美丈夫の嫁4 6 うなだれる輝大さんに、美丈夫はお茶を一口飲んでから「さて」と声をかけた。 「妹さんの件はひとまず置いて下さい。サンプルを見せて頂いて良いですか?」 「そうでした。ご確認下さい」 輝大さんは持って来たアタッシュケースから黒い箱を取り出す。四隅に金色の装飾が施された細長いそれは蓋を開けるとリングが六本差し込まれていた。真ん中に二つずつ、三段に分けているところからして三種類のリングを持って来たのだろう。 「ストレート、ウェーブ、つや消しの三種類をご用意しています。サンプルはシルバーで作り、裏に埋め込んでいます誕生石はジルコンで代用しています。どうぞはめてみて下さい」 サンプルもプラチナで作られていたらどうしようかと思ったのだが、シルバーで制作したらしい。しかしシルバーとジルコンであったとしても、わざわざサンプルを作ること自体経費と時間、手間がかかることだ。 (それだけ気合いが入った依頼なんだろう) 美丈夫は金額は全く気にしていない、良い物であるならばどれほどの額が付けられても構わないとあっさりと言い放っていた。俺からしてみれば耳を疑うような発言だったのだが、本人は当たり前だというような顔だったので、彼の中ではごく自然な決断なのだろう。 美丈夫は一番上の段、ストレートと紹介されたリングの左側を取っては躊躇いなく左手の薬指にはめた。 この人は婚約指輪に何の抵抗もない。そう知っていながらも、見ていて複雑な気持ちになる。そんなに簡単に俺とおそろいになる指輪なんてはめて良いのか。 「上総さん……」 硬直している俺を見て、美丈夫が多少声を低くして呼びかけてくる。早くはめてみろということなのだろう。 抗いは認められるわけもなく、恐る恐るリングを取っては美丈夫と同じように左手の薬指にはめた。自分の指にリングがはめられているということ自体に違和感が強い。 真っ直ぐなデザインのリングは本当に結婚指輪のように見えた。 (……ああ、重い) 溜息が出て来そうだ。出せば美丈夫に失礼になるので我慢はするけれど。 「どうですか?」 「サイズはぴったりです」 「上総さんならこっちのほうが似合いそうよ?」 環さんが二段目の、表面が緩く波打っているものを勧めてくる。リングの些細な違いで、その人にとって似合う似合わないがあるものなのだろうか。 疑問に思いながらも、どうせ付けなければいけないものだと思い腹をくくって二本目をはめる。 「うん、俺もこっちが似合っている気がします」 「でしょう?」 「そうですね。そのデザインは指がしなやかに見えるタイプで、人気があるものですよ」 輝大さんの説明に「やっぱり!」と環さんは納得しているようだった。俺は自分の指を眺めながら、ストレートとの違いを感じることもなく「はあ」と曖昧な返事をしていた。 外して裏を見てみるとちゃんとジルコンが入っていて、本物はこれがダイヤになるのかと思うと今から頭が痛い。 「婚約指輪じゃなくて結婚指輪みたいよね」 俺たちの間ではすでに禁句のようになっていることを、環さんがさらりと口にした。婚約でも重たいのに、結婚なんてまして重量感がある。 「常に身につけて欲しいからシンプルな物にしたんだ」 「外すなってことね」 弟の説明に、姉は非情な解釈を付けた。正直俺も思っていたことだが、飲もうとしたお茶を吹き出してしまうところだった。 「そういうわけじゃないけど、外すならちゃんと理由をつけて欲しいという部分はある」 (そもそも付けないという理由を一切認めないという強固な意志が見えるんじゃが?) 俺はまだつけることを快諾した覚えはないのだが。 「私の婚約指輪は眠ったままだわ」 「環さんの婚約指輪はすごそうですね」 蔭杜の当主の婚約指輪なんて、何カラットのダイヤがはめ込まれたリングなのだろうか。あの環さんの旦那がどれほどの物を用意したのか、純粋に気になった。 並大抵の物では認められなかったことだろう。 「そんなことないわよ〜」 「義兄さんが踏ん張ろうとしたのを止めたからね」 「だってあの人、私に贈るからって出来るだけ豪華に、大きなダイヤにするつもりだったらしくて」 環さんにとって大きなダイヤに興味はあんまりないようだった。 (そりゃ、人に買って貰わなくても自分でいくらでも買えるだろうしな) 女性にとって婚約指輪は大切なものであり、ダイヤの大きさで自分が愛されているかどうかを計る人もいるというが。この人の場合、そんなもので計られるのならばどれほどの金を持っていたとしても購えるかどうか分からないサイズのダイヤになることだろう。 「給料三ヶ月を超えそうだったんですか?」 「貯金全部を使ってもいいと思ってたらしくて。それを聞いた時に止めたわ。私の指って細いからそんな大きなダイヤ付けられても邪魔なだけなのに」 ああ、ダイヤが邪魔だなんて台詞。世の女性ならば口が裂けても言えないようなものではないだろうか。 「可愛くてシンプルな物にして欲しい。金額なんてどうでもいいから、私に似合う物を選んでってお願いしたの」 環さんは上機嫌に語ってくれる。夫とのことを話す時の環さんは基本的に穏やかで嬉しそうだ。夫婦仲がとても良いのだろう。 きっとその婚約指輪も気に入っていることだろう。 「上総さんはどれが良いですか?」 最後のつや消しのリングをはめた俺に、美丈夫が尋ねてくる。微かな反応も見逃すまいと食い入るように見詰めて来る視線がとても痛い。 どれが気に入るも何もない。ただ事務的にはめているだけだと、見透かされているのかも知れない。 「………誉さんは、どれが良い?」 俺の意見などないので、美丈夫に問いかけをそのまま返した。会話のやり方としては質問を質問で返してはいけないと知りながらも、苦し紛れに逃げるしかなかった。 「俺は上総さんに従います」 (俺より先に逃げよった!) 美丈夫は完全に俺に決定権を寄越して来た。おそらくこの男は俺に指輪をはめさせることが目的であり、デザインなどは二の次なのだろう。 そして俺が指輪のデザインを選んだ、という能動的な行為をした実感を持たせる意図もあるはずだ。ちゃんと自分で選んだのだから、毎日身につけるようにという無言の圧力もこれから襲いかかってくるだろう。 (どれって…………) はめていたつや消しのリングを外して、元のリングケースに戻す。三種類を見下ろしても、これといって選択肢が出てくるわけではない。 三人とも黙ってしまい、静寂だけが流れて行く。 俺の答えを待つ時間がだんだん耐えられなくなって、俺は一つのリングを指した。 「波を打っているやつ、でしょうか」 それは美丈夫と環さんが勧めてきた物だ。彼らが勧めてくるのだから、俺にはそれが似合っているのだろう。デザインも見ていて綺麗なものなので、不満も何もない。 「はい。これですね」 輝大さんは自分が選ばれたように嬉しそうに頷いた。 きっとこの人は丁寧に熱意を込めて本物のプラチナリングを作ってくれることだろう。だがその気持ちに見合っただけのものを俺は何も持っていない。 それどころか指にはめるのではなく、せめて首からぶら下げるくらいで許して貰えないだろうかと思っている有様だ。 (言えんな………) 母親が蔭杜の人に俺は過去に彼女がいたという話をしていた、ということは志摩にも伝えた。志摩も同じ目に遭っているはずだからだ。 俺たちの個人情報はすでにあらかた漏洩されているものだと覚悟しろ、という忠告に志摩は母親への怒りを露わにしていた。 また一つ母親との確執が深まっただろうが、仕方がない。それに母親ならばやっていてもおかしくないという考えが志摩にもあるはずだ。 電話口で怒り、嘆き、仕舞いにはそれとは関係のない愚痴まで言い始めた志摩を、俺は休みの日に連れ出した。 たまには一緒に外食でもしてガス抜きをさせた方がいいと思ったのだ。一人暮らしには慣れて来ているようだが、それでも不自由さと寂しさはあるらしい。まして俺も実家も近所にあるというのに、一緒に暮らしていないという事実には思うところがあるらしい。 最近出来たばかりで話題になっているカフェがあるからそこに行きたいと言われて、足を運んだ先はこの前車で美丈夫と共に行った場所だった。 中は落ち着いた内装で女性が好きそうなおしゃれなカフェだったので、少し居心地が悪かったものだが、近所では注目されているカフェであったらしい。 まさかあの人はそんな情報までチェックしているのだろうか。 深く考えると怖くなってくるのでたまたまだということにして、一つだけ空いていた席に座る。話題だというだけあって、平日で昼にはまだ少し早い時間帯だというのに席はほぼ埋まっていた。 店内には女性が多く、前回来た時は美丈夫に視線が集中して胃が痛くなったのを思い出した。 貴方たちが注目し、あわよくばお近づきになりたいと思っているだろう男の婚約者は目の前に座っている冴えない凡庸な人間、しかも男です。その上美丈夫は俺に肉欲まであるらしいです、未だにお肉大好きな意味だと言ってくれないかと願っています、とは誰にも言えなかった。 そんなことを思い出しながら、二人してパスタランチを注文した。志摩と一緒でなければ外食などしないし、ましてパスタなど食べないだろうなと思う。 「指輪というのは、女性にとっては特別な物なんじゃろうな」 「そうだね」 前菜のサラダを食べる志摩にそう語りかけると、志摩はさも当然という顔をしていた。 「この前家に宝飾店のデザイナーが来て、環さんが楽しそうにあれこれ選んでいらっしゃった。新しいデザインリングはこういうのがいいかな、あれでもいいなと色々選んでは周りに意見を求めてて」 「お金持ちは指輪もぽんぽん買えるんだろうね」 蔭杜にあまり良い印象がない志摩が拗ねるようにそう言う。環さんことは嫌いではないらしいのだが、好きになれるかどうかは分からない少し苦手であるらしい。あの押しの強さが問題だろう。 「お兄ちゃんもそこにいたんだ。指輪とか興味ないのに?」 「ああ、何せ俺の婚約指輪を作るという話じゃったからな」 「はあ!?」 志摩の素っ頓狂な声が上がるが店内はそれなりにざわついているので目立ちはしなかった。けれど声量も気にせずに驚愕の声を上げてしまった気持ちはよく分かる。 「婚約指輪を作ると誉さんが言い出してな」 「え、婚約指輪ってあのダイヤがどーんって付いているやつでしょ?」 「いや、ずっと付けて貰いたいからって飾りの付いていないシンプルなやつを」 「結婚指輪みたいなの?」 「そう」 「重っ!」 嫌だ!という感情を全面に押し出した志摩を見て「俺と同じ感性だ」と妙に納得してしまった。血の繋がり故か育ってきた環境が同じであるせいか。考えが俺とそっくりだ。 「仕事中も付けて欲しいらしい。外さなくていいようにシンプルなやつにしたからって言われてな」 「それって誉さんもペアで付けてるってことだよね?」 「つける。虫除けにしたいからってな」 「それは分かるよ。分かるけどさ、お兄ちゃんまで付けるの?」 「ああ。ひたすらにそれにこだわっておった。しかもその指輪の裏に誕生石を埋め込んでお守り代わりにもすると」 「誕生石ってダイヤじゃん!」 「そうじゃな」 「重過ぎ!婚約指輪って言うけど実質首輪みたい!」 「俺と同じことを思うなおまえは」 「だって兄妹だし」 まあな、と感性の一致を体感しているとパスタが運ばれて来た。しかしパスタというものはどうしてやたらデカイ皿の真ん中に小さなくぼみを作り、その中にちんまりとパスタを盛るのだろう。 それだけの量しかないのならば、もっと小さな皿に盛ってくれても良いと思うのだが。 「婚約指輪を作るという話になった時、まずは宝飾店に行ったんじゃ。デザイナーが誉さんと子どもの頃から面識があったそうで仲良く喋っておったんじゃが。そこの妹が出て来てな。家族経営の店で父親がオーナーだから、妹がお茶出しに来てもおかしくはなかったんじゃが、お茶を出した後に、私ならそのデザインの指輪が似合うと思いますって誉さんに言って」 「え、どういうこと?」 トマトクリームのパスタを食べようとしていた志摩の手が止まる。俺でもどういうこと?と言いたくなるような話の流れだ。 「どうやら誉さんにずっと懸想をしておるらしい。蔭杜の財産も地位も関係なく本気で惚れ込んどるようでな。何を言っても諦めんのじゃと」 「まあ……あの顔だったらそういう人もいるんじゃない?」 「俺と誉さんには接近せんように誓約書を交わしておるようじゃが、俺たちがあちら行った場合はノーカンだと判断されたようでな」 「なるほどねー」 「いきなり誉さんを口説くもんじゃからぽかんとしたわい」 「それで、誉さんは?」 「貴方のそういう強引なところが蔭杜には相応しくないとばっさり切り捨てた」 「ああ……冷たいあれね」 「冷たいそれじゃ」 美丈夫は敵だと判断した相手には容赦がない。それは志摩に迷惑をかけた連中がどうなったのか、という結果を見れば明らかなことだった。冷酷とも言える速さと決断に志摩と二人で内心危機感を覚えたものだ。 「相手はめげなかったけどな」 「鋼鉄の心か」 「それぐらいの度胸がなけりゃ誉さんに何度もアタックなんぞ出来んじゃろう」 「確かにね〜。それでお兄ちゃんは大丈夫だったの?」 「睨まれた程度じゃ。俺なんぞ眼中にないのかも知れんな。誉さんに夢中だったし、それからすぐにデザイナーの兄と大喧嘩を始めたからな。誉さんに迷惑をかけるなとお冠じゃ。粗相があれば家業が潰れかねんからな」 「それでもその妹は諦めないんだ」 「人の言うことは聞かんらしい。兄はお気の毒というところじゃな。どこの妹も我が儘が過ぎる」 「そういうものよ」 志摩はまるで他人事のようにさらりと告げてはフォークにパスタを絡めている。俺が美丈夫に返した言葉と全く同じものを口にする妹につい小さく笑ってしまった。 「指輪が出来たらずっとはめておくの?」 「俺は首からぶら下げたいんじゃが……」 「それが無難よね」 「だが誉さんに却下された。見えてなくては意味がないらしい。俺の虫除けにするからと」 「寄って来る虫がどれだけいると思ってんの?」 何言ってるの?と言わんばかりの反応に、俺は妹の手を握り締めて「そうだろう!?」と叫びたくなった。食事中でなければおそらくそうしていただろう。 「それ!それじゃ!おまえからも言うてくれ!寄って来る虫なぞおらんと!」 「あ、でもあれだ。彼女がいた過去があるから言っても聞かないんでしょ」 「まさにそれじゃ!!」 状況の説明を詳しくしなくても察してくれるのが血縁者の良さだと思う。そして志摩は自分で導き出した答えに少し引いているようだった。 「誉さんってさ……かなり重いよね。お兄ちゃん簡単に逃げられるって言ってたけど。怪しくなってない?」 志摩の指摘に俺は黙り込んでしまった。 以前ならば大丈夫と何の根拠もなく言えたのだが、美丈夫からはっきり告白をされた上にキスだのハグだの許可を求めてくる姿勢。そして婚約指輪にあまりにも本気を出しているところが、俺の逃走を悉く潰そうとしているのではないかと疑いが沸いてきた。 この人は、俺を逃がすつもりはないのではないか。 その考えは、実のところ頭の中でちらつくのだが怖くてまだ真剣に思案していなかった。 「いつかは、飽きて、簡単に離れられるじゃろ………」 たぶん、と付けると志摩は複雑そうな目で俺を見て来た。 next |