美丈夫の嫁7 6





 墓参りをした後、俺は美丈夫と暮らしている蔭杜の家に戻るつもりだった。けれどもう一泊伸ばすことにした。
 なんとなくあの家に戻りづらかった。
 それに母が少しばかり変わったことを、ちゃんと時間をおいて確認したかったのかも知れない。その変化は母にとって良いものであることを感じ取りたかったのだ。
 前向きになったのだと、父のいない未来を初めてちゃんと見てくれたのだと思ったけれど。すぐにまたそれを悲観視するのではないかと心配をしてしまった。
 そんなことを言い出せばきりがない。四六時中母を監視しなければいけなくなるのだが、せめて一晩だけでもそばにいたかった。
 親子であることを噛み締めたかったのかも知れない。
 離れがたさが俺を包んでいた。
 志摩も同じ事を思ったのかどうかは分からない。だが俺と同様にもう一晩泊まると言っていた。人様の家と違い実家なのだ、何日泊まっていったところで母は文句など言わない。
(そう、母は良いのじゃが)
 美丈夫の元にもう一泊すると連絡を入れると、大変ずっしりとした重みを感じる声音を聞く羽目になった。
『明日はお仕事だったのでは?』
「遅番じゃから、朝にそちらに帰って、スーツに着替えてから出勤する。それで十分間に合う」
『そうですか………分かりました』
 全然分かった雰囲気のない返事だった。
 美丈夫はまた落ち込んだのかも知れないが、こんな時に何を言うべきなのかはまだ見当も付かなかった。別に後ろめたいことがあるわけではない。実家に戻っているだけであり、何よりその意図もしっかり把握されている。
 謝るべきでもないことである以上、俺は事実を述べるしかない。
 しかし、放置するのもなんとなく心が痛む。
 通話を終えてからもスマートフォン片手に台所で悩んでいると、志摩がひょこと顔を出してきた。
「誉さんに電話?」
「ああ。飯の支度の都合なぞがあるからな」
「律儀ね」
 志摩の後ろから母がやってきては冷蔵庫を開ける。何を取るのだろうと思っていると、やはり缶ビールを掴んだ。
 そんなことをしても無駄だと、現実から逃げることは出来ないのだと知っているだろう。そう注意をしたくなったけれど、墓参りのことを思うと多少は目をつぶっても良いかという気持ちになれた。
 何もかも一気に決別など出来ない。酒に逃げたいと言われても、責めるのは酷だろう。
 墓石に、父に少しでも語りかけることが出来ただけ母にとってはものすごく意味のある行為だったのだろうから。酒に甘えたくなる弱さも、今は受け入れるべきかも知れない。
(どうせ今日明日までのことだ)
 好きではない酒を飲むのもせいぜい三日ほどのこと。その後は飽きたように止めてしまう。身体を壊す愚かさとはしっかりと区別を付けていた。アルコール依存症になるほどのめり込めなかったのだ。
「喧嘩とかしないの?」
 プシュと缶ビールを開ける音を聞きながら、俺は冷蔵庫の中身を確認した。晩飯に何を作るか、悩み中だった。
「せんな。若いのによう出来たお人じゃ」
「ふぅん……まあ直系だものね。人柄も出来たもんなんでしょうね」
 どうでも良いように母はそう言っては缶ビールをあおっている。
 ふとここに美丈夫がいたのならば母はどうしているだろうかと思った。少なくともこんな風に缶ビールをあおることはないだろう。
 外面の良い母は他人がいると途端に行儀が良くなる。
「もし誉さんが来年、墓参りに来たいと言ったらどうする?」
 本当には今年の時点でもう言われたのだが、俺は考える間もなく断っていた。
 母のあんな姿を人に見せたくなかった。あれほど悲壮な様を見て、美丈夫が心痛めることはない。母も自分の痛みを他人に見せることを良しとはしないはずだ。
 けれど立ち上がろうとした母の姿を見て、美丈夫が父に会いたいと言うのならば許してくれるのではないかという思いもあった。まして母は俺が嫁に行ったと、美丈夫の存在も語っていたのだから。あの時教えた人が美丈夫であると、来年墓石に話しかけることも可能ではないだろうか。
 そう思った俺に母は胡乱な目を向けてきた。
「断る」
 にべもなく撥ね付けた母に、俺は「そうか」とすんなり納得した。
(まだ早いか)
 これまでずっと他人が入り込んでくることを厭っていた。親子三人と以前は叔母だけが共に墓参りに行くことが出来た。それが母が許容出来る限界の人選だったのだ。
 そこにまだ繋がったばかりの他人を招き入れるのは、抵抗感があるのだろう。
「どうして?」
 俺と違い志摩は疑問を口にする。
 理由を求める子に母は苦そうに笑った。
「まだ他人よ」
 その言葉は志摩ではなく俺に向けられたと思った。現に母はすぐに志摩から俺へと視線を移した。
 酒が入っているのにどこか冴えた眼差しだ。いつだってそうだ、母は酒を飲む癖に上手く酔えないのだ。
 意識は鮮明さを失わない。
(まだ)
 それは他人でなくなる時が来ると思っているせいか。
 もしくは昨日墓参りを「身内だけで済ませたい」と言った俺の台詞を含んでいるのかも知れない。やっぱり母はあの電話を聞いていたのだろう。
「それに私は何も聞いてないもの」
 耳に入らないものは知らない。
 ごく当然の答えに志摩は「ふぅん?」と何とも曖昧な反応をしている。だが俺には突き刺さるような言葉だった。
 おまえ自身が身内とも思っていない相手だろう。まして段階も踏ませること無く許可だけ貰うのはお門違いだ。
 母は俺にそう説明しているのだ。
 はっきり言わない分、母は俺を試しているのかも知れない。美丈夫の元に行き、本当に美丈夫と添って生きるつもりなのかと、そう尋ねている。
 だが俺は今すぐにその返答をすることは出来ない。
(……親戚付き合いなど、蔭杜本家に対しては重に警戒するつもりじゃが。まさか実母に対してまで気を遣うことなるとは)
 美丈夫と母の橋渡しという役目が自分に存在しているのだと、この時まで俺は考えたこともなかった。
 だが美丈夫と形だけでなく、本気で共に歩いて行くつもりならば。母と美丈夫の間にも繋がりを持たせなければいけないのだろう。
 それは自分が美丈夫とどうなりたいのか、どうありたいのか。という形をしっかり見定めなければいけないという、現実の問題でもあった。



「ただいま」
「おかえりなさい」
 玄関のドアを開けるとすぐそこに美丈夫が立っていた。俺が玄関の鍵を開けた音で迎えに来てくれたのだろう。
 ものすごく色々言いたい、という顔をしている。だが帰ってきたばかりの俺にいきなりあれあれ喋るのも気が引けるのか、とりあえずとばかりに我慢しているようだった。
 俺は美丈夫に見られながら、首からぶら下げている指輪を取り出しては左手の薬指にはめた。実家にいる時はずっとはめていたのだが、母は特に何も言わなかった。ちらりと見て確認してきたくらいだ。
(あの人は、肝心なことにはあまり触れて来ん)
 大事なことだと思うなら自分から伝えて来るべきだという姿勢を変えない。
 一端シューズクロークの上に置いた俺の鞄を美丈夫が預かってくれる。憂いを帯びたまま黙って俺の前に立っているその様は憐れみを掻き立てるものがある。
 俺は今朝この家に戻ってきてスーツに着替えたのだが、その時にはすでに美丈夫は家を出ていた。顔を合わせるのは二日ぶりだ。
 たった二日だと言えばそれまでなのだが、美丈夫にとっては物思いにふける二日間だったのかも知れない。
「ご実家は如何でしたか?」
「如何も何も……」
 昨日までのことを思い出して、美丈夫が聞きたいことはどれだと思ったけれど。実のところきっと美丈夫は聞きたいというより、言いたいことがあるのだろう。
 でなければそんな自分の気持ちをぐっと堪えて、なんとか言葉を留めていると言わんばかりの目で訴えては来ない。
「……先に風呂に入ってもよろしいか?」
 午後十時を回った時間、晩ご飯は職場で済ませている。美丈夫にもそれは伝えているので、後は風呂に入って就寝するだけというのが平和な日常の流れなのだが。生憎本日に限ってはそんな日常は認められそうもない気配だ。
「その後、お話があるのじゃが」
「俺もあります」
(そうだろうとも)
 思い詰めたような瞳に内心頷いては少しばかり憂鬱になった。自分のこと、まして亡くなった父と母親のことを語るの得意ではない。
 しかし苦手だからと言って逃げられるわけもない。風呂に入りながら腹をくくるしかなかった。
 風呂から上がり、身支度も調えてリビングに行くと美丈夫がコーヒーを入れてくれる。長丁場になると言わんばかりのその気配りを受け取りながら苦笑してしまった。
 ソファに向かい合わせで座ると、美丈夫はやや緊張した面持ちだった。
 この家で暮らし始めたばかりの頃は、たまにそうして緊張を滲ませていたものだが。最近では見せることはなくなったと思った。けれど今回の件を美丈夫は大変重要なものととらえているのかも知れない。
「大掃除のためにご実家に行かれたと、俺は聞きましたが」
 意を決して切り出した美丈夫に、俺はコーヒーを一口飲んでは「そうじゃが」と軽く答えていた。
「大掃除をして来た。家中雑然としておったが、特に台所が酷い有様になっておった。調理器具は出したら元の位置に片付けよ、コンロの汚れは放置せずにすぐに拭くなり何なりせよと言っておるのに、あの母は本当に人の言うことを聞かぬ」
 汚れというものは放置すればすれほど、綺麗に落とすのが大変だと俺が実家にいる時に何度も言ったというのに。あの母親は面倒くさがりなので、よくほったらしにするのだ。
 一人暮らしになったのだから、放置したところで俺が片付けるわけでもないというのに。後で自分が苦労すると思わないのか。
「冷蔵庫の中なぞ、漬け物の汁が零れた後がそのまま残っておったわい。誰がたくあんの跡を綺麗に抜き掃除するのか、俺じゃなかろうがと言うておるのに」
 実家の大掃除の愚痴ならば次々出てくる。母に何を言ったところで頭に入らないことが分かっていた、日が悪すぎるのだ。なのであまり文句も言わずに帰ってきたせいか、掃除に関する鬱憤が溜まっていたらしい。つい美丈夫に語ってしまう。
「大変だったようですが、お父様の命日のためにご実家に行かれたというのが本当では?」
 俺の愚痴に頷きながらも、美丈夫はそう切り出してきた。
「……まあ、そうやも知れん」
「それは俺が口出しすることではないと百も承知で申します。何故、教えて下さらなかったのですか?」
 美丈夫は真剣だった。
 俺にぴったりと視線を合わせて、どんな感情も見逃すまいと注意しているのが肌で感じられる。もしかすると二日間、美丈夫はずっとその問いかけを俺に投げかけたかったのかも知れない。
「……話すと長いんじゃが」
「徹夜をする覚悟があります」
「俺は嫌じゃ。明日も仕事がある故」
 母と志摩の世話をして今日ようやく帰って来たかと思えば徹夜で美丈夫に身の上話をするだなんて、冗談ではない。
「では何日かかっても構いません。上総さんのご負担にならないよう、いくつかに分けてお話下さい」
「どうしても聞きたいと」
「はい」
 引き下がる様子がない美丈夫を前に、俺はもう一度コーヒーを口に入れてはその苦さを飲み込んだ。面白みも何もない、淡々と寂しく空しいだけの話だが、美丈夫が知りたいというのならば仕方がないのだろう。
 俺はいつの間にか自分専用になったマグカップをテーブルにおいては、深呼吸をした。




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