美丈夫の嫁8 6





 美丈夫の熱は翌日の朝には下がっていた。
 頑丈な身体だと言っていたのは嘘ではないのだろう。
 だが無理はせず一日安静にしろと言って大学は休ませて、俺は仕事に出掛けた。何かあったら連絡をくれと言ったのだが、スマートフォンは静かなままだった。
 昼休みには具合を尋ねるメッセージを送ったのだが、もう大丈夫です、という本当か嘘かも分からないような返信が来ただけだ。
 悪化してなければ良いのだが、と思いながら帰宅したのだが、玄関のドアを開けると美丈夫がそこに立っていた。
 顔色は良く、ぱっと見たところ怠げな様子もない。熱は下がったまま、容態は落ち着いているのだろう。
「おかえりなさい」
「ただいま。ベッドで寝ておれ」
「さっきまでそうして過ごしていましたが、もう飽きました」
 俺は首からぶら下げているネックレスを外しては、そこにあったリングを薬指にはめる。毎日の習慣なのだが、美丈夫はそれをいつも満足そうに眺めている。本日も例に漏れることなく見詰めていた。
「だからと言って出迎えることはなかろう」
「そうしたかったんです。立川さんがお話があるそうです。晩ご飯の後にお時間を頂戴出来ますか?」
「俺は構わんが、夜遅いじゃろう。お子さんは大丈夫なんじゃろうか」
 晩ご飯の後になると午後九時近くになる。立川さんには小さなお子さんが二人いて、そんな時間からここに来るならお子さんはどうするつもりか。連れて来るのかも知れないが、理由が分からない。
「住み込みのお手伝いさんは何人かいらっしゃいます。お子さんはその方が見ていて下さるそうです」
「そうか。しかしどうなさったんじゃろうな。おまえさんは何か聞いておるか?」
「おおまかなところは。ですが上総さんに直接聞いて頂きたいそうです」
「なるほど」
 わざわざ時間を作って、人づてではなく自分の口から伝えたいということはかなり重要なことだろう。
(もしかしてお手伝いさんを辞めるのじゃろうか)
 立川さんはこの家の家事をよく引き受けてくれた人だ。
 特に食事に関しては立川さんに頼っていた部分が大きい。関わっている時間が多いだけに、何か大切なことがあった場合はきちんと伝えてくれるつもりなのかも知れない。
 辞められるのは困るなと思いながら、さっさと晩ご飯を食べて立川さんを呼んだ。ちらりと嫌な想像が過ぎったのだが、美丈夫の様子を見る限り深刻そうな雰囲気はない。
 お茶の準備をしているとインターフォンが鳴っては立川さんがやっていた。俺はドアを開けて、彼女が一人ではないことに驚いた。
「こんばんは。娘さんとご一緒ですか」
 小学生、確か二年生だと聞いていた立川さんの娘さんが母親の隣に不安そうに立っている。俺と目が合うと母親の手を握った。
(何故怯える)
 立川さんの娘さんとは何度か会っているけれど、あまり人見知りをしない子で俺とも初対面の時からしっかり話をしてくれたものだが。今日は様子が違う。
 怖がる子に首を傾げたが、立川さんは「すみません」と謝るだけで理由は教えてくれなかった。
 俺が何かしたという覚えはないのだが。無自覚に傷付けてしまったのか。それとも俺について誰かから何か聞いたのか。
 もう一人四歳の息子さんがいたはずだが、一緒ではないらしい。同僚に見て貰っているのは息子さんのことなのだろう。
「どうぞ中へ」
 上がるように勧めると立川さんは何度も頭を下げた。毎日のように来ているはずの家なのに、今日は妙に恐縮している。娘さんの異変にばかり気を取られてしまったのだが、立川さんも暗い顔をしていて妙だ。
 お茶をいれようとすると立川さんが立ち上がったのだが、今日はお客さんの立場で来ているのだから、と座って貰った。そのことに立川さんは身体を小さくしては「申し訳ありません」と深く頭を下げては更に表情を陰らせる。
 時間が時間なのでノンカフェインの紅茶を入れる。
 娘さんにはオレンジジュースを出したのだが、反応は非常に鈍い。ジュースなどに喜んでいる場合ではないのだと言っているようだ。
 不安が大きくて他には何も意識出来ないのか。
「えっと、おやつでも出しましょうか。クッキーくらいならありますが」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
(もう夜遅いからのう、おやつを食べる時間でもないか)
 この年齢の子どもが何時まで起きているのか、飲食は何時までなのか、という知識などない。余計なことを言ってしまった。
 ソファに向かい合わせに座りながら、居心地の悪さにどう言葉を切り出せば良いのか迷う。
 美丈夫はこの空気に何とも思っていないのか涼しい顔で紅茶を飲んでいた。
 隣にいるその整った顔に現状を打開して欲しいのだが、他人事のように黙ったままだ。
 当惑していると立川さんがそっとソファから腰を上げてはいきなりラグの上に膝を突いて頭を下げた。
「申し訳ありません」
「えっ、何事ですか」
「上総さんを蔵に閉じ込めたのは私の娘です」
 悲痛な声でそう告げられ、俺は「はあ」と間抜けな返事をしてしまった。立川さんの切羽詰まった様子の土下座と中身がいまいち繋がらなかったからだ。
 しかし俺が唖然としていると娘さんまで母親の隣に座る。頭が動いたのを感じて、俺はとっさに娘さんを「止めなさい!」と制していた。慌てて立っては立川さんの肩にそっと触れる。
「勘弁して下さい!立川さんに土下座なんてされたら俺の立場がない」
「ですが」
「ましてこんな小さな子の土下座なんて絶対に見たくない。どうか座って下さい、お願いします」
 俺がここに来たばかりの頃から立川さんにはお世話になっている。蔭杜内部についてや家事のこと、近所付き合いなどもたくさん教えて貰っている。
 環さんの夫である國朋さんにきつく当たられた時などはそっと庇われたこともあるほどだ。恩のある人に土下座をされるなんて、その光景だけで胸が痛い。
 さあ、と立川さんを促すと迷いながらも娘さんと一緒にソファに座り直してくれる。だが表情は更に強張っていた。
「蔵に鍵をかけたのは娘さんだと」
「はい……」
「お話ししてくれる?」
 娘さんが来たということは、本人から話を聞くことが出来るということだ。出来るだけ優しい声で語りかけると娘さんはぎゅっと身を縮めた。
 母親を窺うように上目遣いで見ては、立川さんが頷いたことに涙を浮かべながら「あの」と小さな口を開いた。
「蔵には、入っちゃ駄目だって」
「そうだね」
「怖い幽霊がいるから、鍵をかけてるって」
 入ってはいけない場所には怖いものが出る、そう子どもに教えるのはよくある話だと思った。この年頃ならばまだ幽霊が通用するのだろう。
「なるほど、それなのに蔵が開いてて、びっくりしたね」
「幽霊、出て来るかもって、思って……怖くて……」
「うん」
「でも、このままにしたら、幽霊が出て来ちゃうから。そしたら、みんな困るし」
「そうだね。幽霊が出て来たら困るし、怖い」
「だから、だからわたし」
 ごめんなさい、と娘さんは泣き出した。大きく肩を上下させては嗚咽を零しながら涙を流す様は痛々しい。立川さんが娘さんの背中を撫でているけれど、かける声に迷っているのが見て取れる。
 慰めて褒めてあげれば良いだろうに、と思うのだが被害者である俺の手前憚られると思っているのだろう。
(なるほど。中に人がおるかなぞ端っから頭にない者がやったのならば、納得も出来るわい)
 娘さんにとって蔵の中にいるのは幽霊だけだ。人が入るという可能性が最初から浮かんで来ないわけだ。同時に蔵が開いているということは大変な恐怖だったのだろう。
「か、鍵を閉めたの、幽霊が出ないように。そしたら、いつの間にか、おうちの中で、大騒ぎになって、わたし、蔵のことって分かってて、でも」
「なかなか言えなかったんだね」
「ごめ、なさい、ごめん、なさい……」
 しゃくり上げながら告白する子は、きっと昨日からずっと怖かったはずだ。
 美丈夫は俺を捜すために蔭杜の家にいる人全てを動員したと言っていた。それはかなりの騒ぎになったことだろう。
 まして閉じ込められた蔵から見付かったことに、かなり緊迫した空気が流れていた。美丈夫の怒りが激しいものであることも、間近で見ているだけに知っている。
 その怒りが自分に向けられるという恐ろしさは、大人でも震え上がるものに違いない。
「よく言えたね。頑張った」
 きっと厳しく叱られる。そう分かりながらも自分のやったことを説明するというのは、かなりの勇気が必要だ。泣きじゃくる様からして相当に怯えていただろうに、よく逃げずに来てくれたものだ。
「お、お兄ちゃん、熱が出たって、わたしが、わたしが閉じ込めたせいで」
「寝込んでおったのは俺ではなく、誉さんなんだが……」
 情報が交錯している。美丈夫もその話は少し驚いたようだった。目を合わせると苦笑いが返ってきた。
「すみません、私が勘違いをしてこの子に喋ってしまいました」
 今朝、この家に食事を作ってくれたのは立川さんではなかった。別の人だったので又聞きをした間に情報が変わってしまったのだろう。
(俺が具合を悪くしたと知って、きっとこの子は耐えられなくなったんじゃろうな)
 自分がやったことがとんでもない結果になった上に、俺が体調を崩したという話にきっと黙っていることが出来なくなったのだろう。
「だからお話してくれたの?優しい子だ」
「ごめんなさいっ」
「悪気があったわけじゃない。怖かったから、蔵の中にいる幽霊が出て来たらみんなが困ると思って、勇気を出して閉めたんだろう。だから今回のことは事故だ。君が悪いわけじゃない」
 幽霊が出て来る蔵の扉が開いていて、怖いからと見て見ぬふりをして無視することも出来た。だが幽霊が出て来るとみんなが困るからと、恐怖心を押さえ込んで自分で対処したその気持ちを、叱るわけがない。
 誰かを助けたかった、その気持ちはとても大切で尊いものだ。
 幼いこの子はこれから様々な経験と知識を蓄えていく。こんな時どうするべきなのか考える力も今後付いていくだろう。
 けれど幼い子の胸にある、みんなを助けたいというその勇気は、大人になったからといって誰もが持てるものではない。だからこそずっと大事に抱えていて欲しい。
「でもあの蔵に幽霊は出ないよ。俺が中に入ってチェックをしたから。開けていても大丈夫」
「……中に、何があるの?」
 幽霊はいないと言われて、娘さんは涙を拭いながらもちらりと好奇心を刺激されたらしい。尋ねてくる子を立川さんは「こら」と小さく叱っている。立ち直りが早いとでも思ったのかも知れない。
「中には本がいっぱいあったな。他には箱ばかりでよく分からなかったけど。そうそう、幽霊はいなかったけど、幽霊の本ならいっぱいあったよ。こわーいやつ」
「えっ、やだ!」
 娘さんは怖いやつと言われて涙も止めてそう驚いていた。素直な反応に思わず笑みが零れる。
「本の中からは出てこないよ。でも本当に出てこないか俺がたまにチェックするから、今度から蔵が開いてても鍵は閉めないで欲しい」
「うん、ごめんなさい……」
「いいよ、よく教えてくれたね。ありがとう」
 頭をぺこりと下げた子に、俺たちもまた安堵にしたのは間違いなかった。
 美丈夫がどうして静かに隣に座っているだけなのか、遅ればせながらに理解が出来る。
 蔵が閉められたことに、誰の悪意もなかったからだ。
 落ち着いているその横顔に、良かったなと思えた。



 誰かの悪意にずっと晒されていたのではないか。
 そんな不安を抱えていた俺たちにとって、立川さんの娘さんが話してくれたことは救いでもあった。
 信頼出来ると思っていた人たちに、これまで通り接せられる。やはり信じても良いのだと思える。
 俺ですら蔭杜の家で暮らしていた短い時間を振り返ってはやるせない気持ちになっていたのだ。美丈夫なんてまして辛い思いをしていたことだろう。
 立川さんたちが帰った後、美丈夫は昨日見せていた殺伐とした空気を完全に消していた。
「ほっとしたじゃろう」
「はい」
 美丈夫は再びソファに座っては深く息を吐いた。だが溜息ではない、穏やかな呼吸だ。
「うちで暮らしている人はみんな良い人ばかりだと思ってました。信頼もしていたし、優しい心根だと実際に感じていたんです。でも万が一ということがあります。俺には優しくても他の人に対しては違うかも知れないと、疑ってはいました」
「それは辛いことじゃな」
 新しく紅茶を入れ直して、美丈夫の隣に座る。しかし立川さんが帰ったので何も隣に座るのではなく正面に座れば良かったのだ。
 しまったな、と思ったのだが美丈夫が笑いかけてきたので、なんとも動きづらくなってしまった。
「ですがどこにも敵意も悪意もなかった。あったのは子どもの優しい勇気です」
「そうじゃな。ここは安心出来る場所じゃ」
 安寧の地が揺らぎそうになった美丈夫にとって、今回の結果は自分が信じてきたものが守られた結果だ。表情が緩むのは当然だろう。
「貴方にとってもそうであることを、これから証明していきたいと思います」
 美丈夫にとって安全でも、自分にとってはどうか分からない。
 そんな考えを胸のどこかに抱いている俺を見透かしたように、美丈夫はそう告げた。ここに貴方の敵はいないのだと、そう強く語りかける美丈夫に俺は紅茶に口を付けることで答えを濁した。
「信じて頂けるよう、俺も尽力します」
「……こればかりは、一朝一夕では出来ぬことじゃからな」
 沈黙を続けることを許されず、俺は曖昧な返答をした。
 蔭杜の家の中で俺を厭う者がいてもおかしいとは思わない。邪魔だと思って排除したがるのも仕方がないかと思っている。
 それは諦めの気持ちではなく、冷静に考えればそういう人がいるのが自然だという、俺の理性的な判断なのだが。美丈夫はそれを受け入れないのだろう。
「上総さん」
 ティーカップをソーサーに置いたのを待っていたのだろう。美丈夫がそっと抱き締めてきた。隣に座ったのはやはり失敗だったのでは、と気付いてもすでに遅い。
「キスがしたい。でも熱がまだ完全に下がっていないのが無念です」
「そうか。移してはならんからな、キスなどするべきではない」
 風邪であったのならば移してはいけないと、マスクをすることを求めてきた美丈夫だ。キスなんて感染率が高い行為は愚かしいことだと分かっているだろう。
 こうして抱き締めることも良くないのだが、それは我慢が出来なかったのか。これくらいはもう大丈夫だと甘いことを思っているのか。
「あまりにも悔しいです。熱が完全に下がった後日、必ずさせて下さい」
「善処しよう」
 日本人の言う善処は本来の善処の意味とはほど遠い、ただの断り文句であると誰か言っていたような気がする。
「そしてもう一つ。貴方に母性を感じたと言いましたが訂正します」
「そうか。それは賢明なことじゃな」
「子どもにも優しい貴方に母性というものが見えるような気はするのですが、母性を感じる相手に肉欲を抱くわけがない」
「…………その単語は、かつて聞いたような……聞きたくなかったような」
 そういえばこの男、俺に肉欲を抱くという爆弾を投下してくれた。記憶の片隅に封じ込めて出したくないものなのだが、度々出して来るのが困る。
「やはり慈愛をすぐさま母性に結びつけるのは早計だと思い知りました。愛情の種類は複雑で、もっと思慮深く答えを見付けなければいけない。俺はまだまだ未熟でした」
「ああ、何をどう考えておるのかは一切追求はせん。じゃからさっさとベッドに帰れ。熱に浮かされて譫言が酷い」
 母性だの愛だのということを熱烈に語っている美丈夫の背中を軽く叩く。昨夜の譫言もかなり突飛なものだったが、今夜も正気を疑いたくなるような内容だ。
 少なくとも正常な思考回路を持っていたとすれば、真面目に喋ろうとは思わないはずだ。
 しかし美丈夫は俺の台詞に不満そうな目を向けてきた。
「熱はすでに下がってます」
「おつむりにこもっておる!」




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