった。
(好きでもない男ならセクハラか)
 美丈夫に性的な手と目に触れられた自分は、果たしてどんな気持ちだったのだろう。気持ち悪いとも言わず、だからといってもっと欲しがるわけでもなく。
 惑って、曖昧に言葉や気持ちを濁して、答えを先送りにし続けている。今もそうだ。
 美丈夫の目が語りかけてきているのに、俺は何も返せていない。
 そんな不甲斐なさを、目の前にいる女の子が面と向かって指摘されたように感じた。




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