美丈夫の嫁5 5





 美丈夫はその後深夜まで家に帰って来なかった。玄関の開閉が聞こえた時にはすでに俺はベッドの中におり、自室に戻るべきだろうかと一瞬悩んだ。
 同居を始めてからずっと、美丈夫とは同じベッドで寝ている。なので今日も習慣で共用のベッドに入ってうとうとしていたのだが、ここは美丈夫の家であり美丈夫の寝室だ。喧嘩にすらなっていない衝突をして気まずい中、俺は配慮して自室ソファで寝るべきだったんじゃないか。
(じゃが、美丈夫は同じベッドで寝ることにこだわっておったからな……)
 美丈夫は仮と言っても夫婦であるならば一つのベッドで寝るべきだと主張していた。頑なだったその態度から察するに、自室で寝たほうが角が立つかも知れない。
(しかしなぁ……)
 息が詰まるのではないだろうか。顔も見たくない心境だったら精神を逆撫ですることにもなる。
 そう迷っている間に風呂に入ってきた美丈夫が寝室のドアを開けた。俺は息を殺して美丈夫の様子を窺う。電気を落として薄暗い部屋で寝たふりをして耳を澄ましていると美丈夫は躊躇うことなくベッドに入ってきた。
 定位置である窓際のスペースに横になっては、深く息を吐く。溜息だったのだろうかと思うが、声をかけられずにいるとすぐに寝息が聞こえてきた。
(相変わらず寝付きが抜群に良いな……)
 同居を始めた時から、美丈夫の寝付きの良さには救われてきた。他人と同じベッドで寝るという奇異な状況に緊張していても、相手が寝てしまえば何かをされる心配はひとまずない。
 だが今日ばかりは、その寝付きの良さに罪悪感もあった。
(逃げた)
 俺はまた美丈夫に言い訳も釈明も、それこそ自分の気持ち一つも告げずにやり過ごしたのだ。一言も伝えることなく寝たふりをして美丈夫から目を逸らした。
(残酷か……)
 美丈夫とは反対に俺はなかなか寝付けなかった。翌朝どんな顔をして美丈夫に接すれば良いのか分からないからだ。自分が悪いことをしたならば謝罪すれば良いだろうが、謝罪したところで美丈夫に対しての態度を変えない、気持ちと正面から向き合えないのならば無意味だろう。
 だが俺は美丈夫の気持ちに応えたいのか、拒絶したいのか、どうすれば良いのかもまだ分かっていないのだ。考えても考えても、彼が俺を好きだということがどうしても釈然としない。
 何故?という疑問ばかり浮かんでくる。
 だが美丈夫はもう十分過ぎるくらいに俺に対して気持ちを訴えているだろう。好きだと言ってくれている。
(では俺は何に納得出来ないんじゃろう)
 美丈夫のことも分からないが、自分のことも次第に分からなくなってくる。どん詰まりに辿り着いて苦悩している間に、頭は睡魔に逃げ込んでいた。
 そうはいっても十分ではない時間しか眠れず、睡眠不足のまま目覚めて朝ご飯を作る。やっていることは昨日までと同じことだが、果たして美丈夫は俺をどんな目で見てくるだろう。俺はどうすればいいのか。
 味噌汁を掻き混ぜながら密かな緊張感を抱いていたのだが、美丈夫は何事も無かったかのようにけろりとした顔でキッチンに来た。
「おはようございます」
「おはよう」
 昨夜のことなど忘れてしまった。そんな様子で朝ご飯の支度を軽く手伝ってくれる。ご飯をよそって差し出すと「ありがとうございます」という言葉だって毎日のものだ。
(昨夜、家から出て行った間に冷静になったのか、一晩寝て正気になったのか)
 落ち着いたらしい美丈夫にほっとする。
 これならば昨日までと変わらない日常が送れることだろう。一つ屋根の下でギクシャクした状態を続けるのは気が重いと思っていたが、杞憂に終わりそうだ。
 朝ご飯を食べ終わる頃には胸を撫で下ろしていた。薄まる緊張感にそのまま朝ご飯の洗い物を軽く終わらせて出勤の準備をした。
 今日は二人ともが同じ時間に家を出ると、朝ご飯を食べている最中に話していた。一日の流れは朝の食卓で報告し合って、出来るだけ互いが把握するようにしている。なので玄関に二人並ぶのも自然であり、特に珍しいことでもなかった。
 ただ俺が左手から指輪を外してシューズクローゼットの上にあったチェーンに通している時、美丈夫は「上総さん」と名を呼んできた。
 固い響きに、俺は思わず手を止める。
「俺は昨日のことを有耶無耶にするつもりはありませんので」
 それは警告だった。
 いつも通りの朝を迎えたことに、安心すると同時にまたなんとなく気持ちを濁してしまった俺を美丈夫は見透かしていたのだ。
 息を止めた俺を見て、きっと美丈夫は自分が言ったことが俺にとっての図星だったのだと気が付いたことだろう。少しばかり眉を寄せた。
 苛立ちがそこに滲んでいるのは、きっと俺の見間違いではない。
 七つも年下の子の、そんな表情に頭の芯が冷えていく。
「……先に出ますね」
「………いってらっしゃい」
 美丈夫は俺を振り返らず、先に玄関から出て行ってしまう。呆れられたのかも知れない。
(有耶無耶にしようとしたわけではない……とは言えんな)
 無意識にそうしようとしていた。目を逸らしたのはきっと事実なのだから。
 指輪を通したチェーンを首に下げて、ワイシャツの下に隠す。きっとこのことだって美丈夫は不満に違いないのだ。
 俺はきっと彼の期待を幾つも潰しているのだろう。



 あれから一日、二日と淡々と日々が経過していった。一見以前と何ら変わりがないような時間だが、実のところずっと美丈夫から何か言いたげな視線を感じていた。しかし何も言っては来ない。
 俺を気遣っているからというよりも。いつでも仕掛けることが出来る、食い付くことが出来るけれど、あえてまだ黙っている。時間の余裕を俺に与えてやっている。
 きっとそんなところだ。
 無体はしないという約束があるのでそうしているのだろうが。俺にしてみれば常にどこか緊張感のある空間になっていた。
 このままにしておいてやるものか、そんな意気込みを感じる美丈夫に身構えてしまうのだ。
 正直に言おう。追い詰められていた。
(俺が悪いんじゃから)
 早く動かなければいけないのに、じっとしているからだ。まだ決断出来ていないことを口で責められないだけましなのだ。
 しかし一日ごとに増していく重圧に、自分の中から何かを差し出さなければいけないと焦っていた三日目。休日にぽっかりと予定が空いた。
 志摩と会う予定があったのだが、急にキャンセルになったので自室に籠もって本を開いていた。きっと志摩はデートの約束でも入ったのだろう。電話で謝っていた声はどこか浮かれていた。楽しい時間を過ごしているはずだ。
 あまり羽目を外さずに付き合ってくれると良いのだが、二人とも成人しているのだから口出しは出来ない。何よりこれまで付き合ってきた彼氏に対しても何の反応もしなかったのだから、栄さんになったからといって特別に注意しなければいけないわけでもないだろう。
 本を一冊読み終わって手持ちぶさたになり、美丈夫のことが頭を過ぎった。次第に気まずさのようなものが漂い始めた二人の間に、あの人はそろそろ爆発するかも知れない。
(何度も爆発していれば俺に三行半を突き付ける日が来るかも知れんな)
 愛想が尽きた。そう冷たく言い放ってくる美丈夫はあんまり上手く想像が出来ない。
 だがもしそうなったら、俺はここから速やかに出ていくことになるだろう。
(この部屋、居心地良いのにな……)
 美丈夫と暮らし始めて一番心惹かれ、良かったなぁと思ったのはこの壁際に配置された背の高い本棚と、ベッドにもなるソファの居心地の良さだった。自分の心理世界が形になったかのような空間に心躍ったものだが。
(おそらく美丈夫が望んでおるのは、そういうことではない)
 惜しんで欲しいのは自分に対しての感情であるはずだ。
(やっぱり俺は非道か)
 俺は美丈夫を振り回して冷たく距離を取るだけの人間でしかないのか。いっそ側にいない方が彼のためではないだろうか。
 そう思った時に見計らったかのようにドアが開いた。
 大学で講義を受けている時間なのに、休講にでもなって美丈夫が帰ってきたのかと思った。しかしキッチンに歩いて行く足音や、大袈裟なくらい聞こえてくるビニール袋が擦れる音、何より「重い!」とはっきり聞こえて来た声は女性のものだ。
「しまった……」
 俺が出勤の日はお手伝いさんが家事をしてくれる。しかし休みの日は俺がやるからと断っていたのだが、今日は昼から志摩と出掛けて晩飯も外に食べる予定だとお手伝いさんに喋っていたのだ。だから美丈夫の食事をお願いしますと頼んでいた。
 だが急遽予定が無くなったことを彼女たちに伝えるのをすっかり忘れていた。
 自室から出てキッチンに向かうと、冷蔵庫を開けて食材を詰め込んでいるお手伝いさんの背中があった。ここに来てくれるお手伝いさんは三人ほどいて、その内の一人シングルマザーとして蔭杜に住み込みで働いている立川さんが今日の当番であるらしい。
「すみません」
「うわっ!あ、上総さん!?」
 いきなり声をかけられて立川さんは身体をびくりと跳ねさせた。
 中腰の体勢がそれで崩れたようで、前につんのめりそうになっていた。慌てて立川さんの肩を掴んで支えたので、なんとか冷蔵庫のドアに頭を打たずに済んだようだった。
「驚かせてしまいましたね。申し訳ない」
「いえ、大丈夫です、ありがとうございます。今日はいらっしゃったんですね」
「出掛ける予定が無くなってしまって。ご連絡を入れるべきでした」
「いえいえ。ご飯、どうしましょう」
「あっと……お手間でなければお願いしてもいいですか?」
 せっかく材料を買ってきて、何を作るのかも頭の中にあるだろう彼女にこのまま帰れなんて到底言えない。それに俺が作るより美味しい料理が作れる彼女たちだ。美丈夫も本来ならお手伝いさんの料理の方が口に合うはずだ。
「勿論です」
 立川さんは笑顔で答えてくれる。持参してきたエプロンを着けている立川さんはしっかり者の家庭的な女性という印象がぴったりで、いつか志摩もこんな風になるのだろうかと思う。
「立川さんはすごくしっかりされてますよね。私は立川さんとそう年も変わらないのに毎日ふらふらして、情けないです」
 自分の気持ちも固められずに美丈夫に責められている有様だ。
 そこまで教えられないけれど、つい弱音を零すと立川さんはくすりと笑った。
「子どもを持つと女は変わります。強くならなきゃと思うんです。子どもを守れるのは私しかいませんから」
 たった一人で二人の子どもを育てるのはどれほど大変なことか。自分の母親を思い出しては何とも苦いものがこみ上げてくる。
 父親を早くに亡くして片親で育った俺にとっては、彼女よりも彼女の子どもの気持ちの方が近いのかも知れない。
「昔は一人じゃ何も出来なくて母に叱られていました。甘えていたんですね。だから馬鹿な男にも引っかかって、親を泣かせました」
「馬鹿な男、ですか」
 立川さんがどうしてシングルマザーなのか、俺は詳しいことを聞いたことがない。そういう込み入った事情にいちいち好奇心を抱いて問いかけるのは、どうも行儀の良いことだとは思わなかった。
 それに自身も片親で、嫌な質問をされることはまれにあったから尚更だ。どんな内容であれ、嫌な気分になる時はある。
 しかし立川さんの自嘲を見ると、どうやら相手の男と衝突して別離の道を選ばざるを得なかったのだと予想は出来た。
「浮気はするし、借金は作るし、次第に暴力まで振るい始めました。最低ですよ」
「それは、そうですね」
 三つの説明を聞いただけで、心の底から屑と言いたくなるような男だ。立川さんの表情も嫌悪が剥き出しになっている。よほど苦労を強いられたのだろう。
「でもそういう人間だって私は分からなかったんです。結婚してすぐに、あれ?この人おかしいよなって違和感があったのに、必死に目を逸らしてました。私はこの人が好きなんだって気持ちで目を塞いでたんです」
 一緒に暮らしていたら、相手の様々なところが目に付く。その中で立川さんも相手の男に対して人間性に疑問を覚えるところがあったのだろう。
 冷静になれば、もしくは好きでも何でもない相手ならばすぐさま拒否反応を示すようなことであっても、きっと恋愛感情がそれを誤魔化した。
「恋は盲目ですか」
「そうですね。一目惚れなんてするものじゃないと思いました。相手の何も分からないのに、好きになってしまったらその人しか見えなくなって、何もかも好意的に受け止めるようになってしまう。どうかしてますよ」
「一目惚れ……ですか」
「そう。厄介ですよね」
 言葉通りの顔をする立川さんに、美丈夫が俺を初めて見た時に気に入ったと言ったのを思い出した。美丈夫に興味のなさそうな顔が良かったという、俺からしてみれば一切理解出来ないものだったが。それもまた一目惚れだと彼は告げた。
(ああ、確かにそれは厄介だ)
 きっと一目惚れほど厄介なものはない。




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