美丈夫の嫁8 2 本棚に隙間があるというのは実に気分の良い光景だと思う。これからまだ本の数を増やすことが出来る。あとこれだけは埋めることが出来るのだという未来への希望に繋がる。 美丈夫と共に暮らしている家の自室には、壁三面に本棚が置かれている。ここに来たばかりの時は左右にのみ本棚を置いていたのだが。まだ増やせるなと思ったため、俺はもう一方の壁にも本棚を設置した。現在本棚が置かれていないのは窓際だけだ。いくらなんでも四方全てを囲まれていると圧迫感があるので、この配置は正解だろう。 本棚は背も高く、天井近くまでそびえて立っている。見上げるほどの高さの本棚は幅も広いので、蔵書を詰め込んでもまだまだ満たされる様子がない。 今月発売のあの新刊たちも、来月に予定されているあの新刊も、詰め込んだところで本棚から溢れることはないのだ。 (なんて素晴らしいことじゃろう) 実家では本棚を置くスペースが限られていたため、購入する本を熟考しては常に我慢をしていた。納める場所がないので断腸の思いで手放した本もある。 しかしこの部屋に限ってはそんな我慢は無用のものだ。 美丈夫と暮らし始めて、蔵書が増やし放題ということはだけは心から感謝している。 「上総さんの本棚は着実に埋まっていきますね」 美丈夫が俺の部屋に本を借りに来た際に、部屋を見渡してそう言った。環さんだけでなく美丈夫も最近俺の本を借りていく。大学の講義の最中に読みたいらしい。 必修なので仕方なく聴いているが、眠ってしまいそうなので本を読みたいんです。その方が有意義なので。と口にした美丈夫に、俺も昔はそんなことをしていたなと懐かしく感じた。 「有り難いことにこれほどの本棚があれば、埋め尽くすのもそう簡単ではない。これからが楽しみじゃ」 「それは良かった。上総さんが来られる前に大きな本棚を置いた時は蔵にでもするつもりかと姉に言われましたが」 「そういえば、この家には蔵があるな。その中には本棚があるのか?」 蔭杜の広い庭には三つの土蔵が置かれている。壁を白い漆喰で塗られたそれは酒造会社などで見かける酒蔵にも似ているのだが、扉が開けられるところは見たことがない。使われてはいないのだろう。 「あります。うちの古い蔵書が詰まってますね。上総さんがご覧になったら面白いかも知れません」 「へえ」 蔭杜の蔵書と聞いて興味が沸いた。相当古い本でも大切に保管しているのではないだろうか。希少本などもあるかも知れないが、俺に価値が分かるかどうかは謎だ。 「お好きな時に入って下さい」 「じゃが、鍵がかかっておるじゃろう」 「開けておきますよ」 「それは不用心ではないか」 蔵に保存している上に鍵までかけているということは、中には価値のある物が入っているはずだ。なのに鍵を開けたまま放っておくというのは無防備過ぎる。 難色を示した俺に美丈夫は「大丈夫です」と軽い返事をした。 「本が詰まっている蔵に入っているものは、そう大したものではありません。元々俺も勝手に入って本を読みあさっていたくらいです。俺や姉が読んでいた絵本などもあそこに置かれてます」 「絵本まであるのか。それはそれで面白そうじゃな」 美丈夫や環さんがどんな絵本を読んでいたのか。 自分の時代とは変わっているかも知れない。それに子どもの頃に読まれていた絵本を入れておくような蔵ならば、単純に倉庫としての役割をしているのだろう。 (由緒正しき家柄の蔵となると、とんでもない宝が保存されておるんじゃないかと思ったが。倉庫として使っておるなら、俺が入っても大丈夫やも知れん) これまで気にしていなかった蔵というものが、俺の中で不意に意識に上がって来た瞬間だった。 次の休日。掃除や買い物などの用事も済ませて、今月の新刊片手に三時のおやつまでしっかり満喫した頃だった。ふと庭にあるあの蔵に行こうかと思った。 今朝から曇り空である上に気温もいつもより低い。庭をうろついても汗ばむほどの暑さはなかった。 蔵の中も日光に照られていないので、そう温度も上がっていないだろう。中を探索しても茹で上がるようなことはないはずだ。 思い立ったが吉日とばかりに寝室に戻ってはランタンを持つ。蔵の中に電気は通っていないはずなので照明器具が必要だ。 ちょっとした探検気分になっては家から出て庭に下りる。 蔭杜の庭は個人宅とは思えないほどの規模の面積を持っていた。さすがに土蔵を三つも持っているだけはあるなと思いながら、散歩がてらにゆっくり歩く。 夏場の庭は木々が瑞々しい緑を茂らせている。晴天の時はくっきりとした陰影を作り出しては緑の生命力と太陽の強さを感じさせてくれた。 庭師が丁寧に育てている花々を眺めながら蔵に辿り着く。 どっしりとした造りの土蔵の扉は人を招き入れるように開かれていた。分厚い観音扉は開かれた状態で見られるのを前提に、内側に装飾が施されている。そこには蔭杜の家紋と吉祥文様が描かれており、この家の豊かさを象徴しているようだった。 観音扉の更に内にある格子扉の鍵は、美丈夫が言っていた通り開けられていた。 古めかしい南京錠は正直素人でも何か道具があれば簡単に開けられそうだ。蔵の中に貴重なものは置かれていないというのは本当なのだろう。 扉を開けると中は真っ暗だ。閉め切られていたのだろう思われる、外気よりも少し重たく感じる空気が漂っている。多少埃っぽいのだが顔を顰めるほどではない。 持って来たランタンを灯す。災害用にと買い求めたLEDの光は思ったよりも明るく、暗い蔵の中に目を合わせていたため、灯した瞬間は目が眩んでしまった。 「おお……」 数秒間、焦点を合わせるために入り口に立ち尽くしたが、目が馴染んでくると内部が見える。蔵の中は俺の背よりも高い棚が幾つも配置されている。整然と縦列に並んでいる光景は本棚にも似ている。棚によって置かれているもの異なり、箱ばかりがみっちり詰められている場所や、筒や丸い何かが布に包まれているようなものもある。 美術品でも置かれているような雰囲気だが、中身が何であるのか確かめるつもりはなかった。下手に触って壊してしまうのが怖い。 俺が目当てにしている本たちは蔵の奥に鎮座していた。 自室にある物によく似た本棚には本の背表紙がずらりと並んでいる。色褪せた背表紙たちの中には薄汚れている物もあった。だが全体的には保存状態はそう悪くないのではないだろうか。特に旧字体で書かれている背表紙たちはどう考えても年代物だ。なのに破損箇所が一切無く汚れも見当たらないところからして、大切に扱われてきたことが分かる。 「これは……なかなか」 近代文学作品のタイトルがずらりと並んでいるのだが。その背表紙は現在の本屋は勿論のこと、図書館などでもお目にかかる装丁ではなかった。教科書などで見た覚えがある装丁だ。 (まさか初版?いや、いくら何でも……どうだろう。昭和一桁の話じゃからな。復刻版の装丁の可能性もあるが。それにしては褪せておる) 恐る恐る手に取るとざらついた紙の感触に、触れていると手垢で汚れるのではという気持ちが沸いてはそっと元に戻した。ちらりと見た表紙は確かに初版と同じものだ。 「大した物では……?」 それともこの程度は蔭杜にとってはさして貴重でもないのか。初版ではないならば、その認識もさして間違いではないのかも知れないが。初版であった場合は考えを改めて欲しいものだ。 深く触れてはいけないものを感じてはそっと目を逸らした。蔭杜にいるとよくあることなので、今更こだわりもしない。 美丈夫の言う通り、本棚には絵本や児童書もあった。自分が読んだことがある物もあり、懐かしくなる。タイトルを読みながら歩いていると、一つの図録に目が留まった。 浮世絵の図録だ。数十年前にとある美術館で行われた展示であるらしい。先ほどまで時代物の小説を読んでおり、その中に浮世絵の話が出てきていたので、少し気になって図録を手に取った。 ぱらりとめくっては面白そうだと感じ、ランタンを床に置いては俺も腰を下ろした。行儀が悪いとは思うのだが椅子がないので仕方がない。立ったまま読み続けようとしてもランタンを持っていると片手になってしまう。図録を片手でめくるのは無理がある。 ランタンの明るさは図録を見るのに便利だった。文字も綺麗に読むことが出来る。 浮世絵の図録を読み終わると、次は隣にあった日本画の図録に手を伸ばした。 ジャンルをしっかりと分けて納められているらしい。その次は国内の近代美術へと移っていき、時間を忘れて読みふけった。絵画が特別好きというわけではないが、図録は見ていると単純に面白い。それに普段あまり手に取らないジャンルであるだけに、新しい情報が次から次に頭に入っていくのが刺激的だった。 一体どれほどの時間そうしていたのか、不意にぽつぽつと屋根を叩く小さな音がして我に返った。 「雨か」 そういえば天気予報では夜に雨が降ると言っていた。もうそんな時間になったのだろう。 水気を含んだ空気の匂いが淡く嗅ぎ取れる。 「いい加減戻るか」 長居をしすぎた。立ち上がるとごきっと腰の関節が嫌な音を立てた。軽く背伸びをしてから足下に置いてあったランタンを手に取る。雨音はあっと言う間に大きくなっていくようだった。 「これはまずいかも知れん」 まさか大雨になるのでは。そう焦って出口に向かっていると、目の前で扉が動いたのが見えた。 「は?」 何故扉が動くのか。呆気にとられているとすぐに扉は閉められた。血の気が引いては扉に駆け寄ろうとするのだが、棚に挟まれて通路はかなり狭い。それでも急いで扉に向かうと、辿り着く直前でガシャンと無情な音が聞こえた。 「閉められた!?嘘じゃろう!おい!誰か!」 何故扉を閉めて鍵をかける。一体誰が。 そう混乱しながら扉を叩く。木造のそれを力一杯叩いてはいるのだが激しくなっていく雨音に混ざって、あまり響いていないことは内側からでも分かった。 濡れた木の匂いが蔵の中を満たしていく。天井近くにある小さな窓を見上げると外の光は一切入ってきていなかった。夕暮れを過ぎて宵の頃になっているのだろうか。それとも雨雲の厚さが太陽の光を完全に遮断しているのか。 「スマホを持って来るべきじゃった」 まさか閉じ込められるのとは思っていなかったのだ。外部への連絡手段なんて持っていない。 「誰ぞが、何故このようなことをする」 蔵の扉が開いてたのをたまたま目撃して、不用心だと思って閉めたのか。しかし開いているということは、中に人がいるとは思わないか。それを確認せずにいきなり黙って閉めるだろうか。 俺ならばそんなことはしないだろう。まして普段開けられることがないと聞いている蔵だ。何か理由があって開けられていると思って、閉めるのを躊躇うはずだ。 ならば中に人がいるかも知れないと分かっていながら閉めたのか。 そうだとすれば、俺と分かっている確率が高いだろう。 自分が歓迎されているとは言いづらい存在であることは、理解している。蔭杜の直系の人々は俺を受け入れるようだが、親戚たちの中には俺が目障りの者は必ずいる。少なくとも環さんの旦那である國朋さんは俺を邪魔だと思っているはずだ。 「じゃがあのお人はこういうことはせんじゃろうな」 あまりにも稚拙な行為だ。自分がやったとバレた時に不利になるような、こんな幼稚な嫌がらせはしない。環さんの恥にもなる。 國朋さんは環さんのことを誰より心配し、環さんの疵になるようなことはしそうもない。旦那である自分の立場も分かっているだろう。 「……誰が」 現在蔭杜の家にいるだろう人々の顔を思い浮かべては、憂いが込み上げてくる。疑いたくはないけれど、猜疑心が膨らんでいくのは止められなかった。 「参ったな」 さて、いつ出られることか。 next |