美丈夫の嫁7 7





「俺の父親がいつ、何故亡くなったのかはもうご存じじゃろう」
 父について美丈夫に語ったことはない。だが俺の身内が調べ上げられていることは、予想している。まして父は末端とはいえ蔭杜の親族ではあったのだ、もしかすると調べるまでもなく美丈夫の周囲でそれを知っている者もいたかも知れない。
 美丈夫は案の定躊躇いもなく「はい」と答えた。
「母は今では父のことなど好きではなかった。金と蔭杜の名前を目当てに結婚した、などと言っておるが。父が存命だった頃は、それは惚れ込んでおったよ」
 美丈夫は黙って聞いている。あくまでも俺の考えだが、彼の中にある俺の母のイメージと、俺が語っていることは異なっているだろう。
 それほど母は自分の気持ちを外に出したがらなかった。
「口では我が儘ばかり言って父を振り回しておったが、家の中では仲睦まじい、微笑ましいほど夫婦仲が良かった。まるで理想のように」
(俺はそれが正直誇らしくもあった)
 テレビや街中で見かける夫婦たちの中には、口汚く相手を罵るような喧嘩をしている者もいる。子どものことに関して、生活のことに関して、夫婦喧嘩というものは絶えないものだとちまたでは噂していた。
 ワイドショーでも、夫の顔も見たくない、同じ家で暮らしたくないと愚痴る妻の姿があったけれど、我が家は真逆だった。子供心に愛情に溢れた家であることが嬉しかった。
 それは自分や志摩が愛されているという実感に繋がってもいたからだ。
「父が亡くなって……母は抜け殻になった。しばらくは心がどこにもなくて、生活もままならん有様じゃった。俺たちの世話は母の妹がやってきて、なんとか助かったんじゃが。母はどうにもならなかった」
 叔母は甥と姪だけでなく、姉に対してもあれこれ世話を焼いたのだ。食事を取れ、眠れ、風呂に入れ、人間として生きる最低限の行動を求めた。または強いたのだ。
 けれどそれらは母の中を素通りしていくばかりだった。
「あの頃の母は、いつ後追いをしてもおかしくなかった」
 位牌を抱いて背を丸めてうずくまる母を、俺は忘れることが出来ない。いつ消えてしまうのかも分からないその様から、目が離せなかった。
「いつか立ち直る。叔母は俺たちにそう言い聞かせた。俺も信じた。人は生きておる限り、ずっと同じ気持ちを抱えて生きていくことは難しい。どれほど辛く苦しいことであっても、時間の流れと共に薄まっていくのだと思った」
 十二歳の俺にとって、それだけが希望だった。
「しかしな、母は立ち直れない」
 痛ましいほどに、母は父を喪った場所に立ち尽くした。
「父が亡くなり、一年もすればさすがに日常生活を普通に送るようになった。朝目覚め、飯を食い、仕事にも行く。笑うことも出来るようになっておった。表面上ならば悲しみからようやく立ち直ったと思えるほどじゃった」
 近所の人も、母の職場の人も、ようやくだと言うことを俺たちに言っていた。お母さんもやっと吹っ切れたのねと微笑む人までいた。
 彼らに対して「違う」とは言わなかった。事実顔だけでも笑えるようになったことは、回復した証の一つでもあったからだ。
「だが命日になると、駄目になる。特に父が事故にあった夜はどうにもならん。飲酒事故で父は亡くなり、酒を憎んでおるくせに、朝から酒浸りになっては飯も食わず、寝ることも出来ずに、自分を追い詰めて、行き場のない気持ちに振り回されておる。それでも志摩の前では気丈に振る舞って、いつもの気の強い自由気儘な母親を演じようとするんじゃがな……」
 娘には弱みを見せまいとしている母に、子どもの頃はどうしてだろうかと思っていた。だが最近になって母が零したことがある。
「まあちゃんは私に似てるのよね」と口にした母に、自分に対して弱みを見せられない不器用さを感じた。同時に女の意地のようなものまであって、男であり息子である俺には理解も共感も出来ないと思ったものだ。
「上総さんの前では、その強がりは崩れるんですか?」
「……俺は、父に似ておるからな」
 ああ……と美丈夫の口から深く納得したような声が聞こえた。同時に俺が母に元に帰る理由も、それなのだと気が付いたかも知れない。
(誰かを深く愛することは可哀相だ)
 母を見ているとそう思わずにはいられなかった。
 愛する人を喪うことがあれば、人はあんなにも脆く壊れてしまう。あんなにも悲痛な嘆きを味わうことになる。
 もしある日突然母のように愛する人を喪ったのならば、愛した分だけ痛みが押し寄せる。深く求めていた分だけ、ずっと苦しみ続けることになるだろう。
(何年も、何十年も、喪った人を恋しく思い、求め続ける人生だ)
「俺はな、母を見ていると人を愛することは恐ろしいと思う。こんな思いはしたくない、もっと平和に、穏やかに暮らしたい。身も心も焦がれるような思いはしとうない」
 人はいつか必ず死ぬのに、その時自分が壊れてしまうと知りながら人を好きになるほどの強さは持ち合わせていない。
 俺のそんな気持ちは、美丈夫に対する警告でもあった。
 美丈夫は俺の頑なさに怯まなかった。それどころか背筋を伸ばしては意を決したように、見事なまでに整った容貌を引き締める。男前が更に冴えたようだった。
「俺はそれでも貴方が欲しい」
「……怖いと思ったことは?」
「あります。自分が自分ではなくなるような感覚なら何度も味わっています。それでも引き返すことは出来ない。俺には後ろなどありません」
 引き返すことが出来るのは、後ろに道がある者だけだ。前しかない人間は、進むしかない。
 けれど美丈夫のような聡明な人間が、一直線に前しか見えないなんてことがあるのか。何事にも逃げ場、迂回路を作って自分の危機を出来るだけ分散させるものではないのか。
「百年の恋も冷めることがあるらしいが?」
「その時は俺の心臓も冷たくなり、止まっていることでしょう」
「随分大きく出たな……」
 死ぬまで恋をしている。
 それは情熱的な口説き文句だろう。まして美丈夫ほどの男前に言われたのならばくらりとよろめきそうな台詞ではある。
 だが俺は揺らめくどころか口元を少しばかり緩める程度に収めることが出来た。
「同性愛者ではない俺が、一目惚れをして貴方を強引に嫁にまでした。それがどれほどの衝動と執念であるのか。もはや俺だって分からないんです」
 愛や恋という甘い言葉を使わずに、衝動と執念と語る。飾りを捨てた生身の心に気圧されるのを感じた。
 思いの深さと重さならば美丈夫から頻繁に伝わって来ているはずなのに、たまにこうしてその思いの強さを改めて思い知らされる。
「喪うことは確かにとても恐ろしいことです。だが喪わないように努力することは出来ます。喪うことを恐れて手を伸ばさずに耐えるなんて、俺には出来ない。欲張りなんです」
「……知っておる」
「恐怖は俺を縛り付ける枷にはなりません」
 喪いたくないから、自分一人で孤独に生きることを選ぶ。傷付きたくないから、誰かと寄り添うことを諦める。
 何も怯えたくなかった。これ以上不安を抱えて生きていくのはまっぴらだったのだ。人を愛する喜びよりも、人を喪う恐ろしさの方が俺にとってはずっと生々しい。
(美丈夫はその痛みをきっと知らない)
 そして想像するだけで怖じ気づくほど気弱でもない。常日頃は頭の回転の速さと冴えを見せる人が露わにする無鉄砲さが、嫌ではなかった。
「若いな」
「青臭いですか」
「ああ。眩しいほどに。それほど俺に心奪われておると言いたいのか」
「はい」
 気高さと美しさ、何より情の深さと怜悧な心身を持っているというのに。この男は俺などという人間を躊躇もなく欲しがる。そのバランスの悪さに胸の奥を素手で掻き混ぜられるようだった。
 ソファから腰を上げて、美丈夫の隣に座り直した。真横に座った俺に美丈夫は少し驚いたようだった。
「男を抱くことに抵抗はないのか?」
「あります。でも貴方に関しては一切ありません」
「俺も男なんじゃが」
 男を抱くのに抵抗はあるというのに、俺にはそれがないというのもおかしな話だ。俺はただの、どこにでもいるような平凡な男でしかない。
「貴方は唯一特別な存在です」
 嫁と美丈夫は言わなかった。たった一人、別枠にいる人間だと告げる人に俺は自分が思っていたよりもぐらりと意識が揺れたのを感じた。
 とっさにそれが怖いと思う。思うのだが身体は俺が怯えるよりも先に、美丈夫に口付けていた。
 初めて自分から仕掛けた口付けに、美丈夫は硬直した。けれどやられっぱなしではいてくれない。すぐに自分から再び唇を重ねてくる。二度目の口付けには抱擁も付けられていた。
 だが背中をそっと撫でる手つきには情欲が感じられない。それどころ子どもをあやすようにぽんぽんと軽く叩かれれば、嫌でもそれが慰めであると分かってしまう。
「手を出さんのか」
 俺の問いかけはさぞかし無粋だっただろう。手を出す、出さないなんて雰囲気や相手の態度などで読み解くものであり、言葉にして答えを求めるのは色気も何もあったものではない。
 その証拠に美丈夫は苦笑いを浮かべた。
「弱みにつけ込みたくないんです」
「……弱っているように見えるか?」
「はい」
 美丈夫にそう言われても俺は実感がなかった。母を前にしていたせいか、自分の弱さなど一切浮かんでこない。
 むしろ生前の父をよく知っているというのに命日を淡々と過ごして、母の心配しかしない俺は冷淡なのではないだろうか。
「お母様と志摩さんを支え続けて大変でしたね。お父様が亡くなられてから、上総さんはずっとお二人を支えて来られたのでしょう。お母様が壊れそうなことを恐れながら、幼い志摩さんを必死に守った」
 頑張ったねと褒めるようにして、美丈夫がぎゅっと抱き締めてくれる。
(十近くも年下の男が、何を知ったようなことを言っておるのか)
 こんな風に労られるほど子どもでも、また弱り切ってもいない。とうに成人した一人の男として、俺は当たり前のように振る舞っていただけだ。まだ若かった頃、中高生の頃ならばまだ悩みもしたかも知れないが、そんなものは過去の話だ。
 勝手に苦労を強いられた可哀相な人のように見ないで欲しい。
 そう思うのに、肩から力が抜けていった。
 寄り掛かれと言うように美丈夫の手が俺の頭を引き寄せてくるのに任せて、肩口に頬を預けた。
 母や志摩を重たいと思ったことはない。守ることが嫌だと思ったことも。
 彼女たちは自由奔放で目を離すとどこから飛んでいってしまいそうだったから、近くにいて欲しいと引き留めていたようなものだ。失うのはもうたくさんだった。
 家族が一人でも欠けるのが嫌だった。たぶんずっとそんな気持ちが自分の中にあった。
 三人で寄り添って、出来るだけ幸せに、もうこれ以上の不幸が来ないように祈っていた。
 そのために出来る限りのことをしようと思っていた。
(でも俺は何も我慢なんてしてない。あの家が息苦しいと思ったことだってない)
 むしろ愛おしい我が家だった。
 だがこうして美丈夫に抱えられていることが心地良いというのが、不思議だった。誰かに身体を預けることが安堵になるものだとは知らずにいた。
「大丈夫です」
 美丈夫は抱き締めたまま、俺にそう囁く。ぬくもりしか感じられない声は性的なものを含まない。欲情を向けることはないのだと教えているのだろう。
 手を出さずにいる美丈夫にほっとする反面、困っているのも事実だった。
 こんなにも我が身をゆだねられることなんて、この先あるとは思えないのに。美丈夫は今を逃しても良いのだろうか。
 しかしちらりと見上げると美丈夫はそれは慈愛に満ちた瞳をしていた。綺麗だと素直に思えるその色に、この人に出逢うことが出来たということは俺にとっては意味があると思えた。
「おまえさんは、本当に良い男じゃな」
「惚れそうですか?」
「どうじゃろうな」
 じゃれつくようなやりとりをして、俺はほうと息を吐いた。その吐息がいつも通りのものでないことに薄々勘付いてはいる。
(まずいな)
 そう心の中で呟いても、何がまずいのかは深く追求したくなかった。







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