美丈夫の嫁6 4





 ティッシュを渡しては事後処理をしている美丈夫から目を逸らして溜息をついた。
 穏やかな昼下がりに俺たちは何をしているのだろう。
「ありがとうございます」
 衣類の乱れも整え、ティッシュの箱も元通りの位置に戻してから、美丈夫はいつも通りの落ち着いた態度でそう言った。
 欲情でとろけた瞳も熱を収めては冷静さを取り戻したようだった。自慰をしながら俺にのしかかっていた、あの凝縮された質量の重い情欲はすでに感じられない。
「すっきりなさったか?」
「はい。おかげさまで、これからしばらくは困らないと思います」
 何が?とは訊かなかった。美丈夫の中で自分がどんなことになっていようとも、気にしなければ実在している俺には何の影響もない。
「上総さんは、平気なんですか?」
「平気ではない。面食らったわい。だから止めよと言ったじゃろうが」
 俺はかなり当惑していたはずだが、美丈夫の目には映らなかったとでも言うのか。少し恨めしい気持ちでじっとりと睨み付けると、美丈夫は苦笑した。
「それは分かっているのですが。あの、興奮したりはなさらなかったのかと思って。俺が身体をすり寄せている時に少し、反応なさっていたと思うんですが」
 バレていたらしい。
(そりゃあ、あれだけ密着されていたら俺がちょっと勃ったことくらい、感じられるか)
 しかし自慰に夢中になっていたと思ったのに、俺の反応まで察知していたというのは。この男侮れない。
「放置してくれ」
 同性の自慰に興奮する性質がある、ということを見抜かれただけでも恥ずかしいのだが。自分を対象として性欲を抜いた相手に誤魔化す必要もないだろう。
 軽く手を振ってこの話題を切ろうとした。だが美丈夫はぐいっと距離を詰めてくる。
 立ち上がる気合いがまだ無く、絨毯の上に腰を下ろしたままの俺は逃げる隙がなかった。美丈夫は四つん這いで俺の太股の上に手を置いてくる。
 そのあたたかさが伝わって来ては、無視しようと決めた高揚が蘇ってくるようだった。
「いえ、せっかくなので俺がお世話をしたいのですが」
「遠慮すると言うておるじゃろうが」
「少しずつならしていきますから」
 そう言った人が太股から後ろへと手を回しては俺の尻を触った。
 男にむにっと尻を掴まれる違和感に、さすがの俺も反射的に苛立ちを覚える。
「本気で怒るぞ」
 戯れが過ぎると、声を低くして睥睨すると美丈夫もこれ以上は危険だと勘付いたらしい。素直に手を離してはしゅんと肩を落とすのだが、大袈裟なくらいに残念そうな顔をするのが複雑だ。
 調子に乗るなと叱っても良いところだろうに、悄げている態度は先ほどまでの大胆さを忘れさせるほどにもの悲しげなのだ。
(卑怯じゃ……)
 尻を掴まれて怒るのは当然の権利であるはずなのに、俺がいじめたみたいな反応をするのは止めて欲しい。
 凛々しい顔立ちが憐憫を誘う様は苦しいほどの罪悪感を掻き立てるのだ。本当にこの人の顔は反則だろう。
「そもそも、俺が入れられる側か」
 同性である以上、挿入する、される、という可能性は双方に平等にあるのではないのか。
 美丈夫は完全に俺に挿入するつもりであるらしいが、俺も一応男としてその確認はしておきたかった。
 むしろ一方的にその役割を決め付けられるのは、やはりプライドに障る。
「上総さんは俺を抱きたいですか?俺に入れられますか?」
「……おまえさんにか」
 出来るだろうか。
 とても整った、男であるのに綺麗とすら言える顔立ちの人を改めて見る。自慰をしているところに多少興奮はするので、たぶん性行為は出来るのだろう。しかし尻に入れることが出来るかどうかは、もう一段階ハードルがある。
「即答出来ない時点で、少し難があるでしょう。その気がない人が挿入する側になるのは無理があると思います。俺は、申し訳ありませんが最初から貴方を抱くことしか頭にありませんでした」
「嫁だからか」
「貴方を嫁にしたことで、セックスの役割まで押し付けるつもりはありませんでした。ですが、俺が貴方を抱くことしか考えなかった以上、そう思い込んでいたのかも知れません」
 美丈夫は姿勢を正して、背筋を伸ばしてはそう俺に告げる。
「もし抱く側なら受け入れると仰るなら、今から努力します」
「納得されるのか」
「はい」
 これほど俺を抱きたいと、全身で訴えてきた人が。俺が逆を望むならばそれを叶えるというのか。
(そんなに、ヤりたいもんじゃろうか)
 セックスというのはそこまで重要なものなのだろうか。
 童貞ではないがそこまでセックスに重大さを感じたことがない。美丈夫が知っているセックスと、俺が知っているものは、もしかすると大きく異なるものであるのだろうか。
 それこそ抱く側から抱かれる側を選択しても構わないと思うほど、それは特別な意味を持つのか。
「ただ俺が貴方に抱かれた時には、必ず貴方を抱かせてくれると約束して下さい」
「……絶対に俺を抱くという気持ちに変わりはないのか」
「ありません」
 我が身を捧げてまでも俺を抱きたいのか。そこまで頑なに俺を抱きたいのか。
 この人の中で俺はどんな存在になっているのか、ちょっと思考回路をばらばらにして仕組みを解明したかった。



 仕事から帰ると玄関に知らない靴が置かれていた。
 女性の物ならばお手伝いさんかと思うのだが、男性の物は珍しい。ましてスニーカーだ。
(國朋さんなら革靴じゃろう)
 環さんの旦那さんである國朋さんが美丈夫に会いに来たというならたまにあることだが、あの人は革靴であることが多い。それか庭などを散策する際に履いているらしいサンダルのようなラフなものだ。
 スニーカーというのは意外だ。
(美丈夫の友達か?)
 これまで美丈夫が友人などをこの家に連れて来たことはない。まして誰か来るのならば俺にも一言伝えそうなものだが。
 怪訝に思いながらも、ワイシャツの下からチェーンを引っ張り出しては首から提げていた指輪を左手の薬指にはめる。帰宅してまずこの作業をしなければ美丈夫の厳しいチェックが飛んでくる。
 指にはめたのを待っていたかのように、ドアが開かれる音がしては中から話し声が聞こえてくる。
「栄さん」
「お邪魔してます」
 玄関にやってきたのは俺も知っている相手、美丈夫の従兄弟だ。志摩の彼氏でもある人は俺に深々と頭を下げてくる。
 思わず俺も腰を折って挨拶をしたのだが、そこまでかしこまられることだろうか。以前はもっと気楽な感じだったような気がする。
「それじゃ」
「ああ」
「もうお帰りですか?」
 俺が廊下に上がるのとは反対に、栄さんは玄関で靴を履こうと腰をかがめる。
「はい。お邪魔しました」
 いつからいたのかは分からないが、どことなく落ち着かないような栄さんの様子が気になる。ドアから出て来たタイミングも俺が帰ってきてすぐだった。
 もしかして俺に気を遣って帰ろうとしているのだろうか。
「晩飯はお済みですか?よろしければ召し上がって下さい」
 試しているわけではなかったが、気になって少し引き留める。晩飯はお手伝いさんが作っているはずだ。いつも二人分しか用意されていないが、俺の分を栄さんに出すなり、一品俺が増やして三人分に調整することなどは出来る。
 しかし栄さんは俺の誘いにまた頭を下げた。
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
 靴を履いてはそそくさと帰っていく栄さんを見送り、俺は思わず首を傾げてしまった。
(何を慌てているのか)
 俺が何かしたわけではないだろう。栄さんとはここのところ全く接触していない。あるとすれば栄さんの彼女である妹絡みだが、志摩から何か相談されているわけでもない。
「気まずいんですよ」
 腑に落ちない俺に、美丈夫が笑いながらそう教えてくれる。
「何故?」
「昨日、栄は志摩さんとやっとキスが出来たそうで」
「へえ」
 付き合って一ヶ月以上経っているはずだが、まだしていなかったのか。
 奥手だとは聞いているが、本当に手がなかなか出せないタイプであるらしい。最近の若者にしてはびっくりするほど進展が遅い。
「ついそれを思い出してしまって上総さんと顔が合わせづらいんでしょう」
「……俺と志摩はあまり似ておらんが、気にされたんじゃろうか」
 志摩を思い出して照れてしまうから、逃げ帰ったのかと思った。
 しかし俺は父親似、志摩は母親似で、兄妹といえどもあまり顔立ちは似ていない。俺と志摩を重ねることなんてあるのだろうか。
「単純にお兄さんである上総さんに顔を合わせるのが恥ずかしいんだと思いますよ」
「そういうもんじゃろうか。別にキスごときで俺は何も言わんが」
 そもそも口を突っ込むところではない。当人同士で平和に過ごしてくれればそれで十分だ。
「シスコンじゃと思われておるのかな」
「…………それは、まあ」
 言葉を濁している美丈夫を見ると物言いたげな目をしていた。言いたいことがあるならば言えば良いと思う。
「しかし栄が本命にはここまで弱いのだと、俺も初めて知りました。これまでは大抵流されっぱなしでずるずるやってきて、付き合っても別れてもあまり深くこだわらなかったのに。キスだけでこうなるとは」
 栄さんの奥手っぷりが面白いらしい。美丈夫は愉快そうに語っては微笑ましそうに双眸を細めている。
「幸せそうで何よりだなと思います」
「そうか。志摩も楽しそうにしておる」
 好きになったと言った時には随分悩んだようだったが、いざ付き合ってみれば蔭杜だの何だのということは二人の間には関係がなかったらしい。
 好きだという気持ちだけで引き合って、繋がっていく。それは当然のことのようで、俺の目から見ると実に幸運な出来事に思える。
「上総さんは少し寂しいのではありませんか?」
「いや。志摩に振り回されるのもうんざりしておったところじゃ」
 飯を食わせろだのあそこに連れて行って欲しいだの、何だかんだと連れ出されていた。俺は基本的に休みは家でゆっくりしたい人間なので、放置されていることに安堵はするけれど、寂しいとは思わない。
「しかし栄さんのゆっくりとした交際の仕方。誰かさんに見習って欲しいわい」
 憎からず思っていると、口にした途端にぐいぐい肉体関係を求めてくる人にそう嫌味を言うと、美丈夫は笑顔の見本と言いたくなるほど綺麗な笑みを浮かべた。
「誰かは知りませんが、俺じゃないことだけは確かです」
「ほう」
「貴方と出逢ってから最近まで、俺は黙ってじっと我慢したんです。同じベッドで寝ていながら何もせず、何も言わずに過ごした時間がどれほどのものか。ご存じでしょう」
「その時間はカウントされるのか」
「します。俺は出逢った時から貴方の全てが欲しかった。嫁になって頂いた以上、手を出すことは許される環境だと思いながらも耐え続けたんです」
 俺の気持ちを思ってずっと、美丈夫は大人しくしていた。自分の気持ちを伝えた後も、俺が心を固めるまでは性欲を押し殺したのだろう。
 俺は暢気に、美丈夫は俺に性欲までは抱かないだろう。あったとしても自制心でいくらでも容易に抑え付けられるものなのだと思っていた。
 数日前にはそれが予想外に激しいものだと見せ付けられて、唖然としたものだ。
「俺は栄から鋼鉄の精神だと言われました」
「その鋼鉄が最近融解しているように思えるんじゃが……」
「待てば待つほど、熱は高くなっていきます。鋼鉄も溶かすほどの温度になったということでしょう」
 暗におまえが悪いと言われているようなものだった。
 焦らしてしまった。そして今も焦らしているということは分かっているのだが。男が男とセックスするということは、やはり抵抗感が強いもので。その一線は男女のものより遙かに壁が高い。
(抱くことばかり頭にあるお人にはあまりぴんと来んかも知れんがな!)
 危険な流れになってきたなと思い、俺はスーツを脱ぐために自室に逃げようと思った。だがその後ろを何故か美丈夫が付いてくる。
「温度が上がりすぎてマグマになる前に、上総さんに襲いかかりたいのですが」
「お断りします!」






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