美丈夫の嫁7 4 美丈夫に伝えていた大掃除は、実家に帰るための口実のようなものだったのだが。せっかくそう言ったのだからと思い、掃除を始めるとついむきになってしまった。 実家のあちこちがそれだけ汚れているからだ。 たまに帰ってきた時に軽く掃除をしたり、片付けたりということはしていたのだが。命日を前に気鬱になった母は、元々サボりがちだった家事をほとんどしなくなったのだろう。 雑然とした空間になった家にどうしても落ち着かず、整理整頓から手を付けると何もかもが気になってしまった。 現在自分が住んでいるところが常に綺麗な空間だから余計に放置しておけないのだろう。 「空気に入れ換えくらいせよ!」 「最近寒くなったじゃない……」 埃の溜まった調味料入れにそう文句を言わずにいられなかった。この埃の溜まり具合は換気を怠っているのが明白だ。 母はうどんをずるずると気怠そうに食べている。いらないと言って食事を拒絶しないだけましだと思いながら、俺は袖をまくってはガスコンロにスプレー洗浄をかけた。うどんを作ろうと思ったらコンロに油汚れがこびりついているのが目に入って、どうしてもそれを綺麗に落としたくなったのだ。 分かっている。俺だって父の命日に壊れてしまう母をどう受け止めて良いのか分からなくて、何かに夢中になって現実から一時的に目を逸らしたいのだ。 子どもの頃から変わりない。 俺にとってこの日は、やっぱり怖いままだ。 うどんを食べ終わった母は、台所の椅子に座ったまま動かなかった。掃除なんてする気分ではないのだろう。陰った瞳を見ていれば、憂鬱に沈んでいるのがよく分かる。 俺は動かない母にあれこれ話しかけながら、ガスコンロだけでなく換気扇の掃除にまで手を付けた。ぐだぐだと喋っていると母は適当に相づちをうってくる。人の話を聞くだけの余力はあるのだ。 (俺が成人する頃くらいまでは、こうして喋ってくれることもなかった) 黙ってただ、そこにいるだけだった。 あの頃を思えば少しずつ母も立ち直ってきているのだろうか。 そうしている間に日も傾いてきて、晩飯はどうしようかと思っていると玄関が開く音がした。 「まーちゃん……」 大きな鞄を肩から提げて、志摩が台所に入ってきた。むすっとした顔は母に向けるものだ。 「どうしたの」 「なに、いいじゃない別にいつ帰って来たって」 志摩は素っ気ない態度で母を見下ろした。 それに対して、何のために帰ってきたのか母も分かっているだろうにあえて分からないふりをしているようだった。たぶんそんな反応も、志摩は気に入らないのだろう。 「そんなこと言って、普段は寄りつきもしないくせに」 「ほっといてよ。大したことじゃないわよ。最近寒くなってきたから、こっちに置いてる冬服を取りに来たの」 「引っ越す時にほとんど持って行ったくせに」 志摩はそんな指摘をされて、苛立ったように母を睥睨してはすぐに視線を外す。どうしてわざわざ志摩の神経を逆撫でするような会話をするのか。 そっとしておいたほうが良いのだとあからさまに分かるような流れだ。まして訊かずとも分かる理由をわざわざ喋らせることもないだろうに。 「またこんなにお酒飲んで。馬鹿じゃないの」 俺がシンクの端に並べたビール空き缶を見て、志摩は吐き捨てるように口にする。辛辣な声音に母は鬱陶しそうに頬杖をついた。 「ほっといてよ」 志摩と同じ台詞を言ったのは意図的なものなのか、それとも無意識か。どちらにせよ志摩はそれに表情を変えた。 母に対して憤りをぶつけようと息を吸い込んだのが感じられる。怒声が響くより先に、俺は「志摩」とあえて少しばかり大きな声で名を呼んだ。 「晩飯をどうしようかと思っておるのじゃが。何が食いたい」 気を逸らされた志摩はぐっと怒りを飲み込んだようだった。 勢いのまま吐き出したところで母は相手にもしてくれない。どうせ嫌な気持ちになるだけだということくらい、この子も分かっているのだろう。 「……お鍋にしようよ。一人じゃ食べられないし。今日寒いから」 ぼそりと拗ねたようにそう言う志摩に、俺は頷いた。一人暮らしをしている子にとって、実家にいた時には頻繁に食べられた料理も縁遠くなってしまったことだろう。 「そうじゃな。では買い出しに付き合え」 「えー、私帰ってきたばっかりなんだけど!」 「早う荷物を置いて来い」 エプロンを脱いで出掛ける支度をする俺に、志摩はぶーぶー文句を言っていたけれど、家から出る時にはどこかほっとしたようだった。 母と二人で家にいるよりましだと、その顔が伝えてくることに俺は少しばかり苦い思いだった。 志摩はどうしてこの日に帰ってきたのかは言わなかった。俺も母も訊かない。そんなことは口にするまでもなく三人とも分かっている。 明日が命日であることも、誰も言わない。 毎年そうだ。言わなくとも、訊かなくとも、よく分かっている。 志摩は泊まりの準備をしてきていた。明日が墓参りなのでどうせ明日も家族で行動することになる。いちいち帰るのが面倒なのだろう。 (もしくは母親を放っておけぬか) 晩ご飯の鍋を食べ終えて、片付けを済ませると三人ともがこたつに入ってはテレビを眺めていた。俺が組み立て、数ヶ月ぶりに電気を付けたこたつは自然と三人をこの場に留めていた。 テレビに何が映っていたところで関はもない。心がここにない人間たちが何を目にしていても感想が浮かんでくるわけもなかった。 静寂を厭ってただ流しているだけのことだ。薄っぺらい笑い声を流すバラエティが滑稽にすら思えるけれど、それを口に出すこともなんとなく躊躇われた。 妙な緊張感のようなものが流れている。家族なのに気まずい、そんな気持ちが空中を漂っている。 ぽつりぽつりとした乏しい会話を引き裂くように、着信音が鳴り響いた。 この日、この時間に電話が鳴ることは、我が家にとっては恐怖だった。父が亡くなる前日もこれくらいの時間に電話がかかってきたことを母は鮮明に覚えている。その証拠に母は硬直しては唇を噛んだ。 「すまぬ」 着信音を響かせたのはテーブルの上に無造作に置いてあった俺のスマートフォンだ。画面を見ると美丈夫からで、俺はすぐにスマートフォン片手に廊下に出た。 リビングと廊下を繋ぐドアをぴったりと閉める。 「もしもし」 『誉です。今お時間よろしいでしょうか』 電話をかけてくるのに問題になるような時間帯ではない。ただ俺たちにとって触れられたくない時間であったというだけ。美丈夫には何の関係もないことだ。 それでも込み上げる憂いを飲み込んで、何でもないように声をやや明るめに整えた。 「どうなさった?」 『明日はお父様の命日だそうで』 (……調べたのか、教えられたのか) 俺を実家に送り出す時は何も言わず、あっさりと見送ってくれた。なのに数時間後の今になってそれを伝えて来るということは。何かのタイミングで知ってしまい、つい電話をかけてきたのだろう。出来れば俺が帰るまで知らずにいて欲しかったのだが。 「そうじゃな」 『明日、そちらにお邪魔してもよろしいでしょうか』 正直驚いた。 父の命日を他人が気にすること、まして教えてもいないのにわざわざ足を運んで来ようとするその行動が、俺の頭になかったことだ。 (美丈夫がここに来る……) 彼ならば仏壇の前に座り手を合わせることだろう。明日来るというのならば墓参りにも同行を願うはずだ。 「申し訳ない……」 父の墓石の前に立つ美丈夫を想像すると、唇はそう断りの台詞を紡いでいた。 「もう亡くなったのは十六年も前で、ただ墓に参るだけじゃから。身内で簡単に済ませようと思っておる。お気持ちは有り難いがご遠慮願いたい」 考えたこともなかった可能性に動揺を押し殺して、俺は明日がこれまでと変わりないものになる道を選んだ。小さな異分子すらも、招き入れるのが怖かった。 美丈夫はしばらく黙り込んだ後『そうですか』と小さく返事をする。傷付いたのだとはっきり分かる声に罪悪感が込み上げるけれど、自分の決定を覆すつもりはなかった。 早々に電話を切り上げてこたつに戻ると、志摩が自分のスマートフォンを操作しながら「仕事?」と何も気付かずに問うてくる。 「連休取ったんでしょう?」 「俺とてたまには連休くらい取るわい」 「誉君なんでしょう?」 仕事の電話だと勘違いした志摩の発言に乗っかって、そのまま流してしまおうとした俺の思惑を破り、母は美丈夫からの電話だと決め付けてくる。 ちらりと見上げるその視線は普段の生気が欠けているというのに、子どもの嘘を見抜くだけの強さだけは残していた。 「…………ああ」 「嫁が実家に帰ると、旦那は気になるもんよね」 「大した用事ではない」 「ふぅん……さっちゃんを嫁に貰った年だから父親に挨拶でも。なんて言い出しそうなもんだけど」 母の台詞に俺はテレビへと目を向けた。どうでも良いCMを眺めながら、内心焦りもあった。 ここまで鋭いと一体どうやって会話の矛先を誤魔化して良いのか分からない。 (廊下に出て美丈夫と喋っておったというのに聞こえたのか?テレビの音が邪魔をするはずじゃろう。現に志摩は聞こえておらん。完全に勘で言い当てたのか?) 母親の子どもに対する勘は敏感なものであり、それを体感することはこれまで何度もあったけれど。美丈夫とのことまで察せられるのは気まずい。 息子の顔だけでない、美丈夫に嫁として請われる自分の顔は出来るだけ誰にも見せたくないものだ。 それがどんな表情なのか自分では分からないからだ。 「律儀な感じするわよね。ご長男」 「そうかも知れんな」 「蔭杜ってどんな感じなの?」 母は頬杖を突いては淡々と問いかけを続けている。興味がなさそうなのに、はぐらかしを許してくれない。 「俺はあんまり関わっておらん。ろくなことにはならんじゃろう。じゃから詳しいことは何も知らん」 「勿体ない。あの蔭杜の直系の嫁になるっていうのに」 「止めてよお母さん。お兄ちゃんはお母さんみたいに好きで蔭杜に行ったんじゃないんだから」 志摩が鋭く口を挟んでくる。母が蔭杜の権力のようなものに魅力を覚えている様は、志摩にとっては不愉快に思えるらしい。 圧力をかけられて俺を蔭杜に取られたという気持ちがまだどこからにある子にとって、母のような考え方と到底認められないのだろう。 「でも使えるものがあるなら使った方がいいでしょう。金も権力も」 「大っ嫌い!そんな薄汚い考え!」 あるものは何でも利用すれば良い。そんな明快な思考の母に対して、志摩は嫌悪を示しては厳しく切り捨てた。薄汚いという表現に俺は言葉が過ぎると思ったのだが、母はそれを鼻で笑う。 思春期にありがちな潔癖さを軽くあしらったようなものだ。 志摩が中高生の頃はよくこうした衝突を見ていたけれど、それは志摩が大人になるにつれて激減したのだが。不意に蘇ってくるらしい。 睨み付ける娘に対して、母は「はいはい」とやる気のない返事をしてはこたつの天板に突っ伏した。疲れ果てたと言うようなその有様は志摩の怒りなどでは心乱されることもないと言っているようだ。 相手にしない、そう目に見えて分かる形で表されて志摩は唇を噛んだ。 母を傷付けてしまうような言葉を選んだ。叱られることを覚悟した。だが母は何の反応もしない。 いっそ志摩に怒りを見せたほうが、まだ志摩は納得しただろう。きっとこの日でなければ母は志摩に言い返すか、諭すように叱るなりしたはずだった。 女手一つで二人の子どもを育てた母にとって、使えるものは何でも使うという考えは決して間違っていないからだ。その信念を俺も聞いたことがある。 だが今の母にとって、そんな信念も志摩の憤りも、きっと頭の中を素通りしていくのだ。 何も残らない。何も心を掴み取ってくれない。 (せめてこれくらいの時間に、電話は鳴って欲しくなかった) 良くない記憶ばかりが思い出される。 十五年だ。それだけの年月が経ったというのに、俺たちはまだどこかに立ち尽くしているような気がする。 (……美丈夫は今、落ち込んでおるじゃろうか) せっかく命日にこちらに挨拶に来たいと言ったのに、俺がすげなく断ったことにいっそ気分を害するなり、腹を立ててくれるのならばまだ良かったのだが。あの声は間違いなく悄げていた。 (あの家に戻ったら、謝った方がいいのかも知れない) だが何と言って良いのか分からなかった。きっと今落ち込んでいる美丈夫が目の前にいても、俺は声をかけられないだろう。 next |