美丈夫の嫁8 7 自宅から母屋に行くことはほとんどない。用事がない上にふらふらしていて國朋さんに出会うと何やら言われて面倒になるからだ。 顔を合わせなくて済むならば、出来るだけ避けたい。それが双方のためにもなるだろう。 けれどその時は、環さんがうちに来た時に忘れていったカーディガンを届けるため母屋に行った帰りだった。 本を借りに来た環さんが、防寒のために持って来ていたカーディガンをそのまま置いてしまったのだ。しっかりとした理由がある上に、環さんのためなので國朋さんに出会しても文句は言われないだろうと思っていた。 無事にカーディガンを届けてほっとしていると、思わぬ人に声をかけられた。 「上総さん、ちょっといいか」 振り返ると美丈夫の父親がそこにいた。同じ敷地内に暮らしているのに、顔を合わせることはほとんどなく、失礼かも知れないが驚いてしまった。 美丈夫の父親が、普段は自宅におらず国内外を飛び回っているせいだ。実際、前に会ったのも二ヶ月近く前の話になる。 何故かアロハシャツというかなり突飛な格好をしている父親は、俺を手招きしている。呼ばれては断ることも出来ない。 「何でしょう」 「時間あるか?」 「はい。今日は休みですので」 休日の昼間だ。美丈夫も大学に行っており、あの家には俺しかいない。特に何かを気にすることもなかった。 「じゃあ俺の部屋でちょっと茶をしよう」 茶をしようと言われて一瞬身構えた。 もしかして茶道のことか。この家には茶室も備わっている。 だが俺はそんな雅なことは一切分からない。当惑している俺に構わず、父親は先に歩き出してしまう。 (茶室ではありませんように!) 祈るような気持ちで後に続くと、辿り着いたのは父親の自室だった。 茶室でないことにほっとしたけれど、母屋の突き当たり、和風建築の家であるにもかかわらず重厚な洋風のドアがそびえ立つ光景には緊張させられる。 「狭いところで悪いな」 父親の部屋は、内装が全て洋風だ。映画でよく見る西欧の少しばかり古めかしい書斎のシーンを丸ごとここに持って来たかのような雰囲気が漂っている。 飴色のどっしりとした造りの書斎机を前に、背の低いテーブルと革張りのソファが置かれているのだが。そこに座るように勧められて溜息を殺した。 机だけでなく壁際の本棚やチェストなどもアンティーク家具であろう。壁に飾られている絵画に至ってはどんなものであるのか考えたくもない。 (俺は何故ここに連れてこられた……) 何かしてしまっただろうか、と自分を振り返っていると、父親は書斎机の上に置いてあった電気ポットでコーヒーを入れている。そこはしっかり現代の利便性を活用しているらしい。 「私がいれます」 立場というものを考えれば、父親より俺の方が雑用をこなすべきだろう。そう思って腰を浮かすのだが、父親は「いいよ」と軽く笑った。 「ここではあまりそういうことは気にしないでくれ。こちらも気を遣ってしまって疲れる」 (……この部屋は、別なのか) 和を重視した造りになっている母屋の中で、この部屋だけが完全に洋風で作り込まれているのは、そういう意味でもここだけは隔離したいという気持ちがあるのかも知れない。 同時にこの部屋の外で、この人はきっと完全に気を抜くことはないのではないか。そんな風に思えた。 父親はここに人を呼ぶことをあらかじめ想定していたのだろう。机の上にはトレーとカップ一式が二つ揃えてある。 「うちの蔵に閉じ込められたらしいな」 コーヒーを出され、父親が向かいに腰を下ろすとまずはそう切り出された。 つい先日のことを誰かに聞いたのだろう。もしかすると環さんかも知れない。 「事故です。故意でそうなったわけではありません」 「環から聞いている。それでも申し訳ないことをした」 「ご本人と親御さんから謝罪を頂いています。その上誉さん、環さんにも頭を下げられました。これ以上の謝罪は受け取れません。多すぎます」 蔭杜の直系全員に謝られるほどのことではない。ただの事故であり、悪意がない以上謝罪が重ねられていくことは心苦しい。 (そのために呼び出したのか) 大袈裟なことだ。俺が蔵の中で倒れていたというのならば大事だろうが。暢気に読書をしていただけなので、深刻になられるのも困る。 (体調を崩したのは美丈夫の方じゃしなぁ) 心配をしてやるならば、そちらだったのだ。 そう思うと、俺は目の前にいる父親に対してざらりとしたものを覚える。 浮かんでくる言葉は、父親に告げるには随分失礼なものだった。付き合いのとても浅い、面と向かって会話したことが一体どれほどあるだろうかと思うほどの関係。まして親子ほど年が離れてしまえば、聞く耳を持って貰えるかどうかも分からない。 けれどあの夜に握った美丈夫の熱い手が思い出されては、どうしても黙っていられなくなった。 「私が蔵に閉じ込められた直後、誉さんが高熱を出して寝込みました」 「……それは、知らなかった」 父親はカップを片手に軽く目を見開いた。本当に初耳なのだろう。 「誉さんは寝ていれば治ると言っていました。実際一晩で熱は下がりはしたのですが。蔭杜には専属に近い医者がいると聞いています。その医者に診て貰えばどうかと勧めました。ですが彼はそれを頑なに拒んだ」 父親は黙って俺の話を聞いてくれている。真剣な面持ちから、この人が息子を邪険にしたいわけではないと感じられた。 「体調を崩していることを誰にも知られたくないからだそうです。体調を崩せば、周りの人が心配する。心配はかけたくないから、黙っていて欲しいと。自分は健康で頑丈だから放って置いても大丈夫だとすら思っている様子でした。本人の様子や、少し話を聞いたところから、子どもの頃からそうだったんだろうと、俺は思っています」 美丈夫を育てた父親は、それに溜息をついた。 「差し出がましいことを申し上げているとは思います。ですが、誉さんが体調を崩された際には医者をお呼びしてもよろしいでしょうか。こちらから出向くのが筋だということは分かっているのですが、誉さんは自ら医者に行くようには思えません」 医者に行こうと言っても、美丈夫は不要だと言い張るだろう。ならば呼んだ方が確実だ。 一般家庭ならばともかく、ここには半ば専属の医者がいるのだから。使わない手はない。 「医者に関しては誉が何と言っていても、貴方が必要と思った時に呼んで貰って構わない。いや、むしろ呼んで欲しい。あいつは自分ではよほどのことがなければ呼ばないだろう」 「俺もそう思います」 同意すると父親は目頭を一度押さえた後、憂いを帯びた瞳で俺を見る。 「誉は子どもの頃からよく出来た子だった。姉が病弱で俺や家の者たちはそちらにかかり切りになることが多く。母親は自分どころか姉のことすらも顧みずに好き勝手家の内部を掻き回していた。そんな中であの子は歪むことなく、本当に真っ直ぐに育ってくれた」 出来すぎた子。 そう語る父親の言葉は褒め言葉でも何でもない。まさにそのままだった。 俺の目からしても、美丈夫はまさに出来すぎた男であるように。 「住み込みのお手伝いさんたちには出来るだけ誉を気にしてやって欲しいとは言っていたが、やはり欲しいのは家族の、親の愛情なり注目だろう。だが俺も妻も、幼いあの子に十分なものを与えられた自信はない。だが誉はぐれることも、拗ねることもせずに優しい人間になってくれた。今もそうだ」 「はい」 「普通、そんな幼少期を過ごせば寂しさのあまりぐれたり、性格に難のある人間になりそうなものだ。人の注目を欲しがって警察沙汰になるなり。うちは一応金持ちでもあるから金遣いが荒くなったり、悪い連中と付き合ったり。そうでもなけりゃ社交性が一切無い引きこもりになるとかな。そうなってもおかしくないだろうに、あいつはそういうところが全く無い。どうして俺の息子があんなにも出来た人間なのか、俺には分からん」 息子自慢であるはずなのに、父親は実に不可解そうな顔をしていた。 実の子がこれほど立派に成長すれば喜ばしいものだろうに。子どもの頃にしっかり手をかけてやれなかった負い目があるせいか。 (鳶が鷹を生むということもある。なんてことは、さすがに言えんな) それにこの父親も蔭杜の家をしっかりと取り仕切っているのだから、十分に出来た人間であるはずだ。 「いつかどこかで爆発するんじゃないか。これまでずっと良い子でいた反動で、出来すぎた蔭杜の長男なんて顔を脱ぎ捨てたくなるんじゃないかと思っていた。だが妻が亡くなり環の身体が良くなって、我が家が平和になってもあいつは不良になることすらない。そのまま順調に二十歳まで育ってきた。さすがに未成年の頃に爆発されれば親の役目として色々やってやれるが、成人されると犯罪関係はまずいなと思っていた」 (犯罪でも未成年なら何とかしていたのか……) それくらいの覚悟を持って息子を見守っていたと思うと、この父親もなかなかに器が大きいというか。未来に対する不安を異様に強く持っているというか。 良くとらえるならば、危機管理能力が高いというべきかも知れない。 「その矢先だ。誉が貴方と結婚したいと言い出した。俺はようやく来たかと思った」 「来た、というのは」 「貴方が誉の爆弾になるかも知れないと思ったんだ。ようやくあいつも出来すぎた息子ではなく、一人の人間としてこれまでの溜まりに溜まっただろう鬱屈を吐き出すのかとな。大体しきたりだの何だのと言っても、男が男の嫁を貰うなんざおかしいだろう。従わなくていいってのは散々言ったんだ。なのにあいつは男の嫁が欲しいと言い出しやがって、一体どんな相手かと思った」 「俺がとんでもない人間じゃないかと、そう思ったんですか?」 「思った。というよりその方がいいと思ったんだ。せめてあいつにはそれくらいの権利があるだろう。子どもの頃からずっと我慢を強いられて、結婚まで同性相手だなんて、あいつの気持ちはどうなる。侮辱に近いような扱いだ。だからとんでもない最低な男を連れて来て、蔭杜を無茶苦茶にしてやる、というくらいの反骨精神を持っていてもおかしくない。俺だったらそうする」 (この人は基本的に過激なんだな……) 「なのに貴方は実に大人しく、誉にも蔭杜にも従って人畜無害の見本みたいだ」 「……それくらいしか出来ないもので」 「人当たりも悪くはない、だがそれほど良いということもなく、さらりと全てを流して掴み所もない。正直、誉の嫁としては有り難い存在だよ。毒にも薬にもならない程度が、こちらにとっては都合がいい」 「そうですか」 「だからこそ、余計に俺は誉に対して、それでいいのかと思っていた。誉は貴方に随分惚れ込んでいるようだが、蔭杜にとって都合が良い相手だから執着しているんじゃないと疑う部分もあった」 (俺もそうであればと思いましたよ) 俺が蔭杜にとって都合が良いから。だから美丈夫は俺を嫁にしたのであり、嫁という場所を埋めて置くための飾りでいて欲しいのだろうと。 けれど最近、そうではないのかも知れないとは思い始めている。 個人的な感情がそこに含まれているのではないか。でなければ、肉欲だの何だのと言って身体を求めることもないだろう。 「だが今分かったよ。あいつは、自分のために貴方を求めた。生きていくために貴方が必要だと感じたんだ」 「何故、ですか」 「きっと貴方なら気付いてくれると思ったんだ。あいつの変化に、弱さに気付いてくれる」 「体調を崩したのに気付いたことなら、俺じゃなくても近くにいれば他の人にも分かったはずです」 「あいつは体調を崩したことを気取らせはしなかったかも知れない。おそらくそうだ。貴方だからこそ、気付いて欲しいと思ったからこそ、ひた隠しにしなかった。本当に気付いて欲しくないなら、熱を出したと分かった時から、貴方には近付かなかったかも知れない」 近くにいれば誰だって気付く。だが近くにいなければ。姿を見なければ。それは分かるはずもないことだ。 そして父親が語るそれは、美丈夫がこれまで繰り返してきたことなのではと想像させるには、十分なものがあった。 「誉は家族じゃなくて、貴方にSOSを出すことを選んだ」 父親はそう言っては肩を落とした。 気付けなかった。気付かせて貰えなかった家族としての寂しさがそこにはある。 父親としての無力感に苛まれているのかも知れない。 人には背負えるものに限界がある。同時に手に取れるもの、見えるものだって限られている。たとえ愛おしいものがたくさんあったとしても、全部を選び取ることは出来ない。 美丈夫が子どもだった頃、父親は息子の手をしっかりと掴んで見詰めることは出来なかった。 少なくとも本人にとってはその後悔があるのだ。 (やるせないな) 愛している、愛したかった。けれど十分にそれが出来なかった。状況がそれを許さなかった。 息子もそれを分かっているだけに、取り返すことも出来ずにここまで来てしまった。 息子が自分ではない相手に救いを求めた事実に、もしかすると父親は打ちのめされているのかも知れない。 「貴方には申し訳ないが、誉は貴方に決めたんだろう」 父親の台詞に、俺は何と答えて良いものか分からなかった。決められたということがどういう意味なのか、その時には予感することも出来なかったのだ。 了 |