美丈夫の嫁4 7





 休日に大型ショッピングモールの東館と西館を繋いでいる中央通路を歩いていた。通路は館内にはなく、一端外に出るような形になっている。
 通路の両サイドの壁は俺の胸の位置くらいの高さまでしかない。周囲の景色が眺められるようになっているのだ。そして見応えのあるような光景だとは思わないのだが、開放感は得られることだろう。
 空調の効いた館内から出てくると湿気を帯びた高い温度の空気に包まれて、暑さが押し寄せる。
 うんざりとしながら歩いていると、向かい側からヒールの音を響かせてやってくる女がいた。俺はその人を見るつもりはなかった。そんな音を立てる女性は自分には関係のない人だと思ったからだ。
 だが女は俺の間近で立ち止まった。不意に靴音が止んで俺は自然と視線を向けた。
「こんにちは」
 そこは水色のワンピースを着た美輝さんがいた。挑戦的な微笑みと睨み付けて来る瞳。明らかに俺に敵意を剥き出しにしていた。
(どうしてここに?)
 あの宝石店からこのショッピングモールまではかなり離れている。だが女性ならばこういう大型ショッピングモールは好んで訪れるものかも知れない。
 たまたま出会したという考え方は、可能といえば可能なのだろう。
「こんにちは。奇遇ですね」
 威圧感を漂わせる人に、無難な挨拶を返す。すると美輝さんは少し馬鹿にしたように鼻で笑った。
「待ち伏せしてましたから」
「そうですか」
 やはりそういう意図を持ってここに来たのか。
 人を待ち伏せするなんて、そんな面倒なことをよくやるものだ。
 内心呆れていると、美輝さんは肩にかけていた鞄から何やら取り出そうとした。物騒な物でも出てくるのではないかと身構えたのだが、出て来たのは掌に収まりそうなほど小さな箱だ。
「誉さんとの婚約指輪が出来上がりました」
「……そう、ですか」
 わざわざそのために?という疑問が顔に出ただろうに、美輝さんは気にしないようだった。それどころか箱の蓋を開けて見せてくる。
「ご確認下さい」
(何故、ここで?)
 店に呼び出すのでは駄目なのか。もしくは蔭杜家まで持ってくるのでは、問題があったのだろうか。
 むしろ美輝さんが持って来て俺に見せることの方が色々誓約書とかの面で支障が出る気がする。大体、どうしてショッピングモールの通路なのか。
 俺の当惑など構わず美輝さんはベルベットの台に飾られている指輪を俺に見せてきた。サンプルとして俺がはめた指輪に酷似した、そのものと言われても分からないだろう指輪がそこにある。
 緩く波打った表面が光の反射できらりと輝いた。シルバーで作られたものよりも滑らかで水面のような輝きがあるように思えたのは思い込みだろうか。
「誉さんの分がありませんね」
「必要ではありませんので。誉さんはここにはいらっしゃらない」
 揃いで作られているはずの美丈夫の分がそこにはない。俺の分だけを確認させるつもりで持って来なかったのか。そもそも別々に確認をさせるなんて時間の無駄だが。美丈夫ならば本当に揃いであるのかどうか、二つ一緒に見せてくれと言い出しそうなものだ。
「私だけ試しても……誉さんも確認を求めると思います。二度手間では?」
「いえ、これでいいんです」
 美輝さんは俺の問いかけに笑っている。先入観があるせいだろうか、この人が笑っていると嫌な予感がする。
 何か企んでいるのではないかと思ってしまうのだ。
「確かにご依頼の品ですね?」
「……そうだと思いますが」
 念を押してくる人に、記憶の中にある自分が選んだサンプル品と合致していることを確かめた。俺が首肯したのを見ると美輝さんはリングケースから指輪を引き抜いた。
 何をするのかと思っていると、通路の端へと手を伸ばした。元々中央通路の端を歩いていたおかげで、腕を伸ばせば通路から外側へと指先が出て行く。
 そして中央通路の下は、かなり大きな幅を持つ道路だった。
(え、まさか)
 俺の目の前で、美輝さんは指輪を指先で軽く弾いて落下させた。ピンっと軽い音を鳴らしたかと思うと、指輪は呆気なく落下していく。
 どこに落ちたのか、確認するような心の余裕はなかった。ただ美輝さんがそんなことをしたのが信じられなくて、呆然と立ち尽くしていただけだ。
(この下……相当な交通量じゃぞ)
 スクランブル交差点の直前であり、車の停止線より少し前だ。そのため落下した指輪が車上に落ちた可能性は低いだろう。
 現在信号が歩行者専用になっているようで、車の排気音は大人しいが数秒後にはけたたましいエンジン音が始まる。
 脳内では指輪がアスファルトの道路に落ちた硬質の音が聞こえたが、実際には様々な雑音に掻き消されている。
(……すごいことをしたな)
 美輝さんを見ると勝ち誇ったような目で俺を見ていた。
「どうしたんですか?拾いに行かないんですか?」
 美輝さんの挑発を待っていたように、足下からは車が駆け出したエンジン音が上がって来る。幾つもの車が行き交っているのだろう道路のどこかに、あの指輪は落ちているはずだ。
「歩行者が渡っている少しの間なら車も止まっていますし、探すことも出来ますよ。まあ、その短い時間で見付けられるとも思えませんし、周りからは頭のおかしい人に見えるでしょうけど」
「貴方は自分が何をしたのか分かっているんですか?」
「分かっています。ですが、誉さんの婚約指輪を他人がはめるなんて到底許せません。そんな物はこの世に存在しない方がましです。それに、貴方はあの指輪がそんなに欲しそうでもなかったようですし」
 よく見ているものだ。
(誰から見ても分かるくらい、俺はドン引きした顔で指輪を見ておったんじゃろうか)
 もしそうだとすれば美丈夫に悪いことをしたものだ。
「本当はいらないんでしょう?だから私が代わりに処分しただけです。いけませんか?」
 憤怒の混じった叩き付けるような口調で喋る美輝さんに、俺は憂鬱なものが込み上げてきた。
 激情家で、一度走り出すと周りが見えないというのは本当であるらしい。
「貴方にとってあれは、誉さんの嫁の婚約指輪。ただそれだけの物ですか?」
「そのために作られましたから。あんな物、私の物にならないならいらないでしょう!?しかもそれをうちで作るなんて酷いじゃない!私への当てつけ!?」
「それは貴方のお兄さんのためを思っての依頼です」
「兄も兄です!私の気持ちを知ってるくせに!どうしてこんなことするんですか!?なんで邪魔をするの!?私はあの人のためにずっと頑張って来たんです!求められるだろうものも全て身に着けてきた!」
 美輝さんはその場で自分の胸に手を置いては俺に不当性を訴えている。
 その気の強さが美丈夫にとっては致命的なのだと、本人の口から聞いているはずなのだが、そこは改めないのか。都合の悪いところは頭には入っていないのか。
「なんでいきなり出て来た貴方なんですか!?男のくせに!何もないくせに!」
 何もないからこそ選ばれたのだと、美輝さんは分からないのだ。
 持っていてはいけなかった。欲も無駄なプライドもなかったからこその嫁だ。大体男の嫁だなんて、自分や周りに対して様々なこだわりを持っていたならば易々となれるようなものではないだろう。
「今だってそうしてぼーっと突っ立ってるだけ!何考えてんのよ!自分の指輪が捨てられたのよ!?怒りも慌てもしないなんてどうかしてる!!」
 おまえはおかしいと面と向かって言われたが、俺は肩をすくめて苦笑した。
「私の手に渡っていません。まだ私の物になっていないものが捨てられたところで、知ったことではありませんが?」
「は?」
「受領していない物に責任は発生しない」
 婚約指輪に関して、それは依頼したものであるという発言はしたけれど受け取ったという意思は示していない。手に取ってもいない、確認ですらちらりと少し離れた場所から見たくらいだ。
「これはあくまでも貴方が、御社の商品を勝手に捨てたというだけの話です。私が関与するところですか?」
 俺はただの目撃者だ。俺が婚約指輪を自分の手で捨てた、もしくは美輝さんに捨ててくれと指示したのならばともかく、俺は何もしていない上に何も言っていない。
 それに依頼者は美丈夫なので、本来ならば俺がその指輪を受け取る権利もないだろう。
 最初は美丈夫の手に渡されるべきだ。
「何それ……そんな考え方なの!?自分の物だって思えないわけ!?」
「思えません。言い換えればそれはまだ貴方たちの物だ。貴方のお兄さんの物」
 指輪のデザインを相談していた時の輝大さんの顔を思い出すと可哀相という気持ちばかりが浮かんでくる。
「貴方のお兄さんは大切に、丁寧に作ると仰っていた。実際蔭杜の中にいる人にとって今回の依頼は重要な意味を持つものです。彼にとっては人生を左右するものだったかも知れない。それを貴方は捨ててしまった」
 美輝さんは俺が淡々と語っていることに、勢いをそがれていくようだった。よく見るとまだ幼さが滲んでいる顔立ちだ。美丈夫と年は変わりないと言っていたのでせいぜい二十歳前後、まだ物事の分別が付きにくく、後先考えずに突っ走ってしまう年頃なのだろう。
「いいんですか?そんな簡単にお兄さんの人生を投げてしまって。こんなことになったので、貴方の店とはもう関わりたくないと言われれば、かなりの問題になると思いますが」
 追い詰めていくと美輝さんは青ざめて小さくなっていく。ようやく自分のしでかしことに気が付いたらしいが、すでに遅い。
 それでも自分が何をしたのかということは、ちゃんと教えなければいけないだろう。
「少なくとも、時間と熱意を込めて必死に作っただろうあの指輪は、こんな扱いをしてもいい物じゃなかったでしょう。お兄さんの今後の人生と、決意と、願いが託されていたはずだ。俺にとってはいくらでもやり直しが利く、他の人に頼むことも容易なことです。でもお兄さんにとっては唯一だったはずです」
 美丈夫は輝大さんに作って貰いたいと思っていたようだが、こういうことがあったと知れば他の人間に依頼することも視野に入れるだろう。
 完成した途端に捨てられると分かっているのならば、最初から頼まない。
 美輝さんは怯えながら、ちらりと通路の下を見ようとした。だが道路を覗き込んだところであの小さな指輪が見付かるわけがないのだ。この中央通路は二階に設置されているとは言っても一階の高さはかなりゆとりを持って作られている。
 美輝さんが道路に気を取られている間に、鞄からスマートフォンを取り出した。美丈夫に電話をかけるとすぐに繋がる。あの人は今日大学があるはずだが、休憩時間だったのだろうか。
『もしもし、どうかされましたか?』
「輝大さんの妹さんに出会ったんじゃが」
『すぐに向かいます。今どちらにいらっしゃいますか?』
 美丈夫の声が一気に緊迫感を増した。絶対に良くないことが起こると確信しているようだが、実際すでに問題が発生した後だった。
 ショッピングモールの中央通路にいると言うと電話口の向こうから雑音が聞こえてくる。
(この人走っておらんか?)
 風を切るような音や人々の話声などが流れて行くようだった。可能ならば来て欲しい、この状況をなんとかして欲しいという気持ちはあるのだが、そこまで慌てなくても良いだろうにとも思う。
『すぐに行きますので、どうか距離を取って、出来れば逃げて下さい』
「いや、その必要はないかと」
『用心して下さい。女は恐ろしいですよ』
 逃げて下さいとは穏やかではないと思ったけれど、女は恐ろしいと言う美丈夫の声音には実感が籠もっていた。
(苦労が忍ばれるな)
 そしてその苦労の一つが、今揺れる眼差しで道路を見下ろしている女なのだろう。


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