美丈夫の嫁5 1 婚約指輪は仕事中、首からぶら下げることになった。 さすがに薬指にはめたまま仕事をすることは、俺にとっては苦行でしかない。婚約者を紹介しろ、いつ結婚するんだ。と質問攻めにしてくる上司や職場の人々を想像するだけで退職したくなる。 そう零した時「退職したあかつきには蔭杜の家に入って貰い、悠々自適の隠居生活が出来ますよ」と笑顔で言った美丈夫が怖かった。よく分からないが仕事は大切だなと感じたものだ。 美丈夫も仕事に支障が出ると食い下がる俺に折れてくれた。もっとも、折れる条件としては帰宅してすぐに薬指に指輪をはめること。仕事以外は外さないこと。が条件だ。 玄関のシューズクローズの上にプラチナのチェーンが置かれており、仕事に行く際はそのチェーンに指輪を通して首にかける。帰宅した時はそこにチェーンを置いて指輪をはめる。という手間のかかる生活が始まった。 仕事に行く際はちゃんと意識して指輪を外せるのだが、帰宅した時はつい忘れがちになる。視界に指輪が入らないせいで指にはめ直すという作業を失念しがちなのだ。 しかし自宅で指輪をはめていないと美丈夫にチェックをされる。彼は最近俺を見ると真っ先に左手に注目するようになった。 「指輪、はめて下さいね」 そう注意する美丈夫はどことなく圧力を感じる。さすがに三回注意されてからは俺も同じミスは犯すまいと、指輪の移動を習慣づけることが出来た。 (はめ直すのを忘れるくらいなら外さなければいいんです。とか言い出しそうじゃからな) 仕事中もはめて下さい。いや、仕事中は勘弁してくれ。という不毛なやりとりが蘇るのは憂鬱だ。出来る限り避けたい。 ちなみに美丈夫は平然と左手の薬指に指輪をはめて生活している。大学などで騒ぎになったのではないかと思うのだが、本人は一切構わない様子だった。 指輪に関わる騒動に対して、美丈夫は一貫して揺るがないままだった。 それはそのまま自分たちの関係についての姿勢でもあるような気がした。 『仕事終わった?』 勤務時間が終わり、怠さを抱えながらさあ帰ろうかとした時に志摩から電話がかかってきた。もしもし?と俺が言った返事がこれだ。いきなりどうしたのか、少し焦っているような雰囲気も感じられて俺はつい身構えてしまった。 「終わったが、どうした」 『御飯食べに行きたい』 志摩は一人暮らしを始めてから、食事を作るのが一番億劫だと言っていた。実家にいた時は俺か母親が作っていたので、自炊するのが面倒なのだろう。 なのでたまにこうして食事に連れて行ってくれとねだられる。外食がしたいだけならば一人、もしくは友達と行けば良いだろうが俺と一緒に行くと食費が浮くのだ。 一人暮らしをしながら蔭杜に借りている学費を返すためにバイトをして貯金を貯めている子は、兄を使って節約している。 そう分かった上でよく志摩を連れて飯を食いに行っているのだが。今日は言い出すのが遅い。 「家で用意されておる。事前に連絡せえといつも言っておるじゃろうが」 休日以外の食事は蔭杜のお手伝いさんがやってくれている。もし食事がいらない場合は彼女たちにちゃんと伝えておかなければ、夕方を過ぎればすでにキッチンには俺と美丈夫の分の食事が準備されているのだ。 なので今日のように突然言い出されるのは困る。 『相談が、あるの』 (案の定か……) いきなり外食をねだる子は通話を開始した時に予感した通り、何か問題に直面しているのだろう。 「分かった。仕方あるまい」 志摩は家にいるらしく、近くのファミレスで待ち合わせて食事をすることになった。 美丈夫には電話で帰宅が遅れることを連絡し、八時過ぎに志摩と共にファミレスの窓際のテーブルに腰を落ち着けた。夕食の時刻からは少しずれたからだろう、店内は混雑することもなく俺たちのテーブルの周りには家族連れが一組いるだけだった。 志摩は会ってみるとそう深刻そうな表情でもなかった。以前のようにアパートの部屋に男が押しかけてきたというような危険な問題でもないのだろう。 (美丈夫が対処して、二度とあんなことがないようにすると誓っておったしな。そう何度もあってたまるか) 万が一なんて想像はしていたのだが、大丈夫そうだと安堵しながらメニュー表を志摩に渡す。 「私は〜、カルボナーラセットかな。お兄ちゃんは?」 「コーヒーでいい」 「お腹空いてないの?」 「家に飯がある」 出来ることなら俺もここで何かしらを頼んで、空っぽの腹を満たしてしまいたいものだが。生憎家にあるだろう食事を思うとそう簡単にもいかない。 「ああ。お手伝いさんが作ってくれるっていうご飯?食べないと怒られるの?」 「まさか。じゃが作って貰っておるのに、食べずにおるのは申し訳がなかろう」 俺が出来上がっているだろう食事を捨てたところで、お手伝いさんが怒ることは有り得ないだろう。彼女たちの仕事は食事を作ることであり、それを食べるかどうかはこちらの自由だ。 だが仕事とはいえ、せっかく作って貰ったものを無駄にするというのは何とも罪悪感が込み上げてくる。そもそも食べ物は粗末にしてはいけない。 「気を遣うね」 「楽させて貰っておるからな」 志摩は俺に対して同情しているようだが、自室以外の掃除や日々の食事を誰かに丸投げ出来ているということに関しては、俺としてはかなり有り難いのだ。これくらい気を遣わなければ罰が当たる。 「で、相談とはなんじゃ」 ファミレスの店員に注文を通して、改めて向かい側に座っている志摩に問いかけると志摩は途端に眉尻を下げては言葉に詰まったようだった。 言いづらそうな子に、何か困ったことがあった嫌なことがあった、というわけではないのだろうと感じた。もしその類の話ならば淀みなく喋り始めて俺に意見を求めるはずだ。 内心何事かと首を傾げていると、志摩はもぞっと身じろぎをしては俯いた。 「あの、この前他校の学祭に友達と遊びに行ったの。そこで、チャラい男に絡まれてすごく困ったのね。合コンみたいなのに参加してくれっていわれて、嫌だって言っても離してくれなくて。ぶん殴って逃げようかと思ったけど友達もいるし」 「滅多なことが出来んかったわけじゃな」 面倒な男にナンパされたということなのだろう。一人でいる時にそういう目に遭ったのならば、志摩は冷たく対処する。それでも相手が引かなければ暴力に訴えた上で速攻逃げることだろう。 志摩は中高時代陸上部に所属しており、県大会で優勝した経験を持つことからも逃げ足の速さは保証されている。男の急所でも何でも狙って倒して逃げるというのが志摩の定番だ。 まあ、あまり褒められたことではない上に物騒なので極力しないようには言っているのだが。 「すっごく迷惑で、どーしようかなぁって悩んでたら助けてくれた人がいて」 「ほう」 「しかもその人、蔭杜って呼ばれてた」 思わぬ名前に俺は固まってしまった。 「私が遊びに行った大学、誉さんが通ってるところだったのよ。でも助けてくれた男の人は全然知らない人だった」 志摩の説明に、俺が今日呼ばれた理由と志摩がどことなく神妙になっている理由が分かった。 「その男は背が高くて誉さんに似た人か。バスケとかやってそうな感じの」 「そう!」 「まあ実際やっておられたそうじゃが」 「お兄ちゃん誰か分かるの?」 「誉さんの従兄弟じゃ。同じ大学に通っておられると聞いている」 そうかあの人か、と思い浮かぶ顔は確かにナンパされて困っている女の子を助けそうな人だ。美丈夫の従兄弟なだけあって顔立ちも整っている上に、体格も良い。そこいらの男相手ならば容易く制することも出来そうだ。 「御礼を言おうと思ったんだけど。友達に呼ばれたみたいですぐに行っちゃって」 「そりゃ逃げたんじゃろう。おまえには関わってはならん契約がある」 志摩や俺たちに良からぬちょっかいを出しそうだと思われる蔭杜の血縁者たちは、俺たちには自ら接触してはならないと当主から命じられているはずだ。特に志摩と年齢の近い男たちは直接の接触を禁じる誓約書を交わしている。 なので彼は志摩を助けたとしても、決して自分だと悟られるわけにはいかない。もしくは自ら接触したとバレてはいけないのだ。 だから逃げるしかなかった。 「でも助けてくれたのに!」 「助けてくれたかも知れんが、接触してしまったことに変わりはない。こちらから訴えることはないとしても、用心したのかもな」 「なんか、申し訳なくて……お兄ちゃんなら何か分かるかなって思って」 しゅんとしている子は助けて貰ったのに御礼が言えなかった、というだけの理由にしては随分落ち込んでいる気がする。 「それはいつの話じゃ」 「今日」 「早いな」 「だって……」 助けられたという出来事はつい数時間前、下手すると本当に四、五時間前なんてことになるのではないのか。 気になって居ても立っても居られなかった、ということだろうか。 「で、従兄弟じゃと分かったが。おまえはどうしたい」 「ちゃんと御礼が言いたいんだけど」 「ふぅん」 御礼が言いたいのか。それだけなのか。 非常にこだわっているように見える志摩に、少し引っかかるものがあった。 俺がすんなり納得してしないことに志摩も気が付いたのだろう「なに?」と窺うように上目遣いで見てくる。それは気まずいことや照れくさいことがあるのを隠す時にする仕草だとこの子は自覚しているだろうか。 「いやなに、すっきり忘れなかったのかと思ってな」 「そんなに恩知らずじゃない」 「そうじゃな。恩義は返さねばならん」 「うん」 ほっとしたような志摩に、そのリアクションがおかしいのだと言いたくなる。 (蔭杜に恩があるなんて、志摩なら悔しさを剥き出しにして嘆くじゃろう。俺が嫁にされた上に、あんなにも嫌な思いをさせられた迷惑な家の人間にこれ以上助けられたなんて!くらいは騒ぐはずじゃ) なのに俺がちゃんと御礼をした方が良いと認めたことに安心するなんて。免罪符を得たかのようではないか。 「その人が本当に従兄弟かどうかについては誉さんに訊いておく。誓約書に接触するかどうかもな。御礼がしたいとも伝えておくが、もし駄目でも誉さんを通して感謝の気持ちだけでも言えるじゃろう」 そうだね、と言った志摩は何かしらの期待を込めた目をしているように見えた。 これまで見たこともなかったような妹の様子に、何やらもやもやとしたものが沸き上がってくるのだが、俺にはどう判断して良いものか分からない。 志摩はカルボナーラのセットに入っていたサラダとコンソメスープが来たことで意識が切り替わったらしい「お腹空いた〜」といつも通り暢気な様子でフォークを手に取った。 しかし俺は運ばれてきたコーヒーに口を付けながら、何か重たい物を手渡された気分だった。 next |