美丈夫の嫁5 2





 志摩にデザートまでしっかり食べさせて帰宅すると、玄関を開けてすぐ美丈夫に迎えられた。
「お疲れ様です」
 にっこりと微笑んで俺から鞄を受け取ろうとする人は、一昔前の良妻そのものだ。
 身長は俺より高い上に容貌がかなり男前だが。
「おまえさんの方が嫁のようじゃな」
「そうなっても構いません」
「しかし俺には甲斐性がない」
 美丈夫を養っていくなんて、俺には逆さになっても出来そうもないことだ。まだ二十歳である美丈夫だが、蔭杜の事業にこれから食い込んでいくことは間違いない。それどころか現在姉である環さんのサポートもしているというのだから、すでに俺などよりずっと経済力があるだろう。
「鞄は預かります。指輪を」
 掌を出してくる人に「いい」と軽く断ったのだが、美丈夫は鞄を寄越して早く指輪を正しい位置にはめろと求めてくる。なるほど鞄を渡せと要求したのは何も良妻の役割をしたわけではないらしい。
 俺は鞄を美丈夫に渡してはネックレスを外して、指輪を手に乗せる。プラチナのリングは今日も輝きを失っていない。大人しく薬指にはめるのを確認してから美丈夫は一つ頷いた。
(なんじゃろう、何やら調教をされておるような気持ちになる)
 すでに馴染んでしまった指輪については深く考えるのは止めている。とにかくあまり悩まず、スーツのジャケットを脱いでは美丈夫から鞄を受け取ろうとした。だが彼は返してくれず結局俺の部屋まで運んでくれた。
「ご飯はどうします?」
「あっためて食べる。おまえさんは終わらせたんじゃろう?」
「はい。召し上がって帰って来られると思ったので。まだだったなら待っておけば良かった」
 美丈夫は出来るだけ俺と一緒に晩飯を食おうとする。時間帯も合わせてくるのだが、さすがに今日は先に済ませていたらしい。
(そもそも十時まで待って貰うのも悪いしの)
 帰ってから食べるとでも言えば、美丈夫はその時間まで待つだろう。無理して合わせる必要もないのだから先に食べてしまえば良いのに、とそれこそ気を遣うのであえて黙っていた。
「せっかく作って貰ってるのに、外で食べて帰るのも悪いからな」
「気になさらなくていいのに」
「作ったものを無下にされるというのは、いくら仕事であっても寂しいものがあるじゃろうよ」
 実家にいた時に俺が何度か体験してきたことだ。食べられないものを作るというのは何とも虚無感がある。
 仕事だと割り切って何とも思わない人もいるだろうが、もし今夜のご飯が力作であり出来れば口に入れて欲しかったと少しでも思うものであったら、と思うと放置するなんて非道だろう。
(ましてお手伝いさんには何かと良くして貰っておるからな)
 彼女たちとは良い関係を作っていこうとしているのだ。失礼なことは出来るだけしたくない。
「人が作った飯というのは有り難いもんじゃ」
「分かります。俺も上総さんが作って下さった時に思いました」
「あんな手抜き料理でか」
 時間も手間もろくにかかっていない。普段お手伝いさんが作ってくれている料理のほうがよほど丁寧なものではないか。
 しかし美丈夫は微笑んでいる。
「せっかく作って下さったものです」
「大袈裟じゃな」
 この人は何であっても俺がやることを大きく捉えようとするくせがある。褒めてもおだてても俺は居心地の悪さを覚えるだけなのだが、その辺りは上手く理解し合えていない気がする。
 今日の晩ご飯はハヤシライスとサラダとオニオンスープだった。電子レンジでハヤシライスを温めながらスープが入った鍋に火を入れる。スープは多めだったので美丈夫にも飲むかと訊くと欲しいと返ってきたので二人で分けた。
 実家ではハヤシライスなんて作るのが面倒でレトルトで済ませていたものだが。ここではちゃんと一から作ったのだろう。
(デミグラスソースから手作りなぞ、俺には絶対真似出来ん)
 電子レンジで温められたハヤシライスを取り出してはカウンタキッチンの椅子に並んで座る。洋食屋で出されていてもおかしくない、それどころか自慢の一品にも出来るだろうハヤシライスにコーヒーしか入っていない腹が喜ぶ。
(美味いもんを食うと疲れが吹っ飛ぶな。まして自分が作ってないと本当に美味しい)
 自分が作ったものと、他人が作ったものではきっと美味さが異なる。オニオンスープのよく煮込まれてこっくりとしている味も嬉しい。つい夢中になって半分くらい食べてから、ふと隣にいる美丈夫を見ると目があった。
 こちらはきっと満腹なのだろう。スープもあまり減っておらず、ただゆったりとした時間を満喫しているというような印象だ。
「おまえさん、食事をしながらで悪いんじゃが。話がある」
「どうぞ。俺のことはお気になさらず」
 自分だけが食事をしながら喋るというのもあまり良くないかもな、と思いながらも志摩のことが気になって切り出すと、美丈夫は快く耳を傾けてくれるらしい。どうでも良いのだがこの人よく微笑んでいるな。
「今日志摩がおまえさんの大学の学祭に友達と遊びに行ったらしい。そこでガラの悪い連中に絡まれて難儀しておったところを、蔭杜と呼ばれる人に助けて貰ったと」
「それなら聞いています」
「聞いている?」
「はい。栄から相談されました」
「やっぱり栄さんじゃったか」
 自分がやったことが誓約書に触れるかどうか、栄さんもまた心配したらしい。
 すぐさま美丈夫に確認を取るとは実に迅速な行動だ。
「志摩さんが困っているのを見てとっさに行動に出たものの、あれでは誓約書に触れたんじゃないかと青ざめてましたよ。俺は緊急時の救助であるため例外だと判断出来ると言っておきました。それに志摩さんだから関わりに行ったわけじゃない。誰であっても女性を強引に連れて行こうとする男がいれば、止めるでしょう。志摩さんは誓約書と違うと訴えられましたか?」
 緊急時の救助というのは大袈裟だなと思うのだが、それくらい緊迫した状態だと言わなければ志摩に関わったことが問題視されるかも知れないと思ったのだろう。
 その上志摩だと分かっていたから助けたわけではない。どんな女性であっても同じように助けたという説明まで付いてくる。逃げ道をしっかり確保しているらしい。
「志摩は栄さんに御礼が言えなかったことが申し訳ない。出来ればちゃんと御礼がしたいと俺に頼み込んで来た」
「御礼、ですか?」
 美丈夫は意外そうな顔をした。俺と同じように、蔭杜を嫌っているというのにわざわざ御礼を言おうとするのかと思ったことだろう。
「そうじゃ。誓約書に引っかかるようならばおまえさんを通しての礼になるじゃろうが」
「志摩さんから接触されるのは問題ありません。御礼がしたいというそのお気持ちも有り難いですし、栄もあれからちゃんと志摩さんには何事もなかっただろうかと気にしていたので喜ぶと思います」
 蔭杜の男たちからは駄目だが、志摩から接触するのは許されると誓約書にも書かれているのだろう。志摩にとって都合の良い形にして貰っているというのを俺は初めて知った。
「栄のアドレスを上総さんにお送りします。上総さんから志摩さんにお伝え願えますか?」
「有り難い」
 感謝を述べると美丈夫は「いえ」とやはり口元に微笑みを浮かべている。
 もし今日の志摩のように、ガラの悪い男に絡まれていた際に美丈夫のような人に助けられたとすれば。大抵の女性はくらりと来てしまうことだろう。
 好意を寄せるのも自然なことかも知れない。だがそれが身近に起こってしまっているのではないかと思うと、やや複雑な気持ちが込み上げてきた。



 美丈夫から教えて貰ったアドレスを志摩に送る。ついでに今日栄さんが志摩を助けたことに関しても、誓約書には接触しないらしいと説明も付けた。
 志摩は俺から連絡が来るのを待っていたのか、ラインで連絡を付けた途端に電話がかかってきた。
『アドレスありがと。誉さんは何か言ってた?』
「俺が志摩の話をする前に、栄さんから事情は聞いていたらしい。特に問題もないと仰っていた」
『そうなんだ……とりあえず、直接会って御礼を言おうかなって思ってるんだけど』
「会うつもりか」
 せいぜいメールかラインで連絡を取って御礼を言うだけだと思っていた俺は、志摩の直接会うという一言に驚いた。
 蔭杜の人間に自ら会おうとする志摩なんて、これまで想像していなかった。いや想像したことはあったのだが、それは直接抗議する、怒りをぶちまけるという方向性であり、友好的な態度を取るというのは考えてこなかった。
 驚く俺に志摩もまた戸惑ったようだった。
『え、駄目?』
「駄目ではない。じゃが一人で大丈夫か?俺も付き合おうか?」
『平気。悪い人じゃなさそうだし。人目があるカフェかどこかで会うつもりだし。お兄ちゃんが来たら向こうの人も気を遣うんじゃない?』
「そうかも知れんが……」
 しかし妹を助けてくれて有り難うございました。くらいは兄として頭を下げてもおかしくないだろう。そもそも二人きりで会うというのはどうなのか。正しいのか。
 成人した妹の交流に兄が口出しなどするものではない。そう分かっているので異論は出さないのだが、ものすごく気になってしまう。
『御礼を言うだけだよ。それだけ』
 俺が言葉を濁したのに何かを感じ取ったのか、志摩は御礼という言葉を強調して繰り返す。
(その御礼に前のめりになっておるのはおまえじゃろうが)
 やたらこだわっているではないか。それとも志摩自身はまだそんな自分を意識していないのだろうか。
(しかし俺が指摘するようなことでもなかろう)
 まだ何も始まっていない、何も動いていないはずだ。
 簡単な連絡だけで志摩は電話を切った、ほんの少し前まで会って色々喋っていたのだから今更兄に伝えなければいけないことなどないだろう。しかし俺は通話が終わったスマートフォンを握ったまま、部屋から出て美丈夫の元に歩いた。
 美丈夫は自室のパソコンの前に座っていた。画面には細かい文字が並んでおり、何か資料でもチェックしていたのかも知れない。
「少しよろしいか」
「はいどうぞ」
 美丈夫は手を止めては椅子をくるりと回しては俺と向き合ってくれる。そろそろ風呂に入って寝ようかという時間帯なのだが、晩飯が遅かったため二人とも少し生活リズムがずれている。
「志摩が栄さんに直接会って御礼が伝えたいと言いよって。栄さんのお人柄はこの前会ってちょっとは分かったつもりなんじゃが」
 以前突然降り出した雨に驚いて、雨宿りをしようと入ったチェーン店のカフェに飛び込むとそこに栄さんがいた。親戚に対する俺と美丈夫の婚約をお披露目する会でちらりと顔を見ていたが、これといった印象も残っていなかった相手だ。蔭杜の人間は苦手だったのだが、生憎店内は席が空いておらず、栄さんのテーブルに同席させて貰うことになった。
 結果的には栄さんは美丈夫にとって信頼出来る従兄弟であり、付き合いやすい相手だと分かったので良かったのだが。まさか志摩が興味を示すとは思っていなかった。俺にとっては無害そうな人であっても、志摩にとってはどう動くのか不明だ。
 つい心配になって美丈夫に探りを入れたくなるのも無理はないだろう。
「その、おまえさんが信頼しておる従兄弟なら俺が不安になることは何も無いとは分かっておるんじゃが」
 従兄弟に対して不信感を持っていると聞かされる美丈夫の身になれば、決して愉快ではないだろう。言い訳のようにそう付け加えるのだが、美丈夫は「分かってます」と俺の心情を読んだらしい。
「栄にも釘を刺しておきます。栄も自分の立場を分かっているのでおかしなこともしません。理性的な人間ですよ」
「そうか」
 美丈夫が理性的と言うのならばそうなのだろう。この人は親戚に散々苦労をさせられてきたせいか、身内に関しては辛口なイメージがある。従兄弟だけには甘いなんてこともない、と思いたい。
「ですが」
「何か、引っかかるのか」
「少し照れ屋というか、奥手と言いますか……女性の免疫はあまりないので、志摩さんと二人だと会話が弾むかどうかは分かりません」
「それくらいでいい」
 むしろそれが良い、と言いかけてこれでは完全にシスコンだなと自分を止めた。
 女慣れしている男と言われた方が胃が痛くなる。胸を撫で下ろしそうになったのだが、ふと疑問が湧いた。
「モテそうな人じゃがな。女性とはあまり縁がないのか?」
「子どもの頃から恥ずかしがり屋で人見知りなところがありましたし。何より親が硬派に育てたかったようで、男子校ばかり進学してましたよ」
「ああ、なるほど。純粋培養か」
 単純に女性に接する機会が少なかったから、苦手意識があるのかも知れない。それならば志摩に直接会って礼を言われるのも負担になるだろうか。
(いや、でも嫌なら本人が断るじゃろう。誓約書を盾にとって逃げることは容易い)
 志摩も深追いは出来ないはずだ。
 どう転ぶかは分からないが、俺に出来ることはない。大人しく待つだけである。
 しかし目の前で苦笑している美丈夫は俺の心にある、小さな予感を見透かしているようだった。
 



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