美丈夫の嫁7 5





 墓参りは毎年昼からだ。朝に行こうと思っても寝起きが悪い上に腰の重い母と志摩によって昼までずれ込んでしまう。ならばと最初から昼から行く予定で一日のスケジュールを立てることにしている。
「別に黒い服じゃなくてもいいのに。普通の服で十分よ」
 玄関先で母は子どもたちを見てそう口にした。
 俺は黒いセーターとジャケット。黒いチノパンという真っ黒な服装だ。志摩もまた黒いワンピースとカーディガンを着ている。礼服よりかはやや軽い服装だが、誰がどう見ても喪服という印象を受けてしまうことだろう。
 まして黒い服じゃなくていいと言った母ですらも、真っ黒なのだ。黒いシャツとジャケット、黒いスカートに黒いパンプス。こちらは葬式に着ていけるレベルの服装だった。
「いつまで気を遣ってるの」
 苦笑する母は目の下にくっきりとクマを作っている。ろくに眠れていないことは聞くまでもなく、母によく突っかかる志摩ですらもこの日ばかりは口数が減る。
 ぽつりぽつりと途切れがちな会話をしなから電車を乗り継いで墓地に向かう。山の麓にあるその墓地は、電車から降りると地元よりも少し肌寒く感じた。土日でもない平日に人気はなく、山の自然を背景にひっそりと存在していた。
 鳥の軽やかな声や鮮やかな紅葉は実に穏やかだ。天気も良く、これが墓参りでなければ、清々しい気持ちにでもなれたかも知れない。
 乾ききった風に乗って線香の匂いが漂っている。誰もいないのに、線香の匂いだけが漂うのは物悲しさを深めているようだった。
 母は無言で墓地を進んでいく。数多くの、数百という墓石があるのに、母は一度も迷ったことがない。どれも似たような形、色、大きさの墓石だというのに母にとって父の墓石は特別に見えているのか。それとも単純に道を正確に記憶しているだけなのか。
(……俺たちは、いつ楽になれるんだろう)
 小さな母の背中を見詰めながら、毎年思うことが今年もやはり胸に浮かんで来た。
 母の心にあるだろう傷はいつまで生々しく血を流し続け、塞がることもなく痛みを生み続けるのだろう。
 俺の隣にいる志摩は墓参りの際は居心地が悪そうだった。母の姿を見て、自分の気持ちとの隔たりを感じているのかも知れない。
 死んだ父を共に悼むことが出来ない。共感する部分がもうほとんど残ってないだろうこの子にとって、この墓参りはおそらく苦痛に近いはずだ。
 それでも「行かない」と言わない志摩は、思いやりのある子だと思う。
 母は父の墓石を見付けると、持って来た掃除道具で墓を清め始めた。志摩に言って小さなバケツに水を汲ませて、タオルで墓石を拭く。俺は周りに生えている雑草やゴミを払いながら墓石を拭う母の顔を窺う。ずっと無表情で、何を考えているのかは全く察せられない。
 墓石とその周りを綺麗にすると仏花を添えて、線香を焚き、手を合わせる。
 母は墓参りの際、ほとんど喋らない。泣きもしない。淡々と機械的に墓参りの作法をこなす。
 それは冷静というよりも、父が死んだという現実を認めないというような強固な意志を感じさせた。
 ここに父はいない、だからここで嘆き悲しむ必要など無い。そんな一種の頑なさと歪みが透けているように思えた。
 その頑なさが、俺は未だに恐ろしい。
 母が父の後を追うのではないかという不安が、墓参りで母の背中を見る度に蘇る。いつ、どんなきっかけで母が儚くなってしまうのか分からない。
 自分たちは母を現実に引き留める命綱に、もしくは枷になっているだろうか。なっていたとして、母はそれで幸せなのか。
(父がいない今を生きていることを、母は納得しているのか)
 いつも答えが分からない。
 息が詰まる沈黙の中、母が墓石に手を合わせるのを終えてきびすを返す時を待っていた。それが墓参りが終わった合図だからだ。
 けれど母は振り返るのではなく、深呼吸をしたようだった。
「さっちゃんが、蔭杜のご長男のお嫁さんになったのよ」
 柔く微かな声で墓石にそう語りかけた母に、耳を疑った。母はこれまで一言たりとも墓石に声などかけなかった。父に対しての言葉を、亡くなってから一度も発したことがなかった母が、命日のこの日に唇を開いたのだ。
 思わず志摩と目を合わせた。志摩の大きな瞳も真ん丸になって零れ落ちそうだ。
「まあちゃんならともかく、さっちゃんよ。男の子なのに、お嫁さんだなんて変よね」
 背後にいる子どもたちの衝撃など気にせず、母は優しい声で喋り続ける。その声は父が生きていた頃には当たり前のように聞くことが出来た、愛おしさを滲ませるものだ。
 あまりに懐かしく、記憶の奥からあたたかなものが溢れ出すのを感じた。
「しかもあの蔭杜だなんてね……。貴方を締め出したおうちなのに、向こうからさっちゃんが欲しいなんて言ったのよ。笑えるわね」
 父が蔭杜から締め出されていたという話は聞いたことがある。だが詳しい事情を母は語らなかった。ただ父が亡くなる前に、父が両親を亡くしていること、母と結婚したことに関して何やら揉めたのではないかということはうっすらと聞いていた。
 二人にとっては触れたくない過去のようだった。
「でも蔭杜のご長男とは仲良くやってるみたい。まあちゃんにも彼氏が出来て、それも蔭杜の人みたいなのよ。まあちゃんは教えてくれないけど、そういうことって母親の耳には入ってくるのよねえ」
 一人暮らしをしている志摩に彼氏が出来たこと、またそれが蔭杜の人間であることを、母はどこで知ったのか。
 志摩は俺の隣で口元を抑えて驚愕していた。バレているなんて思ってもみなかったのだろう。
「子どもがそれぞれ出て行って、今は家に一人なのよ。子どもの手が離れるっていうのは親にとっては楽なものだけど、静かね」
 母は俺と志摩が出て行ったことに関して、これまで「気楽になった」とだけ言っていた。三人で暮らしていたのに、いきなり一人になってしまって、寂しさを覚えないはずはないだろうとは思っていた。まして一人で暮らすにはあの家は少し広い。
 けれど母は孤独を口にすることはなかった。意地っ張りで、弱みなんてこの時期以外は一切見せようとしない人だから、子どもを頼ることも、まして一人になってしまったことに心細さのようなものを零しはしないだろうなと思っていた。
 だがここで、父の前で語るとは。
「いつかそうなることは分かってたけど。もしそうなったら、二人で仲良く」
 そこまで唇に載せて、母は喋るのを止めた。
 呼吸が震えているのが聞こえる。細い指が墓石に伸ばされては、そこに刻まれている名前を辿った。
(二人で……仲良く……)
 寄り添って生きていこうと、思っていたのだろう。
 俺が覚えている夫婦の姿ならば、きっとそれが叶った。仲睦まじいあの夫婦ならば、子どもが家を出てからも二人で支え合って生きていくことが出来ただろう。優しい父の微笑みがそれを許したはずだ。
「っ……」
 嗚咽が聞こえる。
 震える肩が大きく上下しては、母が父の名前を紡ぐ。
 久しぶりに耳にするその名前は、逢いたいと、恋しいと呼んでいるようなものだった。
 目の奥が熱くなっていく感覚に俺は唇を噛み締めた。
 長い年月をかけてようやく語りかけることが出来た母の、その切実さに返ってくる声はない。
 志摩は顔を覆って泣いていた。ひくっと母よりも大きな嗚咽を漏らしては、その場にしゃがみ込んでしまう。冷たい女だと言ってこれまで散々突き放してきた母の、こんなにも一心に亡くした人を求める姿を、志摩はどう見ただろう。
(痛ましいだろう。じゃがな、俺には母が今ようやくしっかりと地に足を付けたような気がする)
 それまで現実から出来るだけ目を逸らして、直視することを厭っていた母が、父の墓石を初めてはっきりと見詰めた気がした。
 父は死んだのだと、何度も何度も思い知ったはずだ。毎日の暮らしの中、至る所に父の名残がある。それは十六年経った今でもそうだ。
 けれど母はそれをずっと認めなかった。それがここにきて、ようやく母は喪失を飲み込み体内へ、胸の中へと収めたように感じた。
(本当は、家を出ることは良くないんじゃないかと思った)
 父を失った時、気が狂ったのではないかと思うほど悲しみに沈んだ母が。俺も志摩もいなくなった家に一人残されるということは、孤独と父の痕跡に押し潰されてしまうのではないかという不安があった。
 家族を失うことを、きっと誰より恐怖している母にどんな影響があるのか。心配になって俺はちょくちょく連絡は取っていた。実家に戻って、母がどんな生活をしているのか探りもした。
(もし何ぞあれば、家なんて出るべきではなかったと悔やむ。美丈夫の元になぞ行かねば良かったと思うはずじゃ)
 けれど一方で、俺たちも一人の人間だ、いつまでも母親と一緒に亡くなった父親を悼むだけが正しいわけじゃないとも思っていた。
(俺が出て行ったことが正しいとも、まだ思いはせん)
 だが母にとって、何かが変わったのは間違いない。
 母は墓石から手を離しては目元の涙を拭ったようだった。小さな身体が深く息を吸い込み、少しばかり大きくなったような気がした。
「せ、せっかく、姑になったんだから、婿いびりでも、してやるわ」
「え」
 泣き声で告げられた台詞に、俺は呆気にとられて思わず声を出してしまった。
「本家の、ご長男をいびれるなんて、私くらいしか、出来ないものね」
 ふんっと震える声のまま、母は意地の悪いことを言う。
 婿いびりという、これまで聞いたことがなかった言葉を耳にして俺は脱力してしまった。それはいつもの自由気儘に生きている母の言葉だ。父の死に嘆くことしか出来ない、未亡人の儚さではない。
「……母よ」
「息子を嫁に取られたのよ。それくらい、許されるわ。許されないものですか」
 喋る度に母の口調は滑らかになっていく。涙の気配は薄れていくことに、安堵よりも小さな戸惑いの方が強かった。
 本当に大丈夫なのか、悲嘆を抱き続けた母が本当に今、立ち直ろうとしているのか。
「……子どもが大きくなるのは、あっという間ね。私も年を取ったわけよ」
 やってられないわ、とそう愚痴りながら母はまた墓石を撫でた。けれどそれは先ほどまでのすがるような手ではなく、そっといたわるような手つきだ。
 子どもの頃に俺を撫でてくれた、あたたかく柔らかな手そのものだった。
 



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