美丈夫の嫁8 1 蒸し暑い外気にうんざりしながらカフェのドアを開く。一気に冷気に包まれては額に滲んでいた汗が冷やされる。ほっと息をつくと、中から女性の声が聞こえた。 それだけならば何とも思わないのだが、引っかかる単語が含まれていたせいで、俺は思わず足を止めてしまった。 「婚約者って本当にいるの?それらしい人を見たことがないって噂だけど」 声がした方を見ると、案の定俺の待ち合わせの相手がいた。窓際で涼しげな顔をしては俺を見ている。ドアが開いた音に気が付いて、こちらの視線を向けたのだろう。 (また、面倒なことになっておるな) 平日の昼下がり、仕事が休みだと知った美丈夫が大学の講義が終わった後に逢わないかと提案してきた。 コーヒーメーカーがこの前壊れたので新しい物を一緒に買いに行く予定だ。二人ともが使うものなのだから、二人で選びたいと言われたのだ。断る理由がなかったので、約束の時間に美丈夫を迎えに来た。 美丈夫が通っている大学の近くのカフェにしたのは、その方が利便性が良かったからなのだが。美丈夫に興味のある人間が関わって来るという可能性は失念していた。 寄って来る店員に、連れがいると指で差して案内を辞退する。 その間も美丈夫と女性の会話は続いていた。 「どこの噂かは知らないけど、見せびらかす趣味はないんだ」 「それって大切にしたいから?婚約者ってどんな人?」 「優しいよ」 そう言った美丈夫は微笑んだ。俺が見てもはっとさせられるような柔い笑みだ。今、美丈夫の中にはその相手が思い浮かんでおり、どんな気持ちを抱いているのか訊くまでもなく分かってしまいそうな有様だ。 しかし返事自体は陳腐なものだった。 「他には?見た目はどんな人?」 案の定女性の追求は止まらない。 けれどそれ以上喋られると俺がダメージを喰らいそうだ。なので二人がいるテーブルに近寄っては、美丈夫が何か言おうとするのを制した。 「お待たせしました」 美丈夫にそう声をかける。勿論美丈夫は俺が来ることは分かっていたので驚きはしない。代わりに美丈夫の向かいに座っていた女性が目を丸くして俺を見上げた。 美丈夫が人を待っていると分かっていたとしても、女性が来るとでも思い込んでいたのかも知れない。 (どんな人だと訊かれて、俺を紹介はしないだろうが) 愉快そうな双眸を見ていると、少し心配になる。 「いえ、さっき来たばかりです」 お決まりの台詞を口にする美丈夫に、このやりとりは必ず交わされなければいけないものなのだろうかと思う。何時間待っていても、美丈夫は同じことを言いそうだ。 「お邪魔でしたか?」 俺が女性に声をかけると、はっとした顔で立ち上がった。 はっきりした顔立ちの女性は十分に美人だと言える。年はおそらく美丈夫と同い年くらいだろう。緩く巻いたポニーテールを揺らして、俺に頭を下げる。 「誉君を見かけてつい声をかけてしまっただけです。私こそ邪魔をしてしまってすみません。失礼します」 女性は笑顔ではきはきとそう告げる。引き際が良い。 俺がどんな人間であるのか、一瞬だけ計るような視線があった。しかし不快感を与えるほど不躾なものではない。 (俺が女なら、もっと違う態度だったじゃろうな) 女性と見るなり、これが婚約者か?美丈夫と釣り合う女なのか?そんな風に興味深く見られたはずだ。もしかすると対抗意識などを燃やされた可能性もある。 美丈夫と女性の関係がどんなものであるのか勘繰るつもりはないのだが、なんとなく女性は美丈夫に粉をかけているような気がしたからだ。 女性は頭を下げると斜め後ろに席に移動しては、そこに座った。どうやら友達と一緒に来ていたらしく、同席していたショートカットの髪の女性と楽しげに喋り始める。 格好良いね〜なんて声がしたかと思うと、何故か自慢げに美丈夫を語る女性の声が聞こえてくる。 「ご学友ですか?」 「はい」 美丈夫は自分の話をされていても知らぬ顔だ。慣れているのかも知れない。 俺はやって来た店員にアイスコーヒーを頼んでは、まだ聞こえて来る女性たちの会話に苦笑を浮かべる。 「楽しげですね」 この距離ならばきっと彼女たちにも俺たちの会話が聞こえるだろう。なのであえて丁寧な言葉遣いで美丈夫と喋る。外で話をしている時はその口調が珍しくないので、美丈夫も気にしない。 「婚約者は誰かと訊かれました。そういう話題が好きなんでしょう」 「よく訊かれるんですか?」 「そうですね。婚約者という響きは大学生には珍しいようです」 (そりゃあそうだろう) 結婚することが前提の相手が、大学在学中に存在しているというのは珍しいのではないか。俺が大学生の頃、周囲にそんな人はいなかった。ましてこれほどの顔立ちと家柄だ。好奇心が刺激される気持ちは分かる気がする。 「優しい人だと答えるんですが、情報量が足りないようです。もっと詳しくと言われます」 「………それで何と答えるんですか?」 一体俺の情報をどう伝えているのか。気になって問いかけると美丈夫は笑みを深くした。 「そのままに」 どのままだ。 含みのある言い方に、これ以上追求して藪蛇になるかならないかの判断に迷う。 「肝心なことはそれでも言いません。勿体ないので」 悩む俺を面白がって、美丈夫はそう続けた。勿体ないとはどこから出て来る感情なのか。 (この人は俺をどうとらえておるんじゃ) 相変わらずさっぱり分からない。内心首を捻っているとアイスコーヒーが運ばれてきた。たっぷり入れられた氷は見ているだけで涼しげだ。 「……しかし実在を疑われていましたね」 「紹介はしませんので」 「しようもないでしょう」 「俺は紹介しても一向に構わないと思っているんですが。許可が下りません」 許可するつもりは毛頭ないのだろう?とからかうような視線に俺は目を伏せた。誰が目の前の男の婚約者だと名乗り出ることが出来るのか。それほど俺は度胸のある人間ではない。 「ところで、これはあくまでも俺の想像なので違っていたなら申し訳ないのですが」 美丈夫にからかわれてばかりなので、ふとささやかな仕返しのようなものがしたくなった。 「何でしょう」 「先ほどの女性は、もしかしてお付き合いをされていた方では?」 あの親しげな様子と、婚約者という言葉を口にした時の不本意そうな響きを隠そうともしない態度にぴんと来るものがあった。 美丈夫は俺の問いかけにホットのコーヒーを口に運んでいる。冷房が効いているとはいえ、外気温の高さを思うとよくホットが飲めるなと思ってしまった。 もったいぶるかのようにカップに口を付けたまま止まっているが、数秒の沈黙がすでに肯定であるとは思わないのか。 「……元カノです」 美丈夫が付き合っていた相手を見るのはこれが初めてなのだが。美丈夫と付き合う相手はやはり見目がある程度整っていると、バランスが良いということはよく分かった。 「美人ですね」 「上総さんの好みですか?」 思ったことを口にすると、美丈夫の目つきが鋭くなった。 元カノを目撃して婚約者である立場の俺が気分を害するならば筋が通ると思うが、何故元カノを褒めて俺が睨まれるのか。 (俺の女の好みなど知ってどうする) 気にするようなものでもないだろうに。奇妙な怒り、この場合は悋気なのだろうか、を見せられても困る。 「一般的な感想だと思います」 「個人的にはどう思われますか?」 「さあ……」 言葉を濁すと美丈夫の瞳には剣呑なものが宿る。 この会話は本人にも届いているのだ。まさか俺がここで「どうでもいい」と答えるのも失礼になるだろう。 だからこそ、曖昧な返事をしたのだが、それが気にくわないらしい。 (俺も人として、美人だと一応言った相手のことをさっぱり興味がないと言うのはさすがにまずいということは分かるぞ) しかしその辺りの配慮を美丈夫はすっかり忘れているのか。 「とても気になるところですね」 「お気になさるところではない」 俺たちが不毛な会話をしていると、女性が友達と共に俺たちのテーブルにやってきた。手には伝票があり、どうやら帰るようだ。 「失礼します。誉君、それじゃあまたね。今度は婚約者さんにも会いたいな。また連絡下さい」 女性は自信に溢れた笑顔でそう美丈夫に告げる。 その台詞の中身に俺は少し驚いた。婚約者に会ってどうするつもりなのだろう。以前お付き合いをしておりました、と自分を紹介するつもりか。 その行為に何の意味があるのか。 非常に好戦的な雰囲気が漂ってくる。 美丈夫は「また機会があったら」とさして心動かされた様子もなく、淡々と告げている。冷たいとも感じられる反応だが、女性は気にしないらしく、軽く手を振ってレジに向かって行った。 女性は俺の指にはまっている指輪には気付かなかっただろう。 これは美丈夫と対になっているものだ。こんなにもあからさまな証が視界に入っているというのに、誰も俺たちの関係を察することはない。 女がカフェから出て、なんとなく自分の左手を軽く目の前に持って来てはプラチナの輝きを眺めた。それに美丈夫が目元を和らげた。 「婚約者にはもう会っていると告げたら、どうなっていたでしょうか」 「そりゃあ、俺がとんでもない目で見られるじゃろう。下手をすればすさまじい台詞が出て来るかも知れん。いや、彼女の人格を知らぬので、俺の被害妄想じゃが」 未練があるらしい元彼氏の婚約者がこれといって特徴のない平凡なおっさんだと知れば、驚愕して信じない、もしくは腹を立てるのも致し方ないことかも知れない。 その際に暴言が飛び出して来ることも有り得るだろう。 自分ではなくこんな男を選ぶのかと責められるくらいは予想は出来る。 女性の性格を知らないのでこれはあくまでも俺の妄想であり、彼女が非常に穏やかな気質ならば話は変わってくる。 「いえ、そういう人だと思います。プライドが理性を上回るタイプです」 「それは何と言うか、知られとうない相手じゃな」 何を言われることか。考えただけでも頭が痛い。 これまで俺は蔭杜の親戚たちにそうして責められる覚悟をしていた。けれど意外とそうして面と向かって噛み付いてくる人は少ないので、最近気を抜いていたのだが。美丈夫がこれまで交際して来た相手に恨まれるという未来もあると突き付けられた形だ。 「おまえさんの婚約者は大変じゃな」 「その点に関しては大変申し訳なく思っています。当然守る覚悟、その準備も整えています」 美丈夫は持っていたカップを置いては真面目な顔ではっきりとそう言った。覚悟は分かるけれど、その準備というのは何なのか。 疑問は抱いたのだが、あまり突っ込んで訊くのも怖かったので「そうか」と適当に返事をしておいた。 next |