美丈夫の嫁4 8





 美輝さんはしばらく道路を見下ろして悩んでいるようだった。「どうしよう」と呟いた声も聞こえるのだが、何故その躊躇を少し前に抱かなかったのか。残念で仕方がない。
 ふと唇を噛んだかと思うと急に走り出そうとした。
 何をするつもりなのかは尋ねるまでもない。道路に落ちた指輪を探そうとするつもりだろう。
「止めなさい」
「離して!触らないでよ!」
「もうじき誉さんがここに来る」
「誉さんが?」
 美丈夫の名前に美輝さんは一瞬喜んだ。けれど自分がしてしまったこと、状況を考えると決して歓迎出来ることではないと分かったらしい。悔しそうな表情でそっぽを向いた。
「指輪を探すより、誉さんに謝罪した方がいいでしょう。話は聞いて貰える」
 どんな事情であっても、美輝さんは美丈夫との接点は持ちたいのだろう。普段接近を禁じられているせいか、美丈夫に会えると分かった途端に大人しくなった。
 美丈夫は三十分もしない内にやってきた。
 彼の大学からここまでは公共機関を使えばもっと時間がかかるはずだったのだが、この短時間ということはタクシーを利用したのだろう。
 その上走ってくる姿はとんでもない事態に急き立てられているかのようだ。
「なんでこんなところにいるんですか!もし突き落とされたらどうするんですか!」
 美丈夫は俺が中央通路から動かずに待機しているとは思わなかったらしい。まして美 輝さんと数歩しか離れていない距離に、間に割り込んでは叱ってくる。
「いやいや、無理でしょう。ここからじゃ担ぎ上げない限り出来るわけがない」
 俺をどれだけ手で突いたとしても、せいぜい転ける程度。天井までしっかり塞がった壁はないけれど、中央通路には俺の胸元近くまできちんと壁が作られている。小柄な美輝さんにとってはもっと上だ。
 なのに俺をここから突き落とそうと思えば腰でも抱き込んで持ち上げなければいけない。半袖から見える華奢な腕のどこに俺を満ち上げるだけの筋力があるのか。
「他の男を雇っているかも知れないでしょう」
「そこまで考えるのか」
「誉さん…!」
 美輝さんをそっちのけで喋っていると、我慢が出来なくなったのか美輝さんは切羽詰まったような声で呼びかけてくる。
 それに美丈夫は冷ややかな眼差しを向けた。
「上総さんへの接近は禁止しているはずですが?」
「出来上がった婚約指輪を、一刻も早く見て欲しいと思ったんです……」
 なるほど、そういう理由でこの人は会いに来たのかと遅まきながら理解した。
 しゅんと小さくなっている美輝さんは、ここで俺と会ったばかりの高圧的な態度を完全に消していた。何も知らない人が見れば気弱そうな少女を二人の男が虐めているようにも見えるだろう。
「それで、上総さんを待ち伏せですか?探偵でも雇って休日のパターンを調べましたか」
「え……」
 俺を捕まえるために探偵なんて雇うのか。俺の休日はパターン化されているので把握するのはさぞかし簡単だったことだろう。
(そういえば前々回の休日もこの時間にここを通ったな……)
「それで、上総さんに指輪を見せてどうするつもりだったんですか?」
 美輝さんはそこで言葉に詰まったようだった。
 傷付いたような表情で再び唇を噛んでは俯く。その反応は何かやりましたと告白しているようなものだ。
 美丈夫の目つきがどんどん鋭く剣呑なものになっていく。黙ったまま怒気がゆっくりと膨らんでいくのが感じられる。
「俺の口から、お話しても宜しいか?」
 美輝さんが黙り込んでいるのでそう尋ねると、綺麗に結い上げられた髪を揺らしながら頷いた。
「彼女は出来上がった婚約指輪を俺に見せて、そのまま摘んでここから投げた」
「ここから?この下に?」
「そう。つまり、貴方が依頼した俺の分の指輪は今、この道路のどこかだ」
 美丈夫は道路を見下ろさなかった。ただ軽く笑っては腕を組んで顎をしゃくった。それは随分冷たく、嗜虐的な仕草に見える。
「美輝さん、十分ご存じだと思いますがあの指輪は俺が貴方のお兄さんに注文した物です。特別な物ですから大切に作って下さいとお願いしました。これが彼にとって重大な意味を持つことは間違いない。それを、捨てましたか」
(俺と同じところから責めるか……)
 彼女自身を責めたところで、反発して耳を貸さない予感はしていた。俺の口から聞けばまして、美輝は苛立ち激情に身を任せるだろうことも。
 美丈夫が輝大さんへの依頼の重要性を説明することによって、美輝さんの軽率さを指摘している様子から、その予感は当たっているようだ。
「父親と兄の顔に泥を塗って取り返しの付かないことをした。貴方が行ったことによって、私たちはあの店の資金を止めること、今から潰すことも出来ます」
「そんな!」
「これまで貴方からどんな迷惑をかけられても強硬な手段は執らなかった。けれど上総さんに関わった以上、情けをかけるところなど微塵もない」
「誉さん」
「聞きません」
 窘めようとした俺の声を美丈夫は一蹴した。
 しかし俺はそこで引き下がることは出来ない。美丈夫の良いようにさせれば、これからこの人は益々過激になっていきそうだ。そんな人の近くで暮らすのは心臓に良くない。
「落ち着いて。俺は何もされていない。彼女は自分の家の物を自分で捨てただけ。俺は傷付けられたわけでも、悲しい思いをしたわけではない。不愉快な思いだってしていないのだから」
 美丈夫はさも俺のためのように言っているけれど、俺は彼女から何もされていない。
 指輪を捨てられたことによって、俺が得たダメージは全くないのだ。
「不愉快な思いすらしていないんですか?」
「呆れただけだ」
「そうですか。まぁそうかも知れませんね。指輪を捨てられた程度ならむしろほっとしているんじゃありませんか?」
 じろりと横目で見られて今度は俺が言葉に詰まった。
 この人は俺が指輪を着けるのに静かに抵抗していると勘付いている。指輪から逃れられるものならば逃れたいという気持ちを若干恨んでいるような目つきだった。
 それに美輝さんは怪訝そうな顔をしていた。美丈夫から贈られる婚約指輪を遠慮したいという俺の気持ちは、彼女には永遠に理解出来ないだろう。
「誉さん!上総さん!」
 美輝さんの後ろから輝大さんが走ってくる。そして妹の姿を無視して俺たちの前に走ってきてはその場で膝を突こうとした。
 何をしようとしているのか明白で、俺は素早く輝大さんの二の腕を掴んだ。
「止めて下さい!」
「ですが」
 こんなところで土下座などされたら、俺たちの方が恥ずかしい。この人たちは一体何をしているのかと、通路を通り過ぎる人から好奇な目に晒されることだろう。
「貴方がそこまでする必要はありませんよ輝大さん」
 俺が腕を掴んでもまだ土下座を決行しようとする輝大さんに、美丈夫が溜息まじりにそう告げた。顔を上げて下さいと続けたのだが、輝大さんは腰を折るように深々と頭を下げた。
「申し訳ありません」
 おそらく美丈夫が連絡をしたのだろうが、輝大さんはまだ自分の妹が何をしたのかも分からない内からこの謝罪だ。現実を知ったらどうなることだろうか。
「妹さんは、出来上がった上総さんの分の婚約指輪をここから投げ捨てたそうですよ」
 美丈夫の説明に輝大さんは真っ青になり俺に向き合った。情けないと顔に書かれているその様子は、泣き出すのではないかと思われた。
「本当に、申し訳が」
「いえ、私は何もされていません。私は指輪を受け取ってもいません。ちらりと見ただけです。まだ私の所有になっていない物を捨てられたところで、何も思うところはありません」
 指輪を捨てられても何も思わないという説明をするのはこれが三度目になるのだが。これほど繰り返していては、心底欠片も指輪に興味のない人間だと力説している気分になる。
 美丈夫の様子を窺うのが怖くて、なんとなく視界から外した。
「そう仰って頂けると大変有り難い」
 安堵して良いのか悪いのか、戸惑いながらも輝大さんがまた頭を下げた。そして妹を見ては大きく息を吸い込む。
「美輝、おまえ何をしてる。お二人には近付くなとあれほど言っただろう!おまえは俺だけじゃなく店まで滅茶苦茶にしたいのか!どれだけの人に迷惑をかけてると思ってるんだ!おまえのやっていることは気持ちの押し付けだ!誉さんにとっては不愉快でしかないと言っているだろう!なのにこんなことまでして!!」
 美輝さんは兄に怒鳴られて、身を縮めている。店の応接室にいる時のように言い返しはしないようだ。
 そんな立場ではない、ということくらいは感じ取れるらしい。
 しかし黙り込んで何も喋らない妹は兄の怒りを煽ったようだった。輝大は美輝を睨み付けては右手を振り上げる。
「待って下さい!私は本当に何の被害も受けていない!だから暴力は!」
 肩を掴んで美輝さんから距離を取らせる。兄が妹に手を上げる図というのはどうも直視が出来ない。
 輝大さんも人前だということを思い出したのか、手は下ろしたけれど激情を納めることは到底出来そうもないようだった。
「お言葉ですが上総さん、もはや俺たちはどれだけこいつに迷惑をかけられてきたことか!」
「それは分かりませんが、どうかこの場では止めて下さい」
「輝大さん」
 俺だけでなく美丈夫まで一声かけたことによって、輝大さんは深呼吸をしては肩の力を抜いた。そしてやるせなさそうに片手で顔を覆っては「何とお詫びを申し上げていいか」と嘆き始めた。
「先ほども申し上げましたが、私には傷手も何もありません。気にもしておりませんので」
「そうですか、それは……良かったというのはおかしな話ですね。早急に新しい物を作ります。勿論納期には間に合うようにします」
「急ぎではありませんので、どうか時間がかかっても丁寧に良い物を作って下さい」
 美丈夫は納期などどうでも良いようだった。実際婚約指輪を受け取らなければいけない期限などない。思い付いたので作って欲しいという物だったので、美丈夫にしてみれば出来の速さよりも質だろう。
 しかし俺は納期よりもっと気になることがあった。
「え、作り直しですか?」
 俺の疑問に二人は当然だろうという目で俺を見て来た。
「はい。残念ながらあんな道路に落ちた物を拾うのは不可能です。仮に取れたとしても、こんなケチのついたものをお渡しすることは出来ません」
 ケチがついた、というところで美輝さんの肩が跳ねた。輝大さんの声がそこだけ低くなったというのもあるだろう。
「ですが、完成していた物でしょう?」
「はい。出来上がっていました」
「なのに、このままですか?」
「このままです、もう、必要ありません」
 きっと熱意を込めて丁寧に作ったのだろう。輝大さんは必要ないと言った時に顔を歪めた。
 脳裏には制作していた時の思いが過ぎったのかも知れない。
 だが俺の脳裏に過ぎったのは、指輪をオーダーする時に美丈夫が言っていた指輪の材質やオプションだ。
(プラチナが!裏に埋め込まれたダイヤが!道路のゴミになるだと!?)
 しかもオーダーメイドということは、その分の特別料金も含まれているはずだ。一体あの指輪で何万、いや何十万かも知れない、飛んだことか。
(それをこのまま捨てるなんて有り得んじゃろう!)
 諭吉が脳内で羽を生やして飛んでいく。むざむざそれを見逃すなんて俺には出来ない。
「良くないでしょう」
「上総さん?」
「輝大さんが責任を持って丁寧に、思いを込めてお作りになった物が、このまま捨てられていいわけがないと思います。放っておけない」
 せっかく作ったのに勿体ない!プラチナもダイヤも勿体ない!食べ物じゃないんだから落ちたくらい何だというのか!
 そんな叫びをそのまま喋るにはあまりにも大人として品性に欠けるので、割と耳障りの良い言葉に置き換えた。
 事実輝大さんの努力と時間が捨てられるというのは、やはり忍びない。
「でもあの交通量では探すのは無理です」
「今じゃなくても、夜中なら車の数も減ります。黎明近くならもっと減る」
 いくら交通量が多い道路だと言っても国道でも高速道路でもない。夜になればここを通る車の数も減る。特に夜明け前などは車がいないことだろう。
「探すおつもりですか?」
「いけませんか?」
 渋る美丈夫に首を傾げた。もし美丈夫が反対すれば、捜索は難しいだろう。俺が探そうとしても家から出しませんよと言われれば、おそらく見張りでも付けて俺を出勤時間まで閉じ込められるはずだ。
「簡単ではありませんよ。あの人の尻ぬぐいなどしなくても良いと思いますが」
「尻ぬぐいではなく、何というか、勿体ないというか、せっかく作ったのに」
 せっかく出来上がったのに、という憐れみだ。
 自分の指に入れたいとは思わないけれど、大切に作られた物が無残な扱いをされているというのはどうにも尻の据わりが悪い。
 それにあの指輪を見捨てても、新しい指輪が来るだけだ。きっと美丈夫は俺に指輪を贈るという目的をぶれさせることはないだろう。
 ならば輝大に何度も同じ物を作らせなくとも良いのではないか。
「……分かりました」
「誉君!?」
「やりましょう。俺も輝大さんが作ってくれた指輪があのままゴミになるのは、やはり勿体ないと思います」
 美丈夫はそれまでの不機嫌そうな様子を薄めて腕組みを解いた。機嫌は良くなったのかと少しばかり胸を撫で下ろしていると、不意に口角を上げる。
「それにどんな経緯があったとしても、上総さんが指輪を求めたことに違いはない」
 その一言になんとなく寒気が走った。



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