美丈夫の嫁7 1





「明日から実家に帰る」
 晩ご飯を食べながら上総さんはさらりとそう言った。
 丁度口の中に入ってきたあたたかな味噌汁が急激に冷えていくようだった。
(実家に、帰る……)
 それは典型的な離縁の常套句ではないか。妻が夫と一緒に暮らすのが苦痛になり、同じ空気を吸うのも嫌になって家を出る際によく言われる台詞だ。
 愕然とする俺の隣で上総さんは涼しい顔でご飯を食べている。対面キッチンにあるカウンターで食事を取ることが多く、今日も横に並んで朝食をとっている。距離が近いので向かい合って食べるよりも気に入っていたのだが。この時ばかりは上総さんの横顔しか見えないことが惜しまれた。
 離縁という決断を下すような鬼気迫ったような気配も、また緊張感もない。
 だがこの人は何の前触れもなく平然と爆弾を落としてくることがあるので、表面上淡々としていても油断が出来ない。
 上総さんの感情があまり顔に出ないところは、蔭杜で暮らしていく上に重要なものであり。平静を装える技術が備わっていることは有り難いとは感じているけれど。それを自分に対して発揮されると困る。
(俺は何かしたか?)
 最近の自分の言動と上総さんの様子を思い出すのだが、これと言った心当たりがない。上総さんを口説くことはあるけれど、触れることは我慢をしている。当然キスなどの行為も止めていた。
 あまり一気に距離を詰めるときつく反発されるのだということは、以前自慰を見せ付けた時に理解した。自分の気持ちを露わにして言い寄ることは許されるけれど、露骨に性的な接触を求めると怒りを買ってしまう。
 同性相手にいきなり強引に全部奪い取ってしまおうだなんて、やはり都合が良すぎるらしい。だが性的なことに関する嫌悪は見えなかったので、困惑が薄まればセックスも可能だろうと俺は踏んだのだが。
(甘い見通しか?だがセクシャルなことが嫌なら、とっくに俺から離れていくはずだ)
 あれから数週間以上経過したというのに、今更怒りが爆発したというのも奇妙な気がする。
(では別の問題か?志摩さんに何かあったのか?)
 以前上総さんから離縁を伝えられたことが一度あったが、それは志摩さんに強引に接触した馬鹿者がいたせいだ。志摩さんに危機が迫ったことに上総さんは猛烈に怒った。
 まさかまた似たような事態が起こったのか。
(でもそれなら上総さんはここにいない。迅速に何かしらの対処をしているはずだ。少なくとも黙っていきなり俺に離縁だなんて言い出すことはない)
 志摩さんを危険に晒したものが蔭杜の関係者であったのならば、まずは直系である俺に何かを要求するのが最も早い解決方法になる。それを上総さんもすでに知っている。
 こうして暢気に飯を食っている時点で、危険な何かが起こっているとは考えにくい。
 ならば思い付くのは志摩さんの彼氏である栄が彼女に対して何かしたのではないかという可能性だが。あれは志摩さんにとても遠慮がちで、それはもうお姫様の側近のような心構えで接しているようだが。粗相でもあったのか。
 今すぐにでも立ち上がって栄に確認を取りたい気持ちでいっぱいだった。
 あらゆる可能性を探る俺を見て、上総さんは箸を止めた。
「一泊してくるだけじゃが、何ぞ俺に用事でもおありじゃったか?」
 硬直している俺を見て、上総さんは怪訝そうにそう尋ねてくる。俺は一泊という言葉にはっと我に返った。
「一泊だけ、ですよね?」
「ああ。三連休はなかなか取れん。それにそこまで休む必要もないことじゃからな」
 実家に帰るというのは二日だけのことであるらしい。二度とこの家に戻ってこない、なんて意図は一切無いようで胸を撫で下ろした。
 俺の早とちりだったようだが、実家に帰るという表現はどうにも勘違いをしやすい表現だと思う。
 青ざめた自分が少し恥ずかしいが、上総さんを見習って平素を取り繕った。何のショックも受けていませんと言うように改めて白い飯を口に運ぶ。ただの白米だが妙に美味く感じられた。
「そろそろ寒くなってきたじゃろう。俺は年末が忙しい故、大掃除はこれくらいの時期に毎年しておるんじゃ。汚れはある程度温度があった方が落ちやすいしな」
 年末の大掃除と言われて、さすがに気が早いなと思う。しかし掃除をする際、気温が高い方が汚れが落ちやすいというのならば、年末よりもこの時期の方がまだ向いているだろう。
 夏場は暑くて掃除など出来そうもないが、冬も近くなった秋の終わりなら身体を動かしてもそう苦ではない気温だ。
 まして上総さんは年末は繁忙期で、今から気が遠くなると愚痴っていた。そんな時期に汚れが落ちにくい掃除をするより、まだ時間に余裕がある内に容易に片付けたいらしい。
「実家におる母がやれば良いような話じゃが。もういい年をしておる。大物を掃除するのは骨が折れると思ってな」
(なるほど。母子家庭で上総さんしか男手がなかった環境だ。大掃除も力仕事を率先して行っていたんだろう)
 大掃除ともなると力仕事が必要にもなってくる。女性より男性の方が大きな家具の移動、高いところの掃除などは適しているりは明白だ。
 もしかすると上総さんの母親が、掃除をしに来てくれと連絡を入れたのかも知れない。
「一泊して、あらかた片付けくる。この家の掃除もしようかと思ったが、お手伝いさんがこまめに掃除をして下さる上に、そもそも汚れることがないようじゃから、出番がない」
 上総さんは周囲を見渡しては苦笑を浮かべた。お手伝いさんが家を整えてくれることが当たり前である俺にとって、大掃除の計画を自分で立てるという行為自体頭になかった。
 生まれ育った環境の違いを、こういう時に感じる。
「たまのご実家、ゆっくりして来て下さいとは、いかないみたいですね」
「むしろ大仕事じゃ」
 溜息をつく上総さんに、俺は小さな隔たりを感じていた。
(上総さんはお母様にも、志摩さんにも頼りにされている)
 蔭杜に嫁に来たとは言っても、籍も入っていない男同士。
 俺が男を嫁にしなけばいけない立場だから、適当な人を掴んで隣に置いている。そんな目で周囲は上総さんを見ているようだが、彼の家族も似たような思いなのかも知れない。
 上総さんは単純に実家を出て引っ越しただけ。だから何かあればすぐに上総さんを呼んで、あれこれ用事もお願いする。志摩さんなど頻繁に上総さんに頼み事をしては、よく二人で出掛けているようだった。
 仲の良い兄妹ならばそんなものかも知れないが。まるで俺と暮らしているこの家がただの仮住まいであるかのような気持ちになってくる。
(でも、お母様は上総さんが蔭杜本家と繋がりが出来ることを喜んでいたな)
 上総さんを嫁にとお願いした時、上総さんは唖然としていた。母親もやはり驚愕したのだが、事情を説明したところ大喜びしたのだ。自分の息子がたかが二十歳の男の嫁になるという事態を、一度も拒絶せずに受け入れるということが俺には腑に落ちなかった。
 蔭杜本家の嫁なら、と繰り返す母親に嫌な予感すら抱いた。
 本家の資産と人脈、名前に目が眩んでいるのだ。息子が俺の嫁になった途端、おそらく擦り寄ってきては何かと要求をしてくるだろう。
 最初は金か、それとも土地か、どこぞの会社役員の地位や名前も欲しがるかも知れないと警戒していた。それは当主である姉にも進言しては、どう回避するかすでに対策も練られている。
 しかし意外なことにまだ母親からは何の要求も来ない。
 非常に黙って大人しくしているので拍子抜けてしているのが本音だった。
 上総さんの母親の外見は華やかで、人目を引く容貌だ。まだ若々しく、仕事もしており仲の良い友人たちと休みになると旅行に出掛けたり、忙しく過ごしているようだった。
 男性とのお付き合いもそれなりにあるらしいが、再婚の噂はない。また付き合うと言っても恋人関係になるほど深く関わることは避けているようだった。男友達の領域を逸脱しないように気を付けていることが察せられる態度だと聞いている。
 あしらい方が上手いようで、若い頃から男に苦労をしたことがない様子が窺えるらしい。
 蔭杜の遠縁である上総さんの父親に惚れ込まれ、何度も懇願されて結婚したという話も聞いている。自分の外見には相当の自信があるだろう。そしてそれは自惚れではなく、客観的な事実にも基づいている。
 そもそも蔭杜の名前が気に入って、上総さんの父親と結婚されたというのだから。俺が母親の動向を探ってしまうのも仕方がない。
「お母様はお元気ですか?」
「様は止めてくれ。そんな大層なものじゃない」
 俺にとってみれば上総さんの母親なのだから、お母様か、もしくは母上と呼ぶべきかと思った。しかし上総さんは露骨に顔を顰めた。
「母はそれなりに過ごしておるよ」
 上総さんは素っ気なくそう答えてはチキン南蛮を摘んでいる。志摩さんの話は話題に出すとあれこ話してくれる。この前そんなことを言っていた。あんなことをしていた。そんな微笑ましい日常の一コマを教えてくれるのに、母親のことに関してはあまり口にしない。
 喋ったとしても「あの人は自由じゃから」と溜息と共に言うくらいだ。
(折り合いが悪いってわけじゃないとは思うが)
 母親に呼ばれれば軽く腰を上げる。そこには不快感も億劫そうな表情もない。志摩さんに呼ばれている時と変わりない様子だ。なので仲が悪いということはないと思われるのだが。
(性格が合わないのかも知れないな)
 母親は誰かと賑やかに過ごすのを好んでいるように見受けられるが。上総さんは一人で静かに本を読んでいるのを性に合っていると言っていた。親子だからといって性格や相性がぴったり合うわけではない。
 つかず離れず、双方にとって心地良い距離を保っているのが良い。そんな風に感じている親子なのかも知れない。
「お母様に宜しくお伝え下さい」
 そう何気なく上総さんに告げると上総さんは曖昧に微笑んだ。




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