美丈夫の嫁5 4





 美丈夫がバイトから帰ってきた時間は、いつも晩飯を食べている時刻より少しばかり早かった。顔色や機嫌が悪くないことを玄関で確認してから「少しよろしいか?」と声をかけた。
 勿論ちゃんと晩飯の支度は終えている。俺が休日の場合は晩飯を作って、二人で食べるというのが習慣になっていた。お手伝いさんが作る飯より明らかに味は劣っているだろうに、美丈夫はいつも美味しいと言ってくれるのが有り難い。しかし一方で気を遣わせているのだろうなという思いもあった。
(その上志摩のことまで持ち込むんじゃから、俺は厄介な嫁かも知れん)
 しかし美丈夫に黙っていることは出来ない。
「はい。いくらでも」
 美丈夫は笑顔で俺の問いかけに応えてくれる。洗面所で手洗いうがいを済ませ、荷物を自室に置いてくると俺の話を歓迎するとばかりにリビングのソファに座った。
 その「さあどうぞ」という態度からして、なんとなく申し訳なくなる。
(絶対めんどくさいことじゃぞ)
 二人分のコーヒーを入れてから、俺もまたソファに腰をかける。改めて正面から美丈夫の顔を眺めると、その整った顔立ちと男らしい格好良さに溜息が出る。
 生まれも育ちもこれだけ良いのに、顔面まで優れているのだから世の中は不公平だ。栄さんも美丈夫の従兄弟であるだけあって、よく似ている顔立ちをしている。大学も同じなのだから頭も良いのだろう。
 そりゃあ女の子が好きになるのも無理はないと言わざるを得ない。
「志摩のことなんじゃが」
「はい。何か問題がありましたか?」
 問題と言えば問題なのだが、表情を険しいものにした美丈夫の予想は大きく裏切ることになるのだろう。
 おまえの妹はあんなことがあったのに何を考えているのだ、と叱責される可能性もある。蔭杜の親戚に襲われそうになってあれほど嫌な思いをしたと憤っていたではないか。と恨み言でも出てくるだろうか。
「その……………栄さんに好意を持ったらしいんじゃ」
「………はい」
 美丈夫は目を見開きながら返事をしてくる。コーヒーを飲もうとマグカップの取っ手に指を絡めたところで硬直したことから、とても驚いたのが分かる。
 そりゃそうだろう。俺だって人から聞いたらそんな風に固まるだろう。
「それで、もしもお付き合いをしようとする場合は、誓約書に引っかかるじゃろうかと」
 志摩から接触するのは構わないが栄さんから接触してはいけない、という誓約は交際をしてからも継続されるのか。恋人は特別だとか、他人扱いにはならないなんて抜け穴は存在するのだろうか。
 美丈夫は瞬きをしてマグカップから手を離しては顎を触った。
「栄のものだけ書き直しますか?」
「特例として?」
「そうした方が良いと思います」
「いや、でも待って欲しい。そもそもまだお付き合いをしているわけでもない。栄さんのお気持ちもある。好きでもない相手に言い寄られた上に特例なぞにされても、困るじゃろう」
 何の気持ちもない相手に告白されるだけならばまだしも、貴方だけは私に近付いても大丈夫ですよ、なんて特別な例にされても気まずいだけだろう。
「二人が実際に会ったのも一度だけじゃろうから」
「二度は会ってますよ。栄にそう言われました」
 それは知らなかった。志摩は俺にそこまで言っていなかった。
(というかこの短期間に二度も会ってるなら、もう気があることは向こうにだってバレておるんじゃなかろうか……)
 あの子も好きだという気持ちを顔に出しているような有様だ。
「そんな話を、お二人はされておるのか」
「大学で講義が被った時などに。志摩さんと栄はラインを頻繁にしているみたいですよ」
「……ご迷惑にはなっていないじゃろうか。志摩に気を遣われているとか」
 仮にも俺が美丈夫の嫁だからと、栄さんは気を遣って志摩の相手をしているかも知れない。美丈夫の立場を配慮して俺も妹も構っておいた方が平和だろうと我慢していないだろうか。
「まさか。あれは面倒事に関しては冷淡です。迷惑だと思えば角が立たないように距離を取りますよ」
(誰かさんと同じか)
 そういうところも似た従兄弟であるらしい。
「誓約書を書き直しましょう」
「そうして頂けると有り難い」
 付き合うかどうかは分からない。だがその可能性が高そうだなと感じる以上、あの誓約書は書き換えられた方が志摩は安心だろう。
 ほっとしたところで、ふと誓約書とは別の問題が俺の頭を過ぎる。
「栄さんは……彼氏としてはどんな方なんじゃろう。それまでお付き合いをされておった女性も、おるじゃろうな。志摩も彼氏がいたことはいたんじゃが長続きせんでな」
 相性などはどうなのだろうか。栄さんのことはよく知らないので、つい美丈夫に窺ってしまう。
 美丈夫はようやくコーヒーに口をつけたところだったが、悩ましそうに首を捻った。
「栄は彼女にはあんまり構わないタイプでしたね。甘やかすのも得意ではないようで、お喋りでもありませんし。大体彼女の方が飽きるか嫌になって栄から離れていくのが多かった気がします」
 多かった、ということは栄さんは何人か付き合った女性があり。パターンが把握出来る程度には恋愛経験があるということだろう。
「そうか……志摩は心を許した相手にはよく喋ってうるさいくらいじゃから。お喋りではない方がバランスは良いかも知れんが。構われたがる子ではある」
 タイプ的には上手くいくのだろうか。
 脳内で勝手にシミュレーションしていると、美丈夫が苦笑した。
「心配ですか?」
「まあ……普通に。俺はあの子の兄じゃからの」
「妹さんがとても大切なんですね」
「年が離れておる分、なんとなくな」
 七つも離れている上に、あの子が幼い頃に父親が死んでいる。俺が父親代わりをしていたような面もあるので、どうしても過保護になってしまっていた。自覚しているけれど十数年も持ち続けている思考回路はなかなか矯正も出来ない。
 まして志摩もそれを厭っていないのだから、尚更だ。
「恋人が出来る分苦労や不安も増えるじゃろうが幸せにもなれる。人間としても成長出来ることを期待しておるんじゃが、どうなることか」
 何がどう転ぶのか分からない子だ。栄さんに迷惑をかけないことを祈りたいのだが。
「志摩さんが羨ましいです」
「え」
 美丈夫は俺の前で表情を曇らせた。耳を疑っていると美丈夫の双眸が次第に色を沈めていくのが分かった。
 急激に美丈夫の纏っている空気が重みを増していく。何が美丈夫をそんなにも憂鬱にさせていくのが、俺にはぴんとこなかった。
「貴方に真剣に考えて貰える」
 美丈夫は両手を膝の上で組んだ。やや俯いた顔は俺を見まいとしているようだ。
「俺は、貴方の中ではどこに追いやられているのでしょうか」
「おまえさん?」
「お忘れですか?俺が貴方を好きだと言ったことを。肉欲すら抱いていると伝えたことを。貴方が怯えてはいけない。貴方の負担になってはいけないと思い気持ちを抑えています。貴方の気持ちが固まるまでは待とうとも思っていました」
 忘れてはいない。美丈夫の気持ちを聞いた時に耳を疑い、信じられない気持ちでいっぱいになった。そして俺はそのまま。
(そっと目を逸らした)
 美丈夫はそれにずっと気が付いていた。
「でも貴方は俺のことは棚上げして、志摩さんに彼氏が出来るように手伝いまでしていらっしゃる。可愛い妹さんのことだとは思います。だが俺は?貴方にも思いを寄せる人間がいることをお忘れですか?それとも俺が諦めたとでも思いましたか?」
 忘れていたわけでもない。かといって美丈夫が諦めたとも思っていない。ひたすらに現状がこれ以上変わらないことを祈っていたのだ。
 美丈夫から嫁になって欲しいと言われて、あっという間に自分の周囲が激変した。それにまだ適応出来ていないのに、その上この人が自分のことを同性だというのに本当に好きであるなんて、認めるにはあまりにも衝撃が大きすぎた。
 だからつい、横に流した。受け止めきれなかった。
「貴方は残酷だ」
 美丈夫は俺の甘さを見透かして鋭く突き刺してくる。
 残酷だとはっきり言った声に俺は息を呑んだ。
 これまで自分に向けられることはなかった怒りが眼前に迫る。いや、もしかすると悲哀なのかも知れない。
 無下にされ続けた美丈夫の気持ちが、俺に対して訴えかけてくる。どうしてそんなに冷酷になれるのだと責めてくる。
 大人びたところばかり見せてきた美丈夫の素直な台詞に唖然としていると、溜息をつかれた。
「しばらく一人になって頭冷やします。上総さんが作って下さった晩飯はちゃんと食べますので置いておいて下さい」
 すみません、と一言残して美丈夫は腰を上げた。重たそうな身体はそのまま部屋を出て行ってしまう。
 引き留めた方がいいだろうかと足に力が入ったがすぐに弛緩した。引き留めて一体何を言うつもりなのか自分でも分からなかった。
 玄関のドアが開閉される音が聞こえては、天井を仰ぐ。
「残酷……」
(ごもっともじゃな)
 美丈夫の言っていることは正論だ。むしろもっと早く俺に対してぶつけていてもおかしくないものだ。
 美丈夫の気持ちを知りながらずっと放置していたのだから。良いとも悪いとも言わず、ただ一見平穏な時間が流れることだけを希望して、返事を濁し続けた。
 ずっとこのまま曖昧な状態が続くとは思っていなかった。だが一方で、今このタイミングで薄っぺらい平穏が壊れるとも思っていなかったのだ。
 見込みが甘いと言われようが、俺は勝手にそう判断していた。
(誤魔化せると思っておったんじゃろう……)
 心のどこかでは今のまま、ぬるい何かに浸かっていられると思い込んでいた。逃げたかったのだ。
(卑怯なんじゃろうな)
 流れ流され、自分の気持ちなど振り返ることもなく、誰かに理由を押し付けてきた自分の末路だ。




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