美丈夫の嫁7 2





 上総さんがいないとなんとなく家にいてもつまらない。特に晩ご飯を食べている時は、部屋の静けさが耳障りだと感じる。
 上総さんが仕事で一緒に晩ご飯が食べられない日などよくある。なので一人で食事をすることは慣れているはずなのに、上総さんの帰宅時間を気にする必要がないというのは何とも味気なかった。いつもならそろそろ帰ってくるなと、つい時計を見てしまう自分が空しい。
 時間を持て余して母屋に足を運ぶ。珍しく父親が海外から帰って来て家にいるので、顔でも出しておこうか。栄と志摩さんが交際をしていることや、自分たちの関係が少しは先に進んだような気がする、という話も父の耳に入れておこうと思った。
 姉が蔭杜の当主ではあるのだが、実権は父が握っているようなものだ。むしろ母親が当主であった時代から、父はずっと当主の仕事を肩代わりしては地盤を固めながら家族を、いや、子どもを守ろうとしてくれていた。
 その恩義を感じるからこそ、家に関わることは小さなことでも父の耳に入れておいた方が良いだろうという意識が根付いていた。
「お、どうした誉。暇そうな顔をしているな。たまには父の晩酌に付き合うか」
 父の書斎に向かう途中の廊下で、向こうから声をかけられた。派手な柄のシャツを着た父がウイスキーのボトルと氷が入ったアイスペールをぶら下げてやってくる。
 晩ご飯も終わり夜も更けてきて、酒を片手に仕事でもしようかというところだろう。父はよく酒を飲み酔っ払ったような様子も見せるのだが、頭は冴えたままだ。アルコールが入っていても仕事をするのに支障はないようで、夜になると一人でよく飲んでいるようだった。
「別にいいけど」
「上総さんも一緒にどうだ」
「上総さんは飲まないよ」
「じゃあ茶でいい。たまには息子夫婦の話も聞いておきたい」
 からりと笑って言うけれど。それが単純に好奇心や息子の嫁と交流を持ちたいだけの軽いものではないことは察せられる。関係がどんなものになっているのか、本人たちを前にして自分の目で確かめたいのだろう。
「残念ながら上総さんは今うちにはいらっしゃらない。ご実家だ」
「は?逃げられたのか」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。今日はご実家の大掃除に行かれてるだけだ」
 実家に帰ったという表現に、父までも面食らったようだった。息子が三行半でも突き付けられたのかという顔をするのに、即座に否定をした。
(やっぱり誰だって焦るんだな)
 上総さんの口から聞いた時に頭の中が真っ白になった自分の反応は、そうおかしなものではなかったらしい。
「大掃除?御母堂は引っ越しでもされるのか?」
「違う。年末は上総さんがお忙しいから、毎年今のうちに大掃除をされるらしい。お母様では力仕事が大変だからと」
「へえ……父親がいない分、上総さんにはそういう役割もあるだろうな。特にあの家は上総さんが支えているようなところがあるからな」
 父も上総さんがあの家を支えている柱であると思っているらしい。しかしその柱はすでに別の家で暮らしているのだ。上総さんのご家族にはその点に気が付いて欲しい。
「しかし大掃除ねえ……」
「別に年末にせず、早めに取りかかっても構わないと思うけど」
 父はこの時期に掃除をする上総さんに引っかかりを覚えているようだった。視線を外しては何やら思案を始める。
「ちょっと来い」
 悩んだまま父は歩き出す。自室に戻るらしい父の背中に続きながら、何にこだわっているのか分からずに少し戸惑った。
(お母様に何かあったなんて話は聞いてないが。病気で伏せっているのか?)
 母親の具合が悪い、入院している。という話になれば上総さんも俺に教えてくれるだろう。そもそも大掃除だなんて嘘をつく必要もない。母の看病のために実家に帰ると言われて止めるような男だとは思われたのか。
(いや、そんな人間なら大掃除に帰るということだって止める)
 隠したい事実があるとも思えないのだが、と首を捻りながら父の書斎に入った。
 廊下のどん詰まりにあるドアを開けると、そこは完全に洋室だった。フローリングの床にアンティークの雰囲気を纏った重厚な作りの書斎机と椅子。壁には本棚がそびえ立ち、和書洋書区別無く詰め込まれている。本棚の高さと数ならば上総さんの部屋の方が多いのだが、圧迫感はこの部屋の方が勝っていた。
 和室ばかりの母屋において、この部屋だけは和風の空気を完全に排除している。それは父がこの家から自室を隔離しているようだった。
 子どもの頃からここが父の城であり、蔭杜の中で孤独を抱えながら一人奮闘していた父の居場所でもあるのだと、うっすら感じ取っていた。
 父はポケットからキーケースを取り出しては小さな鍵を一つ引き抜く。そして書斎机の引き出しを開けた。
 白いファイルを取り出したかと思うと紙をめくっている。おそらくそれは上総さんの身辺調査の結果報告書だ。
 俺の嫁に迎えると決めてから、上総さんの身辺は細かく調べ上げられた。蔭杜に不利益にならない人物であるかどうか判断するためだ。
 身辺調査をされたことは上総さんも勘付いているようだった。俺や姉が上総さんの情報について詳しいことに疑問を呈さない。どうして知っているのか、という問いかけをすることもなく、それが当然なのだろうとばかりに聞き流している。
(そういうところも察しが良くて助かってる)
 無駄に詮索しない。こだわらない。上総さんは蔭杜の中で平穏に過ごすために、様々なことに目を瞑ってくれている。それが俺たちにとっては有り難いことだった。
「ああ、やっぱりそうか」
「何が?」
 父の疑問は晴れたらしい。一体何に引っかかったのか。答えを求める俺に、父は深く息を吐いた。
「明日は上総さんの父親の命日だ」



 母は、毎年この時期に駄目になる。
 好きでもない酒を浴びるほど飲んで、泥酔しては倒れるように眠る。どうせ酔っても気持ち良くなんてなれない。むしろその逆で吐き気に襲われて意識が朦朧とするだけだろう。過ぎる酒は毒になると身をもって体験しているはずだ。
 けれど母は酒を飲み続ける。それは酒を憎んでいるようでもあり、自分に罰を与えているようでもあった。
 そんな行為には何の意味もない。ただ辛くなるだけだ。
 俺はそう言って止めたこともあった。だが母はそれを聞き入れなかった。
 そしていつしか気が付いた。
 母はこうすることによって辛くなりたいのだ。楽になりたいなんて思っていない。ただひたすらに辛く、この世で最も辛くなりたいからこうしているのだと。
「……案の定か」
 実家に帰ると母は寝室の布団に倒れていた。眠っていると言えないのは、身体は半分投げ出され、毛布もろくにかかっていない上に枕とは離れた場所に頭があったからだ。どう見ても行き倒れにしか見えないような体勢だった。
 むしろ布団の上で寝ているだけまだましだと思える。
「昔は布団の上にもおらなんだな」
 台所のテーブルに突っ伏して寝ているか、寝室には辿り着いたけれどそこで力尽きて丸くなって眠っていたものだ。
 朝起きて、その光景に溜息をつくのが毎年のことだった。
 昼過ぎだというのに一向に起きる気配のない母を見下ろしながらも、責める気持ちにはなれなかった。
 そのだらしさから目を逸らしては、寝室にある仏壇に顔を向けた。
 小さな仏壇は綺麗に掃除がされている。仏花も飾られ、静謐な様を保っていた。
 家の玄関に靴は乱雑に脱ぎっぱなし、リビングには同じく衣類が投げ出され、台所なんて飲み食いをした跡がそのまま残されていた。とてもではないが直視出来るような有様ではなかった。
 なのにこの仏壇だけはまるで別次元にいるかのように、いつも綺麗だった。
 テレビや棚の上、フローリングの隅どころか廊下の端や洗面所の収納部にも埃が溜まって白く汚れているというのに。この仏壇には埃は一切見られない。
 毎日掃除をしているのだろう。
 俺が実家で暮らしていた時にそうしていたように。掃除をして、線香を上げて仏壇の前に座って手を合わせているのだ。
 通常仏壇の前で手を合わせるのならば、故人を偲び、思い出を噛み締めるなりするのだろうが、母はただ黙って位牌を見詰めるだけだ。
 そこにはいつも何の感情も見えなかった。
(今でもまだ、そうなんだろう)
 俺が出て行ってから数ヶ月しか経っていない。十何年もずっとどろりとした何も浮かんでいないただ暗いばかりの瞳を向けていた人が、いきなり変わるとも思えなかった。
 布団から身体を投げ出すように眠っている母は、苦しそうに見えた。眉を寄せて、唇を引き結んで、何かに耐えているかのように眠っている。とてもではないが、心地良い眠りの中にいるとは思えない。
 いつもならば目立たない顔の皺が、今日ばかりはくっきりと浮かんでいるように感じられた。年を取っているのだと思い知らされる。
 眠りに就くまで何を思っていたのか。おそらく考えるまでもないことだろう。
(やはりこの日だけは駄目か)
 父の命日の前日と当日だけは、母は使い物にならなくなる。普段は明るく気儘に過ごしているというのに、別人になったかのようにふさぎ込んでしまう。
 だからこの家を出ることがあっても、この二日間だけは実家に戻ろうと決めていた。そうしなければ母がどうなってしまうのか分からなかった。
 溜息をついて仏壇の前に腰を落とした。正座で父の位牌と向き合う。
 手を合わせては目を伏せた。
 語りかける言葉なんてもうない。記憶の中にいる父の姿は年々おぼろげになっていっては、俺から父親というものの実感を奪って行く。
 それが自然であることも分かっている。だから尚更、背後でひたすら喪失に沈んでいるのだろう母の姿を直視するのが苦しかった。
 線香の匂いに包まれながら、俺は肩を落とした。




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