美丈夫の嫁4 2 「目に見える繋がりが欲しいという俺の気持ちを、汲んでは頂けませんか?」 黙り込んでしまった俺に、美丈夫は眉尻を下げては弱ったように問うてくる。 捨てられる犬のような、同情と憐憫をこれでもかというほど掻き立てる表情から目を逸らす。直視していれば首を縦に振ってしまいそうだからだ。 (これは、いくらなんでも流されて頷くわけにはいかんじゃろ) 職場での自分の立場というものが、と理性がぎりぎり悲鳴を上げている。 「貴方と結婚しているということは俺にとって周りへの警告になっています。上総さんを迎えてから、見合いだの何だのという誘いは激減しました。無駄に寄って来る女どもはかなり排除出来ます。その効果を上総さんにも共有して欲しいんです」 「共有と言われても、俺にはそんな虫除けは必要ないんじゃが。これまで言い寄って来た女なぞ」 「付き合ってきた女性がいるでしょう?」 美丈夫は俺に最後まで言わせることなく、かつて彼女がいたことを指摘してくる。 視線を戻すと正面には、嘘偽りは認めないとばかりに真顔になっている美丈夫がいた。普段微笑んでいることが多いせいか、そうして表情が乏しくなると妙に怖い。 「……調べたのか?」 まさか蔭杜は俺の身辺調査を完全にやってのけたのか。 (仮にも美丈夫の嫁にしようとするなら、俺の調査くらいやってもおかしくないが) 学生時代女性と付き合ったことのある過去まで、いちいち美丈夫に知らせるようなことだろうか。 「お義母様に窺いました」 「あの人は…………」 どうせ母のことだ。蔭杜の人に訊かれれば、どんなことだってぺらぺら喋るだろう。まして俺のことだ。自分の都合の悪い話でもないのだから、きっと何も考えずに何もかも教えたに違いない。 「心配なんです」 「ご自身の心配をなさるべきじゃろ」 「俺はもう自分の周りはすでに整理してます」 まるで物を片付けるような口調だ。部屋の整理整頓と人間関係は違うだろうに、どうにも事務的な空気が漂っていた。 由緒正しき家柄の人は、人間関係も冷静に継ぎ接ぎされるものなのだろうか。 (指輪というのも、その継ぎ接ぎの材料なのじゃろう) きっと利用出来る物があるなら使うまで、という精神だ。 「指輪が欲しいという気持ちも分からんではないが、それなら俺はチェーンに通して首からぶら下げるというのはどうじゃろう」 それならば仕事中はワイシャツの下に隠れて見えない。一応付けているので、美丈夫の要望にも応えている形になる。 俺は最良だと思ったのだが、美丈夫は苦笑した。 「見えなければ意味がありません」 「即座に切り捨てよったな。見せびらかすような真似はしたくないんじゃが」 「見せるための婚約指輪です」 平行線を行く話に、どうにも憂鬱が増していく。 婚約を公にして声高に主張したいらしい美丈夫と、出来るだけ穏便に覆い隠していたい俺。そもそもこの手の話題に関して妥協点を見付けるのは非常に難しい。 おそらく一分ほど沈黙していただろう。美丈夫は致し方ないと言うように「実は」と話を切り替えた。 「正直に言いますと、婚約指輪をお願いしようと思っているのは蔭杜の縁者です。宝石店を営んでいる家の一つで、その店の嫡男が俺の友人なんです。俺より年は少し上で、職人としての腕を磨いています。俺の目からして良い物を作っている人で、俺たちの指輪を作って貰い今後の発展に生かして貰いたいと思っています」 「ああ……なるほど」 婚約指輪が欲しいというのは、何も感情面の問題ではないらしい。 自分の友人の経験と、おそらく名前を挙げるために自分の婚約指輪を利用したいのだ。 ビジネスの思惑を伝えられて腑に落ちた。 「彼は父親との折り合いがここのところ悪く、独立を目指したいそうなのですが。先々代から受け継がれているあの店を手ぶらで離れることにも抵抗があり、独り立ちしてやっていけるのかどうか不安を消せずにいます。信頼出来る仲間を集めて経営面での土台作りや準備はしているようなのですが」 「そんな相手に自信を付けて貰いたいと」 「そうですね。それと父親を黙らせたいということもあります。独立しても向こうが何か手を出してくると呆気なく潰れますから。波風を立てずに店から出たい。そのためのきっかけ作りです」 「そうか……」 その友人に一旗揚げさせるために、婚約指輪なんてものを利用したい。そう説明されて不思議なほど心が落ち着いた。 蔭杜と関わってから、自分が踏み台にされるのは慣れている。むしろそのために存在しているのだから、最初からこういう理由なのだと教えてくれれば、多少は諦めもついただろう。 (こんなところで俺を気遣わなくても良いのに) 「しかし、常時指にはめておくというのは、やはり俺にとっては抵抗感がある。仕事中には外させて欲しい」 「外す時がある婚約指輪なんて危険な物じゃありませんか」 美丈夫はにっこりと、今日一番の笑顔を見せてくれた。ぱっと見るだけならば機嫌が良さそうなのに、正面にいると異常な威圧感が漂ってくる。 「指輪を外す時は、浮気や不倫の場合だと聞いています」 「俺にはそんなもんはありゃせんわ」 「はい、信頼しています」 浮気も何も、美丈夫が側にいる状態で出来るようなものではないだろう。 家に帰ればこの顔が俺が出迎えるのだ。どんな美女に言い寄られたとしても、この男の元に戻れば美女も何も全部吹き飛んでしまう。 それほど、美丈夫の顔というのは破壊力が強い。 その上、信頼していますと言いながら俺に向けてくる眼差しの鋭いこと。心臓にまで突き刺さっては、その言葉にもし反した場合どうなるか分かっているのかという脅しのようなものが漂ってくる。 「望まれてもせんぞ」 美丈夫が浮気をしても何とも思わない。俺のことを好きだと言っていることがまず間違いなのだと思っているので、女性とお付き合いを始めたところで「真っ当な思考に戻ったのだな」と思うくらいだ。 かりそめの嫁の役目はどこまで続けるのだろうかという疑問はあるだろうが、美丈夫の精神状態などの心配はきっとしない。 だが俺は美丈夫にしても良い、むしろやれと女をあてがわれても断るだろう。 そんなことをしてもし蔭杜の親戚たちに糾弾をされた時には逃げ場がない。自ら窮地に突進していくような馬鹿な真似は出来ない。 美丈夫は俺の返答に納得はするのか、頷いてまた一口茶を飲んだ。 沈黙が再び訪れるのだろうかと思っていると、美丈夫は真剣な眼差しで俺を見る。 「上総さん、キスしてもいいですか?」 「はい?」 「キスをしたいのですが」 聞き返すと律儀に言い直してくれる人に、俺は言葉に詰まった。 肉欲を抱いていると告白されてから、美丈夫は唐突に俺に対してキスなどの許可を求めるようになった。無断で強引に接触はしないと約束したからなのだろうが。面と向かってキスがしたい、抱き締めたい、と言われて平然と許せる度胸など俺にはない。 自分に性的な興奮を覚えるらしい、ということは未だに信じていない。美丈夫の嘘、からかいだと思っているのだが。だからといって真剣な顔でキスを求められて、もし本気でキスをされたら、その時にどうしていいのか分からない。 嫌悪を抱くのか、照れるのか、恥ずかしいと逃げたくなるのか、それとも全く別の感情が生まれてくるのか。 答えを知るのが恐ろしくなって、いつも固まってしまう。 だが「嫌だ」と言って美丈夫が傷付くのも、怖いのだ。もしここで悲しそうな顔をされたら、俺はそれはそれで罪悪感に苛まれるのだろう。 仮にも嫁という立場なのだから、同性であったとしてもキスくらいは受け入れるべきなのではないか。それくらいは嫁の義務に入るのではないかと悩む。 どんな返事も出来ず、ただ葛藤している俺を美丈夫は眺めているようだった。 自分たちの関係を手探りで確認しているようだ。 「頬でいいです」 唸り声を出してしまいそうなくらい悩んでいると、美丈夫が妥協案を出してくる。それはよく聞くことで、俺はいつも唇と頬を比べて「それなら」と言ってしまうのだ。 唇は特別な気がするけれど、頬なら親愛と考えても良いはずだ。外国人は親しい間柄には頬にキスくらいする。 (一応、俺たちは親しいはずじゃから) だから頬は大丈夫。 そう思ってこくりと首を縦に振った。 美丈夫は「良かった」と言って立ち上がった。 (良かったって顔じゃない……) 残念そうな瞳で、淡く笑んでいる。それは明らかに唇を望んでいたものであり、俺に対しての落胆が滲んでいる。 座卓を回って俺のすぐ隣に来た美丈夫は、キスをされる覚悟で全身を緊張させている俺の頬に唇を接触させる。 柔らかく熱いその感触に、鼓動が早くなった。 吐息が肌にかかっては、まるで撫でてくるかのようだ。 (これは何の試練なんだ……) 美丈夫から時折与えられる接触の申請と、その結果は俺を掻き乱してくる。平穏に生きていきたいと祈る俺にとって、それは頭の痛い問題だった。 next |