美丈夫の嫁6 3





 いつ自慰をしているのか。
 そんな非常にプライベートな質問に、俺は気が向いた時と答えた。それは確かに正しいのだ。日数などに関しては一切規則性などはない。
 ただ一つ、俺の中で決めていることがある。
 それは美丈夫が家にいない時に行うということだ。
 家に自分しかいない時に性欲を抜くのが、もっとも人の目に触れる確率が少なく安心出来る状況だろう。これは実家暮らしの時からずっと習慣が付いている。
 今は仕事がシフト休みで良かったと心底思う。
 美丈夫は平日は大学に通っている。長期の休みでもバイトに行っている場合が圧倒的に多かった。なので平日の休みは俺にとっては実にゆったりと落ち着ける時間だ。
「ん……っ」
 自室のソファに座ったまま、掌に精を吐き出した。傍らに置いてあったティッシュですぐさま汚れを拭いながら、荒い呼吸を整える。
 身体の芯が熱を冷まして頭の中がすっきりしていくのを感じながら、少しばかり複雑なものがこみ上げてくる。
(……美丈夫が俺で抜いておるというのは、本当じゃろうか)
 女体でもポルノ動画でもエロ本でもなく、自分なのか。こんな平凡な容姿と美丈夫から逃げ惑っていたろくでもない男で、あの人は欲情するのか。
「うぅん………」
 自分が自慰をした後であるかせいか、先ほどの興奮を自分に対して覚えるというのが何とも信じがたい。
(しかもほぼ毎晩じゃろう?本当に元気じゃな)
 あの年頃ならば性欲も溢れているものだろうか。自分を思い出してみてもあまり共感は出来ない。
 絶頂の後の気怠さに任せてだらだらと思考を回していると、ガチャと玄関が開けられた音がした。
「えっ」
 誰か来た。
 お手伝いさんならば今日は来ないはずだ。まさか美丈夫だろうか。
 慌ててティッシュをゴミ箱に捨てては乱れていた衣類を整える。まさかここにいきなりやって来ることはないだろう。美丈夫だとしても、まずは自室に行くだろうし、何より用事がなければお互いの部屋を訪れることはあまりない。
(大丈夫、じゃろう)
 美丈夫が廊下を歩く足音に耳を澄ませながら呼吸を整える。そのまま自分の部屋に帰るだろうと願う俺の祈りを裏切り、何故か美丈夫は俺の部屋の前で立ち止まった。
(ええぇ……!)
「上総さん、よろしいですか?」
 コンコンと控えめなノックに俺は自分の格好を見下ろした。乱れもなく黙っていれば何があったなんか分かるわけもない姿であるはずだ。動揺さえしなければ、何も悟られまい。
「はい」
 冷静な声が出せたと思う。
 ドアを開けた美丈夫の手には俺が環さんに貸していた本があった。
「すみません、姉がこの本をお借りしていたそうで。代わりにお返しに来ました」
「わざわざありがとう。今日大学は?」
「午後から全て休講です。三つも空くとは思いませんでした」
 苦笑する美丈夫に、俺だってそんなこと思わなかったわい!と言いたくなる。
 内心顔も名前も知らない教授たちを恨みながら部屋に入ってきた美丈夫の手から本を返して貰う。美丈夫は俺に本を渡すと、何故か立ち止まってはこちらを凝視してきた。
 何かを探っているような眼差しにあえて気が付かない振りをして、本を棚に戻す。一冊分空いていた空間がぴったり埋まっても、美丈夫はその場から動かなかった。
「何か?」
 黙って突っ立っている人に、内心怯えながら問いかけると美丈夫の目つきが更に鋭くなる。
「何をされてました?」
「特に何も」
「自慰をされていたのでは?」
「は!?おまえさん、人の部屋に入ってきて、急に何を言う」
 どうしてバレた。
 内心冷や汗を掻きながらも、馬鹿馬鹿しいことをいきなり言うなとばかりに少しむっとした顔を作る。しかし美丈夫は俺の反応を見て笑みを作り出した。
 意地の悪そうな、嗜虐的なものが滲むそれは俺がしらばくれようとしているのが愉快だと言っているように見える。
 確信しているのだ、俺が自慰をしたと。
「すごい顔をされている」
「顔!?どんな顔じゃ!」
 なんだすごい顔って、意味が分からない。俺の顔がどうした。
 そう混乱していると美丈夫は鞄を投げるようにその場に置き、素早く動いては俺の右手を取った。一応拭ったとはいえ自分の精が付いていたそれを取られたことに、危険だとは思ったのだ。
 けれどまさか、美丈夫が右手の中指を躊躇いもなく口に入れるとは思わなかった。
「えぇ!?おまえさん、何しておるんじゃ!!」
 突然人の指を舐めるなぞどうかしている。しかし美丈夫は中指に舌を絡めた後に口角を上げた。その上で俺を見て来る。
「おまえさん……」
 この人は、そこに精の味があるかどうかを確認したのだ。そしてきっとそれはあったのだろう。
(なんという……!)
 他人の指を口に入れるだけでも不衛生で、あまりまともとは思えないような行為なのに。精液で汚れたかも知れないものを舐めたのか。
 むしろ汚れていることを望んでいたかも知れない。
 美丈夫の言動に眩暈を覚えてはその場に崩れ落ちた。俺の許容を遙かに超えてくる人だ。
「信じられん……」
「正解ですね」
「だから、だからなんだと言うのか!」
 美丈夫の手を払いのけて睨み付けると、美丈夫は眉尻を下げた。
「もう少し早く帰ってきて乱入すれば良かった」
「冗談じゃない!!」
「もう収まりましたか?」
 美丈夫はしゃがみ込んだ俺と目線を合わせて尋ねてくる。双眸はみるみるうちに熱を帯びていくのが分かった。
 欲情しているのだ。
 俺が先ほどまで自慰をしていたという、その事実だけでこの人は完全に盛ってしまっている。
「収まった!」
「一回抜いただけで大丈夫ですか?もう一回くらい、しませんか?」
「のしかかってくるな!」
 美丈夫が身を寄せてきたのに押され、俺はその場で尻餅をついてしまった。すると美丈夫が俺の膝に手を置いては更に距離を詰めてくる。
「手伝いますよ?」
「いらぬ!続けて二回なんて出ない!」
「本当に?」
「嘘偽りなく本当に!」
 そもそも一回抜いた後すぐに二回目に挑戦したことがない。出してしまえばすぐに冷静になっては性欲が冷めていくのだ。
 連続してやる意味がない。
「では俺に少し付き合ってくれませんか?貴方の顔を見たら勃ってしまいました」
 勃った、という表現が一瞬理解出来ずにぽかんとしてしまった。それが俺によって引き起こされる現象だと、飲み込めなかったのだ。
 しかし自分の顔で欲情したのだと分かると、途端に目が合っていることすらも恥ずかしいような気がしてかっと頬が熱くなった。
「部屋から出て一人で処理してくれ!」
「少しだけお情けを下さい」
「なんじゃその言い方は!俺は大奥を抱えておる将軍か何かか!」
 性行為を「お情け」だなんて言うのは百年以上昔の身分の高い人たちくらいだろう。現代社会にはそぐわない言い方に反発すると、美丈夫が笑った。
「正室も側室も俺一人で我慢して下さいね」
「立場が逆じゃ!」
「キスしていいですか?」
「……う」
 この状況でキスはまずいのではないか。完全に発情している人相手のキスは、このまま押し倒されてまさぐられる可能性がある。告白をした時にソファで無茶なキスをされたことを思えば、素直に頷けない。
 しかし「お願いします」と切に願う人を拒絶するのも憐れみがある。あと、あまり我慢をさせると後が怖そうという意味もあった。
(この人、あんまり我慢させると爆発するタイプみたいじゃからな)
「……舌を入れて来ないなら」
「………分かりました」
 触れるだけのものならば良いと許可を出すと明らかに美丈夫のテンションが落ちた。そのまま発情も抑えてくれることを祈りつつ、美丈夫が顔を寄せてくるのを受け入れた。
「ん」
 どちらからともなく声が零れた。
 触れるだけの口付けは何度も接触が重ねられる。だがちゃんと約束したように口内に舌を入れてくるようなことはない。美丈夫の熱が唇にそっと灯されるような、優しくも官能的なものだった。
 美丈夫はキスをしながらも、手を動かしては何か作業をしていると感じた。俺に触れてくる動きではないので止めはしないが、少しばかり唇をずらしてキスを休んで見ると美丈夫はズボンのフロントをくつろげていた。
「おまえさん、ここで処理をするつもりか」
「お許し下さい」
 そう口にした人の声は甘やかに溶けていた。欲情を露わにするその声音は聞いているだけでどこか落ち着かない気持ちにさせられる。
(顔面だけでなく、声まで良いお人じゃな)
 特に発情すると男前度がぐんっと高くなるようだった。色気が増して美丈夫のフェロモンみたいなものが漏れ出すのかも知れない。
 溜息をつくと美丈夫は俺の肩に顔を埋めてきた。荒くなる呼吸に抵抗はしなかった。俺に何かをしてくるならばともかく、そうでなければもはや好きにしろと思っていた。
 美丈夫の手が明らかに自慰を始めるのが感じられ、視界の端に映るそれをちらりと見てしまう。自分にも付いているものを握り、上下に愛撫している光景は馴染みがある分大変気まずい。
(人の自慰を見て興奮する趣味はないつもりなんじゃが)
 気持ち悦そうな声や姿を見ると、やはり釣られてしまうものなのだろう。体温が上がっていくのを体感しては目を逸らす。そもそも人の性器をまじまじと見詰めるのも失礼なものだろう。
「うわ、止めよ」
 美丈夫が不意に俺の耳に噛み付いてきた。軽く歯を立てられて背中にざわりとした妖しい感覚が走る。思わず手で押さえると美丈夫が小さく喉を鳴らした。
 ライオンが獲物を前にじゃれついたかのような仕草に、俺は思わず身を固くしてしまう。
「上総さん……」
「手伝えと?」
 このタイミングで名を呼ばれたことに、そう警戒してしまう。ただ座って固まっているだけというのは美丈夫にとってはもどかしいものだろう。
「いえ、そんな大それたことは願いません」
 否定されたことにほっとしていると、美丈夫はとんでもないことを言い出した。
「貴方のを口に入れたい。咥えたいのですが」
「お断りじゃ!冗談でもないわ!!」
「駄目ですか」
「引き剥がすぞ!!」
 もうしない。二回も抜かないと言ったばかりだというのに、どうして俺の性器を口に入れたいと言い出すのか。この男は賢いのに大馬鹿だと呆れていると、美丈夫の呼吸が速くなってきた。のしかかってくる身体が熱くて、俺までうっすらと汗を掻いてしまう。
「上総さん……」
「そんな情けはかけぬ」
 そう突き放しながらも、拒絶するだけでは可哀相かと思い美丈夫の肩をそっと撫でると美丈夫が顔を上げる。普段は怜悧で自制心の強さを滲ませている人が、欲情に囚われて知性的な有様を完全に崩してしまっている。
 浅ましいとすら言えるかも知れないその表情が、俺にとっては腰骨に突き刺さるくらいに扇情的だった。
(エロい)
 とろんとした瞳が俺の腹部の奥にじわりと欲情を宿していく。
 本当ならばエロいと思わなければいけないだろうゲイポルノを見ても、俺はぴくりとも性欲を乱されなかった。男が発情している光景を見てもきっと興奮などしないのだろうと、自分に男色の気配がないことを実感していたのに。美丈夫が感じている表情を間近で見せられると、どんどん肌がざわついてくる。
 抜いたばかりの身体が、欲情を取り戻していくようだった。
「っん……」
 美丈夫が息を詰めて身体をぶるりと震わせた。ああ、イくのだなと思った時、美丈夫は俺の唇を塞いできた。
 その唇の隙間から聞こえて来た、微かな声に指先まで一気に電気のようなものが走る。
(まずい)
 完全に煽られている自分がいた。
 くちゅくちゅという卑猥な水音が耳に入ってくる。吐精したのだなと分かるそれに、俺は自分の心臓の音を聞いていた。どくどくと早鐘を打つ音に、ひたすら鎮まってくれと念じていた。
「っ……はぁ……」
 美丈夫は精を出し尽くしたのだろう。キスを止めると大きく息を吐き出した。上気している頬を見ていると俺までそわそわしてしまいそうで、身体をずらしてはティッシュの箱を引き寄せる。
 美丈夫の傍らに箱を置くと、美丈夫が「ありがとうございます」と告げてから数枚引き抜く。十数分前に俺がしたことに酷似した行為だ。
(これは、俺で抜いたということになるんじゃろうか……)
 俺が直前に自慰をしたことを想像し、俺に口付けながら抜いたのだから。オカズは俺ということになるのだろう。
 信じられないと思っていたことを、体験させて貰ったわけだ。
 しかも体験しただけでなく、自分もまた美丈夫の自慰に煽られてしまうということまで判明してしまった。




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