美丈夫の嫁8 5





 熱に浮かされては俺に母性を語った美丈夫を速やかにベッドに放り込んだ。起きていてもろくなことはないと思ったからだ。
 さすがに今日は同衾するわけにはいかない。美丈夫にも自室のソファベッドで寝ることを承知してもらった。同衾にこだわる美丈夫も、さすがに病人と共寝をしてくれとは言わなかった。
 むしろ夏風邪が移るといけない、と自ら距離を取ろうとしてくれた。その辺りの判断は誤らないらしい。
 度が過ぎる我が儘を言うたちではないのだろう。
 就寝する前、気になって美丈夫の様子を見に行く。部屋を分けると風邪は移らないけれど容態が変化した時に気付けないという問題がある。
(夜中にも様子を見に行った方が良いじゃろうな)
 アラームでもかけて確認しようか。何せ本人は体調を崩しても黙って耐えることしかしないらしい。容態が急変しても呼んでは貰えない気がする。
 そう思いながらそっと寝室のドアを開ける。
 音を立てないように注意したのだが、中に入ると美丈夫が寝返りを打った。
 枕元に寄っていくと美丈夫は目を開けており、俺を見上げてくる。
「起こしたか?」
「いえ、起きてました」
「寝付けぬか?」
「少し……」
 身体は疲れているようだが、精神的には弛緩出来ていないのかも知れない。心配事があると眠気がなかなか寄りついてこないものだ。
 今の美丈夫にはその手の悩みがたくさんあることだろう。安心して寝ろというのは簡単だが、素直にそれに従えるとも思えない。
「何かして欲しいことは?」
「……上総さん、マスクはお持ちですか?」
「どこかにはあったと思うが」
 冬場は通勤時にマスクをつけている。防寒にもなる上に風邪予防にもなるからだ。なので大量に買い込んでおり、結局冬が終わるまでに使い切ることが出来ずに次のシーズンまで持ち越していた。
 なので自室のどこかに片付けているはずだ。
「喉が痛いか?加湿器を付けようか?」
 先ほどまで雨が降っていたので湿度はあるかと思い、加湿器は付けていない。けれど喉が痛いのならば付けようかと思ったのだが、すぐに「違います」と止められる。
「少しだけ、ここにいて欲しいんです……でも感染してはいけないので」
「なんじゃそんなことか。この夏場の湿気の多い時期に感染なぞせんわ。俺は健康体じゃ」
 乾燥して温度と湿度の低い冬場ならばともかく、これほど湿度の高い夏の日に感染など気にしなくても良い。まして俺の体調は今万全と言える。
(高熱でぼーっとしておるのに、そんなところまで気を遣うか)
 妙なことを口走っていたので、てっきり思考回路は熱で暴走しているのだと思ったが。配慮する気持ちはしっかりと機能しているらしい。
「細かいことを気にするな。病気の時くらい頭も休めよ」
 そう言って俺はベッドの端に腰を下ろした。二人横になっても十分にゆとりのあるベッドは俺が腰掛けたところで美丈夫は狭さを感じないだろう。
「具合が悪いことに自分自身気付いておったのではないか?」
「……今朝から、妙だと」
「俺は何も聞いておらぬぞ」
 今朝の美丈夫の様子を思い出しても、平常時と何ら変わりがなかったように思う。顔色も言動も違和感を覚えた瞬間がない。
 朝食もしっかり食べて足取り軽く大学に行っていた。
「大したことではないと思ってました」
「雨の中、俺を捜してびしょ濡れでうろうろしたせいか。養生しておれば良いものを」
 具合が良くないという自覚があるのならばせめて濡れなければ良かっただろうに。身体を濡らすことがどれほど体温と体力を奪って、体調を崩させるのか分からないほど愚鈍ではないだろう。
「貴方がいないのに、養生なんてしていられません。生きた心地がしなかった」
 大袈裟なと言いたいところだが、扉が開けられた時に見えた美丈夫の顔はまさに悲愴そのものだった。他の人間が言ったならば笑い飛ばすところだが、この人相手には出来ないものがある。
「それに身体は本当に頑丈だったはずなんです」
「誰だって具合が悪くなる時はある。過信せんことだ」
 美丈夫は蔭杜のことだけでなく自身のことに関してもちゃんと管理をしようとしている節がある。睡眠時間も食事も計算されている言動が見受けられるからだ。
 健康管理も義務の内だとでも思っていそうだ。
 だからこそ自分を頑丈だと言うのだろうが、人間なのだから弱ることもある。自分を信じるのは良いけれど、信じるあまり無茶をするのは良くない。
 年長者として偉そうなことを言うと、美丈夫は苦笑いをした。そしてそれっきり口を閉ざしてしまう。
 静けさが流れる。だが美丈夫がここにいて欲しいと言うのだから動くことは出来ない。薄暗い部屋の中で二人分の呼吸を聞いていると、僅かに息を吸い込む音がした。
「子どもの頃……」
「うん」
「姉がずっと病気がちで」
「そうだったらしいな」
 ゆっくりと喋る美丈夫からは躊躇いが伝わってくる。
 逐一相づちを打たなければ、語ろうとしていた何かを引っ込めて、曖昧に濁してしまいそうだ。きっと愉快なことではないだろうそれを俺は吐き出して欲しかった。
「父も家の人たちも、勿論医者も、みんな姉にかかりきりで。でもそれは仕方がないことでした。姉はいつも辛そうで、それに比べて俺は健康だから、俺まで病気になったらみんなが嫌がる。自由に動き回って好きなことが出来る俺が、みんなに面倒をかけることなんて出来ないと思ってました」
「子どもはよく体調を崩すもんじゃろう。誰も責めたりせん」
「そうかも知れません。いえ、きっとそうなんだと思います。俺が熱を出してもきっと誰も責めなかった。でもあの頃はみんなぴりぴりしてて、とても言い出せなかった」
 現在の蔭杜は随分と穏やかな雰囲気が漂う家になっている。
 敷地が広く、ここに働いている人も両手では足りないほどいるのに、人間関係の摩擦を感じさせることなく、にこにこと過ごしている。それが偽りでないことは彼らから漂ってくる空気でなんとなく分かる。
 いがみ合っている人間同士はいくら笑顔で接していても空気がギスギスしてしまうものだ。それらがないということは、心地良い関係を結んでいるのだろう。
 職場でもあり私生活の場でもある家の中で、穏やかに過ごすことが出来るのは個々の性格の豊かさでもあるが。雇い主である蔭杜の人々の人格や采配が良いからでもあるだろう。
 上がしっかりしていなければ、下は能力を十分に発揮することは出来ない。安心して働くことも難しくなる。
 俺の目からしてこの家の空間は、実に良く出来ている。
 けれどそんな蔭杜の家も、環さんという要が病に伏せている頃は穏やかさとはほど遠かったのだろう。
 心配や不安は肌に刺さる。小さな子どもならばましてのことだ。
 美丈夫にとってその頃の家というものは窮屈なものだったかも知れない。
「元気なふりをしているとみんな喜びました。だから、それで良かったんです」
 大人の顔色を窺って、大人が喜ぶ振る舞いをして、自分をひた隠しにする。
 状況や周囲の機嫌を感じ取れるからこその、健気な努力だ。同時にそうして自分をコントロール出来る子どもはずっと我慢を自身に強いては、吐き出す先がなくて溜め込んでいくのだろう。
 次第に重くなっていくそれに、押し潰されそうになったことはないのか。
(志摩とは八つも年が離れておった俺ですら、その寂しさを知っている)
 両親が自分に構ってくれない、小さな妹ばかり気にして、自分を見てくれない。
 年齢差を考えれば当然のことなのだが、小学生だった俺はそれを不満に思ったこともあった。いじけて両親を困らせたこともあった。
 美丈夫の場合は、もっと深刻だっただろう。
 拗ねることもいじけることも出来ないのだ。環さんのことを思えばそんな可愛らしい我が儘は出せなかったのだろう。
「おまえさんは幼い頃から苦労をされておるな」
「苦労とは思いませんでした。大切にされている分、俺はそうするべきだと思ってました。そしてそれは今振り返っても正しいことです」
 まるであらかじめ決められている文書を読み上げるかのように、美丈夫はそう口にする。本社に送るメールの文面を思い出すほどに固い物言いだ。
(ずっとそう思い込んで一度も疑わずにいたかのように)
「じゃが小さなおまえさんが自分を隠していたことに気付いた者は、切ない気持ちになったのでは?」
「だからバレてはいけないんです」
「なるほど、おまえさんの考え方がよく分かる一言じゃな」
 ひた隠しにしていた事実はそのまま無かったことにしてしまえば良い。
 そうすれば誰も罪悪感を持つことはない。美丈夫本人も周囲を心配させずに済んだと満足する。
 罪はバレなければ成立しないのと同じ。誰にも気付かれなければ、体調不良などではないのだ。少なくとも美丈夫にとっては、具合が悪い場合とは他人に気付かれた時だけだ。そうでない時はずっと健康なままだ。
 精神力が実際の体調を無視させた形になるだろう。
 我慢強さが、美丈夫にあまりにも厳しい道を選ばせた。
(そしてこの人は、その道を歩き続けることが出来てしまった)
「でも体調を崩すと苦しいことは苦しいんです。だから健康は大切だと思い知ってますし、身体には気を付けて生活をしていたつもりなんですが。油断しました。すみません」
 謝る美丈夫は本当に申し訳なさそうで、聞いている方が胸が痛くなってくる。
 この人は子どもの頃からずっと我慢を強いられてきて、ずっと自分を押し殺してきた。それだけでも十分過ぎるほど不憫だというのに。未だに体調を崩したことに、こんなにも罪悪感を抱かなければいけないのか。
「環さんも今は体調が落ち着いておられる。おまえさんが寝込んでも誰も責めたりせぬ。むしろ黙っておるほうが良くない」
「しかし、面倒でしょう」
「こんなことは面倒だと思わん。たまには人に世話をかけよ。周りの人たちにとってもたまには世話を焼かせて貰わなければ寂しいじゃろう。おまえさんは何もかも一人でやってしまうから尚更じゃ」
「……上総さんは、そう思って下さいますか?」
「思うよ。年の割にしっかりし過ぎなんじゃ。それが生き方じゃ、蔭杜の長男の役割じゃと言われると俺には何も言えぬ。けれどな、見ておるとハラハラするよ。そういう者がおまえさんの近くにいることを知っておいてくれ」
 二十歳という年齢で抱え込むには重すぎることが、たくさん美丈夫にのしかかっていることだろう。それが蔭杜の直系の宿命だと言われると、所詮他人の俺には言い返すことは出来ない。
 だが心配している、案じている者がいることだけは分かって欲しい。
 休みたいと思った時、微力ながらも肩を貸したいと思っている存在が目の前でちゃんと美丈夫を待っている。
「ありがとうございます」
 御礼は言うけれど、今後もし同じように体調が悪くなる気配を感じた時、美丈夫はちゃんと隠さずに養生するだろうか。周りの人間に具合が悪いのだと、口に出来るだろうか。
 可能性は、きっと高くない。
「もう少しだけ、いてくれますか?」
「いるよ」
 小さな声で願った美丈夫に俺はすぐに答えていた。
(ずっといて欲しいとは言わんのじゃな)
 同衾することにこだわった男が、病に伏せって気が弱くなっている時にそれを求めてこないのは、憐れみすらも覚えてしまう。
(母性など俺にはない)
 こんな風に美丈夫の話を聞いてそばにいることが、美丈夫にとっては母性のように感じるのかも知れないが。だがこれはただの世話焼きだ。
 だがこの人はその世話焼きが欲しかったのだろう。
(……心配をかけた人の中に、母親は出て来ぬままじゃったな)
 美丈夫の母親は現在は亡くなっているけれど、幼少期はまだ健在だったはずだ。
 しかし美丈夫は母親のことを語らない。
 俺が耳にしたことのある美丈夫の母親の話は、姉に対して酷い仕打ちをしたというものだけだ。環さんも母親については何も言わず、姉弟にとって実の母親は恋しいものでないことは確かなのだろう。
 美丈夫は家庭的なもの、特に慈愛を感じられるものに飢えているのかも知れない。子どもの頃に欲しくても求めるどころか口にすることすらも出来なかった気持ちが、身体が弱って自制心が緩んだタイミングで出てきたのかも知れない。
(だからといって、俺に母性を感じるというのはどうかと思うが)
 高熱を出すと人間の思考回路は随分おかしな働きをするものであるらしい。
 美丈夫は俺が腰を落ち着けていることを確認すると目を閉じた。次第に呼吸は深くなっていく。
 眠ろうとしている気配を感じては、寝室の薄暗がりの中で部屋を見渡した。ここに来て何ヶ月になるだろうか。相手の生活習慣をほぼ全て把握しているだろうと思えるほどに一緒にいる。
(でも俺たちは、自分のことはあまり語らない)
 きっと互いのことはまだ何も知らないままだ。




next 


TOP