美丈夫の嫁8 3





 閉められた扉の前で溜息をついた。
 誰が鍵をかけたのか、なんてことは考えても嫌な気分になるだけだ。それよりもここから出るための手段を探そうとしたのだが、扉を強引に開けられるとは思えない。そもそもこの蔵に乱暴なことは出来ない。蔭杜の財産、傷一つ付けてはならないものだ。
 ならば大人しく誰かが来てくれるのを待つしかないだろう。
(せめて雨が止めば。中で叫んでいれば誰かが来るやも知れん)
 俺がいないことに気が付けば、少なくとも美丈夫は探そうとするだろう。出掛けた形跡がなければ家の中、そして庭まで足を伸ばしてくれる、はずだ。
(問題は美丈夫が何時に帰宅して、俺がいないこと、帰って来ないことにいつ気が付くのかということだ)
 成人男性が帰宅しないことに違和感を覚えるのは、一体何時のことだろうか。俺はあまり外出はしないタイプだが、休日なのだからとどこぞに長時間足を運ぶこともある。
 たまたま美丈夫に連絡を入れるのを忘れることも有り得るような話だ。
 美丈夫がいつまでも帰って来ない俺にしびれを切らして連絡を取ろうとする。そして連絡が付かないことに異常だと察するのは、これから何時間後になるか。
「せめて、今日中に気付いて欲しいものじゃが」
 期待はするけれど、この蔵に来ていることは誰にも言っていない。美丈夫には蔵に興味があるという話はしているけれど、今日行くなんて一言も告げてない上に、普段は鍵がかけられているだろう蔵がいつも通り施錠されているだけの状態だ。俺が中にいる可能性に気が付いて発見してくれるだろうか。
 雨音を聞きながら不安が膨らんでいく。
 こんな薄暗く埃っぽい場所で一晩を過ごすなんてことにならないと良いのだが。
「……落ち込んでも仕方がない。幸いおやつの食い過ぎで腹も減っておらん。開き直って怪談でも読むか」
 真っ暗な蔵の中に閉じ込められた上に、雨によって周囲から更に隔離されているこの空間はもう異質と言える。不気味ですらある場所に嫌でも居続けなければいけないのだ。いっそ怖い話でも読んで、臨場感に浸るしかやることがない。
「現代語訳の耳袋を見かけたぞ」
 座っていた元の位置に戻っては腰を落ち着かせる。半ば自棄になっていたとも言える。
 時間を気にしても無駄。助けが来るまでやることはない。
 ある意味集中出来る状態だった。おかげでランタンの光でずっとページをめくり続けた。
 怪談の中に意識が全て吸い込まれていたが、不意に声が聞こえた。
「上総さん、いらっしゃいますか!?」
 ドンドンと扉を叩く音と共に美丈夫が俺を呼んでいる。さすがに慌てて本を閉じては扉に駆け寄った。
「おまえさん!」
「上総さん!ここにいらっしゃったんですね!」
「じゃが扉が開かぬ!」
「すぐに鍵を持って来ます!義兄さん!蔵の鍵を持って来て下さい!」
 國朋さんも近くにいるらしい。他にもざわついた声が近付いて来ていた。雨はいつの間にか止んでいたらしく、人の声が鮮明に聞こえる。
「蔵の鍵は開けてるとは聞いたけど、誰が勝手に閉めたんだ」「どうして閉めたんだろう」「誰がやったか見てたか?」などという会話が飛び交っている。庭師と警備の人たちだ。俺も聞いたことがある声だった。
「上総さん、いつからここに?」
「四時くらいか。今何時じゃ?」
「もうじき九時になります」
(五時間か。どうりで腰や尻が痛いわけじゃな)
 いくらなんでもぶっ続けて読み過ぎだろう。言われてみれば目の奥もじんじんと痛くなっているような気がする。
「具合は悪くなっていませんか?こんなところに五時間も閉じ込められて」
「身体は何ともない。閉じ込められたのも五時間ではなくもっと短い。雨が降り始めた頃からじゃ」
「それでも三時間近く経ってますよ!」
 ということは俺はやけくそになって怪談を読み始めて三時間過ごしていたのか。集中力がよく保ったものだ。
「家に帰っても誰もいない。待っていても帰って来ない。上総さんは今日どこかに行くとも仰っていなかった上に、スマートフォンを鳴らしてもダイニングから着信が聞こえる」
(そんなところに置いておったか)
「敷地内から出た形跡もないのに家中探してもどこにもいない。それなのに蔵のことを思い出すのに時間がかかってしまいました。すみません」
「いや、黙ってここに来た俺が悪い。探し回って貰って申し訳ない」
「違います!貴方は何も悪くない!鍵を開けておくのでいつでもどうぞと言ったのは俺です!もっと早く、気付くべきでした」
「いや思ったより早く気付いて貰えた方じゃと思う」
「遅すぎます。自分が許せない。そして鍵をかけた者も絶対に、許しはしない」
 美丈夫は扉の向こうで力を込めてそう口にした。顔は見えないというのに、間違いなく憤りを露わにしていることが分かるような声音だ。
 相当頭にきていることは間違いない。
「鍵だ!」
 國朋さんの声がしたかと思うと、すぐにガチャガチャと荒々しく鍵が開けられる音がした。
 待ちに待った時だ、そう思った時には扉が勢い良く開かれた。
「上総さん!」
 人間が一人分通れるだろうと思うほどの隙間が開けられると、美丈夫が飛び込んで来た。抱き付いて来た身体は冷たい。どうやら濡れているようだ。
 雨はほんの少し前まで降り続けていたのだろうか。美丈夫は傘も差さずに俺を捜してくれていたようだ。
「ご無事ですか!?」
「心苦しいほどに何ともない」
 むしろ美丈夫の方が大変なことになっているではないか。
 前髪は額に張り付いている上に水が滴ってきそうだ。背後には傘を差した人が四人いるというのに、美丈夫は何故手ぶらなのか。
「おまえさんの方こそ、無事ではなかろう」
「俺は濡れているだけです。上総さんはこんなところに長時間閉じ込められて、喉が渇いたとかおなかが空いたとかありませんか」
「おやつで腹を膨らませた後だから平気じゃ。それにずっと読書をしておっただけじゃからな。読むのに夢中で時間も忘れておったわい」
「なんだそれ」
 國朋さんが背後で呆れているのがちらりと見える。
 我ながらさして悲観することもパニックにもならずに淡々と過ごしていたのは人としてずれているとは思うので、國朋さんの反応は無理もない。
「興味深い本が多々あって、ついな」
「気に入ったものがあれば自室へお持ち帰り下さい」
「いや、ここに置いておった方が良い。下手に動かして劣化しても困る。それにここに置いておればまた誰かが読むじゃろう。そうして受け継がれていくべき財産じゃ」
 自室も本を保存するのに適している環境かどうかと問われると首を傾げる。完全な管理がなされているところではないのだ。そこに希少な本を持ち込むというのはどうにも気が進まない。
 この本たちは、蔭杜が所有している財産と呼ぶに相応しい価値のある物たちだ。俺が自分の物のように扱うわけにはいかない。
「……では、家に帰りましょう」
「ああ」
 美丈夫は俺を腕から離した。通常人前で抱き付かれるのは恥ずかしいものだが、美丈夫の振り乱しようが酷かったので、引き剥がすにも引き剥がせなかった。けれど自分から離れたということは、もう大丈夫なのだろう。
 そう思ったのだが見上げた美丈夫の顔色はとても良いとは言えないものだった。
 蔵から出て家へ歩き出すと環さんやお手伝いさんたちの姿が見えた。目が合うと誰もがほっとしたような表情を見せてくれる。
 みんなで俺を捜してくれたのだと思うと大変申し訳ない心境になる。軽率にあんな人気のないところに入るものではないと反省せざるを得ない。
「おまえさん、先に風呂に入れ。傘も差さずに探し回ってくれたんじゃろう」
 家に入ってすぐ濡れたままの美丈夫にそう言うと苦笑された。
「そんなことはいいんです」
「良くない。身体が冷える。それとすまん、飯を作っておらん」
「食事なんて気にしないで下さい。今から作って貰いましょう」
「遅くなっても良いなら、今から簡単なものを作るが」
「上総さんはお疲れでしょう。しっかり水分を取ってゆっくりして下さい。先にお風呂に入られますか?」
 互いに気を遣い合ってばかりだ。
 一端落ち着こうと言っては二人分のスポーツドリンクを入れた。
 美丈夫はタオルで頭などを軽く拭いながらそれを受け取る。しかし所在なく二人ともが何故か立ったまま、重たい空気が流れていく。
「貴方が、いなくなったかと思いました」
 美丈夫はスポーツドリンクを持ったまま、口も付けずにそう零した。常とは大きく異なり、心細そうな声だ。聞いている方が寂しくなるような響きだった。
「スマートフォンも財布も、荷物全部をここに置いて?」
「本当に逃げるつもりなら、何も持って行かない方が足がつかない。身一つで飛び出してしまえば、俺はしばらく貴方を見付け出すことは出来ないでしょう」
 それでは俺もろくに逃げ場所がないのでは、と思うのだが。追いかける方が苦労することも確かだろう。
「じゃが失踪するには唐突じゃ」
「原因が分からない方が探しにくい。上総さんは失踪すると心に決めてもおくびにも出さずに生活しそうです」
 反論が出来ないことを言われる。
 本気で行方をくらますためならば、ある日突然何の予兆もなく忽然と消えてしまった方が効果的に逃げられることは事実であるはずだ。
「志摩さんもお義母様も上総さんのためなら口をつぐむでしょう。何の痕跡もなく出て行かれたら、俺は、どうしたらいいか分からない。ずっと、怖かった……」
 悲壮な表情で言葉を綴る美丈夫に、俺が蔵に閉じ込められていた間に不安だけでなく恐れにも苛まれていたのだと知る。
 自分の存在がここまで美丈夫に影響を与えるのかという現実を前にして、正直驚いている。これはもはや依存とも言える状態ではないのか。
(そこまで俺を求める意味がよう分からんが……)
 美丈夫は生活する上で俺が必要だと判断してしまったらしい。どれほど優れた人でもどこかに欠点はある。
 美丈夫を安心させるためには、俺はここから出て行くことなんてないと断言するべきなのだろう。ずっとそばにいるからと約束してやれば、置いてきぼりにされた子どものような台詞を口にする人を救える。
(だが俺は言えん)
 もし決して許すことが出来ない問題に直面した場合、俺はここから出て行く。
 それは美丈夫のせいでなく、たとえば蔭杜の家にまつわる束縛であったり、どうしようもないしきたりや、人間関係の軋轢かも知れない。
 だが受け入れられないと感じれば俺は断固として美丈夫を拒絶する。
 美丈夫と分かり合えるまで話し合う、対立した時には戦うなんてことはしない。きっと逃げた方がましだと決断してしまうだろう。
 諍いが苦手ということもあるが、美丈夫に飲み込まれてしまうのが怖いということもある。
 この人は俺よりずっと年下だが非常に頭が切れる。本気になれば俺など口先だけで丸め込むことが出来るだろう。
 だからそんなことになる前に、きっと一目散に逃げてしまう。
(そんな俺にすでに気が付いているおるから、この人は聡い)
 俺が黙って失踪するタイプであり、事前に行動を悟らせることはしないだろう。というところまで分析しているのだから。本気で失踪しようとして慎重に動いても、勘付かれてしまうのではないだろうか。
 現時点で実行する予定はないのだが、もしその時が来た場合は手こずることだろう。
「おまえさんが動揺している間、暢気に本を読んでおった。すまぬ」
「いえ、悲痛な思いをされていなかったのならば、それが何よりです」
「ランタンが眩しくて文字がよく読めたおかげじゃ」
「お役に立ったようで、買った甲斐がありましたね」
「購入した目的とはずれたがな」
 軽口を叩いて、少しは美丈夫も心がほぐれたかと思った。しかし強張った表情は元に戻らない。心に引っかかりがあることは明白だった。




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