美丈夫の嫁8 4





 美丈夫は俺が入れたスポーツドリンクをようやく一口飲んだ。それは決意を言葉にするための準備のように見えた。
「今回のことに関しては必ず犯人を見付け出して再発防止に努めます」
「……あまり考えたくないことじゃな」
 鍵を閉めた者がいる。しかもこの蔭杜本家で暮らしている誰かの中に。
 日頃親しく接している人たちを思うと気持ちは沈んでいくばかりだ。きっと美丈夫も同じ、いや俺なぞよりもずっと長い間一緒に暮らしているのだ。その人たちを疑いの目で見るというのは精神的にとても辛いことだろう。
 先ほどから感じられる色濃い憂いは、身近にいる人たちの罪を暴いては罰しなければいけない痛みと重圧のせいだ。
(この人は、従える側の人間だ)
 犯人を見付け出して終わりではない。そこからどう対処するのか。もし悪意があった場合はそれをいかに始末するのかも考えなければいけない。
 環さんや父親に判断をゆだねるのが筋かも知れないが。俺が関わっているだけに、美丈夫は妙に責任を感じるのではないだろうか。
「考えたくはありませんが、やった者は必ずいます」
「そうじゃが……わざとではないやも知れん。たまたま開いていたから、だから」
「俺はあの蔵を開けておくことを伝えています。まして、中に人がいるのかどうかも確認せずに閉めるなど、それこそここの人たちには考えられないほどの浅慮な行為です」
 うっかりということも、と思いたい俺を止めるようにして美丈夫は厳しいことを言っている。
 そうして甘い未来を潰すことによって残酷な可能性ばかりが浮かんでくると、知っているはずなのに。
「上総さんが悩まれるのも分かります。ここの者はよく働き、気配りが上手く、穏やかな人柄の人たちばかりです。俺も信頼を寄せて、これまでずっと身内として接してきました」
「そんな者でも出来心はある。魔が差しただけやも知れん」
「だからといって、こんなことをする者を許してはいけないんです。今日は涼しかったからまだ良かったけれど、少し前まで気温が高く猛暑だと言われていたんですよ。閉じ込められれば命に関わります」
「蔵は涼しかったが……まあ、万が一ということもありはするが」
 数日前まで木陰でじっとしても汗が滲むような猛暑だった。もしあの頃の真っ昼間に蔵へ閉じ込められたら、さすがに暢気に読書というわけにもいかなかった。
 土蔵は湿気に強く通気性が良い。ましてここの土蔵は木陰になりやすく日が照る時間も少ない。自宅にいるより涼しい構造になっていた。おかげで俺は快適に過ごせたのだが、それにも限度というものがあるだろう。
「そんな危険なことをする者を放置してはおけない。俺たちは共同生活をしています。信頼がなければ安心して暮らせない。これは俺だけの問題じゃないんです」
「蔭杜の問題か。そうじゃろうな」
 安全が脅かされる、信頼が崩れる、他の人にも示しが付かない。上に立つ者の意識が美丈夫にその決意をさせているのだろう。
「すみません」
「おまえさんが謝ることじゃない」
「貴方をここに呼んだのは俺です。もし貴方が中にいるからと知っていて、蔵を閉めた者がいるとすれば、それは俺のせいです。俺が貴方を危ない目に遭わせてしまった」
 申し訳ありません、と美丈夫が頭を下げる。俺はここに来て、この人が頭を下げているところを何度見て来ただろうか。仕事上、客に頭を下げることが日常である俺だが、人に頭を下げられるのはどこか苦手だ。
 まして罪悪感と責任感を大量に詰め込んだ謝罪は受け取るのが重たい。
「危ういことがあるやも知れんということは、ここに来る前から覚悟しておる」
「上総さん」
「そういうお家柄じゃ。剣呑なこと、恨みを買うことは当然あるものとしてここにおる。俺の周りにいる人があまりにも良い人ばかりで、俺は腑抜けになっておった」
「そんな心配をさせるわけには!」
「人の心は縛れんよ」
 美丈夫がどれほど周囲に気を遣って無害そうな人たち、俺にとって安全な人ばかりを選りすぐっていたとしても、人の心の奥までは読めない。
 まして人の心は毎日移り変わるものだ。いつどんなきっかけで暗い思いが湧いて来るかなど、誰にも分からない。
「俺は男じゃから、周りの人たちはおまえさんの本当の嫁になるわけがないと思っておるはずじゃ。だからいつもは平和に暮らせておる。もし俺が女であったなら、おそらくは」
「そんなことはさせません!今の俺が言っても説得力がないことは分かっていますが!」
「じゃから、おまえさんは気負い過ぎじゃ」
 俺がもしも、という話をしただけで美丈夫は必死になっている。本当の嫁が来たならば周囲の妬心は激しいものだろうなんて話は、今の美丈夫に対しては意地の悪いものだったかも知れない。
「俺は男で、かりそめで、お飾りじゃ。おまえさんの気持ちはそうではないとしても、周りはそう思っておる。だからさほど酷いことは起こりはせんよ。今回だって、鍵が開いていたから閉めた。それだけの単純なことかも知れん。悪意はないと、そう考えることも出来るわい」
 たとえ俺たち二人ともがその答えに納得出来ないものを感じていても、可能性としてはあるのだから。
 悪いことばかりに沈み身近にいる人たちに対して疑心暗鬼になっている上に、自分を責める美丈夫をこれ以上苛むこともない。
「悪いことばかり考えるのも疲れる。おまえさんは風呂に入れ。その間に飯を作る。さすがに腹が減った」
 この話は一端ここまで。そう俺が宣言すると美丈夫はテーブルにグラスを置いた。そのまま風呂に行くかと思っていたのだが、不意に抱き付いて来た。
 先ほどからよく抱き付いてくるものだ。
 服がしっとりしているせいか、多少冷たく感じるのに、すぐに体温が伝ってきてはぬるく変わっていく。
「貴方は優しい。そこまで人を許して。俺の心配までして。全部俺のせいなのに」
「そんなことはない。そうじゃない」
 美丈夫は俺を良いように解釈しているだけだ。
 鍵を閉められたことを深く考えたくないのは、身近にいる人の悪意に晒されているかも知れないと思うのが苦しいからだ。もしかしてずっと恨まれていたのかと思うと、これまでの生活が全て滑稽になる気がして、考えたくないだけだ。
(俺は目を逸らしておる)
 優しさなど俺にはない。
 その後ろめたさに、そっと美丈夫を引き剥がそうとした。しかし美丈夫が体重を預けるようにして寄り掛かってきているので、軽く押した程度ではびくともしなかった。
(重い)
 いつもならこれほど体重をかけてくることはない。
 不思議に思いながら美丈夫の背中を軽く叩く。離してくれという合図に美丈夫がくらりと体勢を崩した。
「おい、おまえさん」
 とっさに美丈夫を抱きかかえると、掌から伝わってくる熱の高さに驚かされる。もしやと思い美丈夫の額や喉元に触れると、異常な熱さが感じられた。
「熱を出しておるな!?顔色が悪いとは思っておったが、こんな高熱でよく動き回れたもんじゃ!早う風呂に入って身体をあっためよ!そしてベッドに入れこの馬鹿者!」
 俺のことなど気にしている場合か、と叱りながら美丈夫を風呂場に向かわせる。濡れた身体ではこのままベッドに入ることもままならない。
「大丈夫です、と言いたいのですが……」
「言えんな!?言うたら殴るところじゃ!」
 強がりが言えるような状態でないことくらいは分かっているらしい。
 俺を捜すのに夢中になって、自分の体調すらも分からなくなっていたのか。分かっていても言い出せなかったのか。どちらにせよ、無茶をするものだ。
 俺は美丈夫を脱衣所に押し込んでは深く溜息をついた。



 美丈夫が風呂に入っている間に雑炊を作っては薬箱から風邪薬を取り出し悩んだ。あれは風邪で正解なのだろうか。夏風邪が流行っているというのは職場で聞いていたけれど、素人判断では心許ない。
 美丈夫は思ったより早く風呂場から出て来た。しっかり髪の毛も乾かしており、風呂に行く前よりも状態はましになったように見える。
 けれど身体が重いのか、怠そうに動いているところは変わりない。よくさっきまで俺とあんなにもしっかり会話が出来ていたものだ。
「雑炊を作ったんじゃが。その前に医者を呼ぶか?蔭杜には専属の医者がおるじゃろう」
「姉の専属です」
「おまえさんも診て貰うことは出来んのか?」
 環さんは子どもの頃から身体が弱く、医者の世話になりっぱなしだったらしい。入退院を繰り返していた時期もあったのでかなり重病だったのだろう。
 そのため医者が常に蔭杜の家にいたようだ。現在ではもうすっかり身体も良くなり、医者にかかる率も低くなったので同居はしていないようだが。隣家が個人病院であり、呼べばいつでも駆け付けてくれると聞いていた。
 環さんではなく美丈夫であっても蔭杜の直系だ。医者も診てくれるのではないか。姉は良くて弟は駄目だなんて区別する必要性もないだろう。
「余計な心配はかけられません」
「おまえさんが体調を崩したことは、余計なことではない」
 重大なことだろう。そう叱ると美丈夫は少し笑ったようだった。
「大丈夫です。俺は頑丈ですから」
「頑丈な者は高熱なぞ出さん」
「すみません」
 謝って、美丈夫は黙り込んでしまった。医者は呼ばないでくれという願いを引っ込めるつもりはないのだろう。
「頑固に医者は呼ばんというのか」
「はい」
「では薬でも飲んでさっさと寝ろ」
 溜息をついて雑炊をテーブルに出してやると、美丈夫は大人しく席について手を合わせた。
「上総さんは?」
「後で食う」
「すみません、わざわざ作って頂いて」
「作りながら味見をして、多少腹も膨れた。病人がそんなことを気にするもんじゃないわい」
「……上総さんは、志摩さんやお義母様もこうして看病されたんですか?」
「まあな」
 志摩は小さな頃はよく熱を出していたものだが、小学生に上がった頃からその頻度も減り、中学生にもなると病気には縁のない健康な人間になってくれた。母親はその代わりよく体調を崩してはぐすぐすと弱音を吐いていたものだ。
 だから俺は雑炊を手早く簡単に作る術を身につけては、上達していった。今ではある意味得意料理でもあるだろう。
「そうですか……」
 美丈夫はゆっくり雑炊を食べている。食事をするのも体力を使う、それが現在の美丈夫にとっては疲れるのかも知れない。だが空腹の身体に薬を入れるのも胃が荒れる。なので苦労してでも少しは食べて貰わなければいけない。
「……ずっと、貴方のどこに惹かれるのだろうと思っていました。一目惚れだったのは確かですが、こうして一緒に過ごしている時間が長くなればなるほど、惹かれていくものを感じます。一目惚れならば第一印象が最上のものであるはずなのに、貴方はそれを塗り替えていく」
 美丈夫は怠いくせにつらつらと喋る。食べるよりも喋ることの方が楽なのだろうか。それにしても饒舌だ。
(俺のことに関してはよく喋るお人だ)
 しかも聞いているこちらが恥ずかしくなってしまいそうな台詞を平然と並べている。
「何故なのだろうとずっと考えていました。ですが答えがずっと分からなくて」
「誰に訊いても分からんじゃろう」
 美丈夫が俺を好きな理由なんて、理解出来る人がこの世にはいるとは思えない。少なくともこれまで俺が接してきた人間全員が首を傾げているはずだ。
「ですが今は少しだけ分かった気がします」
「ほう」
「優しさと慈愛です。下心なく労ってくれる。近親でもない、金銭が関わっているわけでもない。むしろ上総さんには俺の嫁になって下さった後から迷惑ばかりかけています。なのにごく自然に優しさをくれる。俺はそういうものが、ずっと欲しかったのかも知れません」
「……そうか」
 近親者以外から無条件で優しくされることに慣れていないのだろう。
 もしくは優しくして貰ったその時に、相手に裏がないか、何か目的があって自分に優しくしているのではないか。そう身構えなければいけない環境にずっといるせいかも知れない。
 俺にとっては大したことがない情でも、美丈夫にとっては特別に見えたらしい。
「何と言うか、上総さんから感じるものは、母性のようなものではないかと」
「……………せめて、父性じゃろう。俺に母親の部分はない」
 どこから母性が出て来た。
 女性に言うならばともかく、男に対して言う台詞に、母という単語を組み込んでくる意図が分からない。どう足掻いても母親になることはないのだから、母性とは無縁だ。
「ですが志摩さんと一緒におられる時の様子が母親のように思える時が」
「父親の面はあると思っておる。志摩が物心つく前に亡くなったから、俺がその役割を担うのは分かっておるからな。しかし母親は健在じゃ、俺の出番はない」
「そうでしょうか。上総さんには家庭的なところが感じられる上に、小さなものへの保護欲なども強いと思います。お手伝いさんのお子さんたちにもとても優しくて」
「子どもに優しく接するのは大人の礼儀のようなものじゃろうが」
「それだけでなく家事もそつなくこなしてくれる上に、俺の世話までしようとしてくれて大変に有り難い上に、包容力があると感じておりますし。何より優しさや懐の広さだけなく、時には可愛さやちょっとどじなところを見せて下さるのはとても良いと思いますし、それに」
「そんなことは熱弁せずとも良いわ!さっさと飯を食って寝ろ!高熱で頭が駄目になっておる!」



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