美丈夫の嫁5 3





『お兄ちゃん、次の休みの日に御飯食べに行こう』
 そうラインで連絡が来た時に覚悟をしていた。
 栄さんのアドレスを教えてから、志摩にどうだった?と尋ねても『大丈夫』としか返って来ずに、詳しい内容は一つも教えてくれなかったのだ。俺も突っ込んで訊きはしなかったけれど志摩の大丈夫が全然あてにならないことは知っている。
 まして今回の食事に関しても、どこに行きたいのかと訊いても『どこでもいい。静かなとこ』と言ったのだ。大抵どこで飯が食いたいのか事前に調べてねだってくるのに、静かなところとだけ指定するこということは腰を落ち着けて重要なことを話したいという予告に近い。
 俺は迷った末に以前行ったことがある洋食屋のランチに連れて行った。大通りから少し内側に入った小径のどん詰まりにあるので平日のランチは比較的空いている。テーブルとテーブルの間隔が広めに取られており、他人の会話が鮮明に聞こえてくるということもないだろう。
 志摩は前回顔を見た時より少しそわそわしているようだった。言わなければいけないことを腹に抱えていると丸分かりだった。
 席に着いた時から俺の様子を窺ってきていたが、生憎俺はわざわざ話のきっかけを出してやるほど優しくはない。言わなければいけないことがあるならちゃんと自分で言うように、と素知らぬふりをしていると注文したメニューが出揃ったところでようやく志摩は「あのね」と切り出した。
 俺はデミグラスソースのオムライスを一口食べたところだった。そういえば前回志摩に飯を食わせた後、自宅で食ったのもデミグラスソースのハヤシライスだったなと思った時だった。
「この前栄さんと会ったって言ったじゃない」
「ああ」
「すごく良い人だったの。優しくて、あんまり喋るの得意じゃないんだろうなって感じだったんだけど、頑張って色々話題を振ってくれてるのが分かるの。友達と観に行った映画がどうだったとか、一生懸命語ってくれて。話題を探すのに必死になってるのが、なんか微笑ましくて」
 そんな栄さんを思い出しているのだろう、微笑ましいと言った志摩の表情はとても穏やかだった。最近こんな風に微笑む子を見ていなかったような気がする。
 俺が蔭杜に引っ越してから、志摩は何かと不安になることが多かったからだろう。志摩にも苦労をかけているなと実感してしまう。
「私の話も真剣に聞いてくれるの。うんうんって相づちもちゃんと打ってくれて。お兄ちゃんみたいに聞き流すんじゃなくてさー」
「ちゃんと聞いておる」
 聞いてはいるけれど、思考は志摩が喋っている内容とは少しずれてはいた。そんなところを敏感に嗅ぎ取っているのかも知れない。志摩は疑わしいというような目で見てくる。
「ちゃんと気持ちまで向けられてるってのが感じられない〜」
「栄さんには、ちゃんと聞いて貰っていると感じたわけか」
「……うん。良い人だよね。格好良いし、優しいし。蔭杜の人ってみんなお金持ちなの鼻にかけて上から物を言う最低なやつばっかりだと思ってた」
(うちは傍系、下っ端にもほどがあったからな)
 まして父親が幼い頃に死んでいる上に、母親にはあまり生活能力はなく。親戚たちからは良い目で見られなかった。だからこそ俺たちは蔭杜というものにあまり良い印象がない。出来るだけ関わらない、無関係な人間のような顔をしていたかったのだ。それがこんな有様になっているが。
「そりゃあ誉さんや環さんは違うけど、あの人たちは直系だから。人格もしっかりしてないとトップにはいられないだろうっていうか、あれだけの家柄を支えるだけの器がいるじゃない?」
「まあな」
「従兄弟である栄さんもそっち側なのかなって。でもあの二人より親近感が沸く。誉さんも環さんも次元が違うようなところがあるでしょう?」
「あるな」
 美丈夫も環さんも生まれた時から蔭杜を背負うことが決められていた。責任と義務と重圧を受けて育ったせいか、彼らは頂点に立つ者の人格と気概が備わっている。初めから人の心理を把握してそれを使い、他人を動かすのが上手いのだ。支配することに慣れている。
 生まれが違うというのはこういうことなのだと二人を見ていると思う。
「そういうのが栄さんにはなくて、なんていうか」
 志摩は煮込みハンバーグをナイフで切ってはいるけれど、まだ一口も食べていない。それよりも気を取られているものがあるからだ。夢中になっているとでも言うのだろうか。
 俺は三分の一ほど減った、とろりと半熟卵が蕩け出すオムライスを見下ろしながら溜息をついた。
「志摩」
「うん」
「言いたいことはもっと他にあるじゃろう」
 回りくどいと暗に告げると志摩は顔を強張らせてナイフを離した。両手はおそらく膝の上に置いたのだろう。肩を縮めて俯いた。
「…………好きに、なったかも知れない」
「かもではないと、俺は思うんじゃがな」
 栄さんのことをあれだけぺらぺら喋って、何かに急かされるように俺に人柄を教えようとしているのだ。理解を求めているその先には同意して欲しい、良い人だと言って欲しい、だから好きになるのも仕方がないのだという安心と保証が欲しいと言っていた。
「かも知れない、だよ。勘違いかも知れない。ほら、助けて貰ったから、その恩義を感じてるのかも」
(そんなものではないと分かっておるじゃろうに)
 自分の話に耳を傾けてくれることが嬉しい。ちゃんと向き合って話題を振ってくれることが嬉しい。構ってくれることが嬉しい。それが恩義からくる感情だなんて誰が納得するか。
「ごめんなさい……」
「何故?」
 小さくなって突然謝る子に面食らってしまった。志摩は更に深く俯いてしまい、頭を下げて許しを請うのではないかと思わされる。
「蔭杜からお兄ちゃんを返して欲しいと思ってるのに。離縁して貰って早く家に帰って、前みたいに平和に暮らしたいって、私何度もお兄ちゃんに言ったよね」
「そうじゃな」
 志摩は俺を蔭杜に奪われたのだと、そうはっきり言っていた。美丈夫が俺を嫁にしたいと言ったから、平和だった我が家が崩れては親子三人がばらばらになったのだと。
 母親は俺と志摩が家を出たことに寂しさはあるだろうが、あまり堪えていない。元々家にはあまりいない人だ。けれど志摩は反発ばかりしていた。
「今でもちゃんとそう思ってるよ。お兄ちゃんには帰ってきて欲しい。でも蔭杜の人を好きになったかも知れないなんて裏切りだよ。これまで私が言ってきたことを思えば、最低だよね」
 あんなにも罵っていた一族の人間に心を寄せるなんて!と責めるような矮小な気持ちは生憎持ち合わせていない。嫌いだった人を好きになる可能性だってこの世にはざらにある。むしろ嫌いな人を好きになれたというのは、一般的には良いことだとされるだろう。
「俺は何とも思わんが」
「でも!」
「それにおまえが栄さんを好きになろうが、付き合うことになろうが、俺が離縁されるかどうかは誉さんのお心次第。他人の事情は関係がない」
 俺が蔭杜にいるのは美丈夫が嫁にしたいと言ったからだ。それ以外の理由は一切存在していない。
 美丈夫の言動だけが俺をあの家に置いている。とても頼りない、儚い繋がりなのだ。そこに志摩は勿論栄さんも、おそらく当主である環さんすらも関与出来ないだろう。
「でも……お兄ちゃんは私が栄さんを好きになったら、気を遣うでしょう?誉さんのことが大嫌いになっても、私を心配して逃げるのを躊躇ったりするかも知れない」
「はっきり言うが、現状を鑑みればおまえのことがなくても逃げにくいわい」
 志摩が栄さんを好きだの付き合うだの、そんな問題は些細なことだと言えるくらいに、俺は美丈夫に拘束されている。その一番の証拠である左手を志摩に見せると神妙にしていた子が「ああ……」と何とも気まずそうな目をした。
「婚約指輪まで貰ってるもんね……」
 今日は休日なので外すことは出来ない。無論美丈夫はちゃんと出掛ける前に俺の指をチェックしてから家を出ている。執念とも思える行動を前に離縁が俺に申し渡される日はいつになるのか見当も付かない。
「あの人はいつになったら飽きるというか、冷静になるというか。まともではないことに気が付いて改善しようと思うんじゃろうな」
 当主の兄弟は男の嫁を貰うという蔭杜の決まり自体、どうかしているとは思う。だが跡目争いを考えるとやむを得ないのだと言われると反論は出来ない。それを踏まえた上で言いたいのだが、何も俺に対して好意を向ける必要もまして肉欲を抱いていると宣言することもないだろう。そこまでして嫁として俺を扱わなくても良いのだと、誰か美丈夫の目を覚まして欲しい。
「無理じゃない?」
 志摩は先ほどまでのしゅんとした態度を消しては、いつも通り苦そうな表情でそう零している。その呆れと疲労感を漂わせている様子は俺の心境とよく似ているのではないだろうか。
「それで、おまえは栄さんとお付き合いをしたいのか?」
「……分かんない。許されないんじゃない?だって誓約書があるし」
「あれがおまえの身を守るのではなく、不利益になる日が来るなんぞとは思わなかった」
 蔭杜から距離を取ることは、志摩にとって安全に繋がるのだとばかり考えていた。まさか志摩から自ら近寄りたいと思うことがあるなんて、きっと志摩自身にだって想像もしていなかっただろう。
「付き合えるかどうか、美丈夫には確認しておく」
「え、誉さんにバラすの!?栄さんにもまだ何も言ってないのに!」
「万が一そういうことになったら、という例え話をするだけじゃ。兄として気になったからと誤魔化しはする。もしおまえが栄さんに勢いで告白してしまった時、誓約書があるから駄目だとなってしまったら辛いじゃろう。そんなことなら告白なぞせねば良かったとは思わんか?」
「……思うかも」
 もし志摩が栄さんに告白をして、栄さんがそれを受け入れた場合。後になって誓約書があるから二人と付き合えないとなれば、思いが通じた分苦しい思いをするのではないか。そんなことならいっそ両思いだなんて知りたくなかった、こんなの悲劇でしかないと嘆くのではないか。
 相手が自分のことを好きかどうかも分からない状態で、付き合えないと判明した方がまだ傷口は浅く諦めも付きそうなものだ。
(難しいことになったもんじゃな)
 人の心は思うようにはならない。そうは分かっていたけれど、こんな風に状況が一変するとは思わなかった。兄妹揃って蔭杜の直系に近い人間と関わらずには生きていけない運命だとでも言うのだろうか。



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