美丈夫の嫁4 1





 小鳥が鳴く声が窓の外から聞こえてくる。ふと顔を上げて窓の外を見れば瑞々しい緑が目を潤してくれる。夏の勢いを感じる生き生きとした青紅葉だ。盛りはやはり秋なのだろうが、その青さはすがすがしく見ていて心が晴れる。
 活字を追っていた瞳孔が映すには眩しすぎるそれに、一瞬目を細める。しかしすぐに慣れてはほうと息を吐いた。
 畳の香りに包まれ、本を閉じる。常ならば障子を閉めている窓なのだが、夏の風を取り込むために現在は開けられている。蔭杜の見事な庭を眺められるように、客間の窓は大きい。時間によっては陽光が差し込んでは随分明るい空間になる。座椅子に背中を預けて、なんとなく室内を見渡した。
 果たして使われる頻度はいかほどかと思われる客間だ。俺がここに来て、この客間が使われたことは片手で数えるほどしかない。しかも大抵は蔭杜の方であり、母屋で十分だろうというような状況だ。
 美丈夫に会いたい人ならば母屋の方が都合が良いはず。ここに俺を訪ねてくる者はいないので、この客間は正直持て余している。
 にも関わらず綺麗に掃除がされ、床の間には鷺が描かれた掛け軸、その前には一輪挿しがあり、季節の花が咲いている。今日はあじさいだ。お手伝いさんがいつの間にか変えてくれている。
 いつもの休日、本を読むなら自分の部屋で読むのだがたまには場所を変えてみようと思った。読んでいる本が時代物であり、古き良き日本の空気を少しでも近くに感じたいと思ったせいかも知れない。
 黒く艶やかな座卓には緑茶を入れた湯飲みが置いてあるが、とうに冷めてしまっている。だが冬ならばともかく夏ならば冷えているくらいで丁度良い。
 一口飲んでその苦みに目を閉じる。
「贅沢じゃな……」
 六畳ほどの、物が少なく落ち着いた和室で、瑞々しい緑の風を感じながら優雅に読書が出来るのだ。美味しいお茶を飲んで、誰に何を急かされることもなく、自分だけの時間を過ごせる。読んでいる本も面白くて、最後まで読むのがなんとなく勿体なくて手が止まったほどだ。俺にとってはあまりにも恵まれた環境に、ずっとこのままならいいのにと思ってしまう。
 いっそ自分がこの家の主の嫁だという事実すらも忘れて、ずっとこの部屋に引き籠もって生きていきたい。
(……駄目だ。あのお人はそれを叶えようとなさるな)
 仕事も辞めてこの家にずっといて下さって構いませんよ。
 そう笑顔で快諾する美丈夫の姿が脳裏を過ぎっては戦慄した。飼い殺しにされるという恐怖ばかりが沸いてきて目を開けては首を振った。
 欲張ってはいけない。
「まともに生きていたい……」
 現状がすでにまともではないことからは意識を逸らした。
 不意にコンコンとドアがノックされる音が微かに聞こえてくる。客間は襖なのでそんな硬質な音はしない。
 きっと俺の部屋のドアをノックしたのだろう。客間にいると美丈夫には伝えていなかった。
 襖を開けて廊下に顔を出すと案の定美丈夫は俺の部屋の前にいた。
「こちらじゃ」
 声をかけると美丈夫は振り返って微笑んだ。目が合うだけで微笑むその癖はどうにかして欲しいと思う。男前はそうして笑むだけで破壊力がある。
「どうかなさったか?」
「少し、お時間を宜しいですか?」
 美丈夫は客間に来てはそう言い出す。やるべきことはすでに午前中に終わらせているので、午後からはまったり本でも読むかと思っていた。美丈夫にわざわざ尋ねられて、拒む理由などどこにもない。
「勿論」
「お話があります」
 改まったその口調に、嫌な予感しかなかった。
 だがここで逃げてもいずれは聞かなければいけないことだろう。何せ美丈夫とは表面上だけでも夫婦という形を取っている。彼にとって重大なことならば無視しておくのも具合が悪い。
「中に入っても構いませんか?」
「どうぞ」
 客間に入るのにわざわざ許可を取ってくる人がおかしい。この家は美丈夫のものであり、俺に所有権はみじんもないというのに。
「お茶をいれてこよう」
「お構いなく」
 冷め切った自分の分の湯飲みを持ってそう言うと美丈夫はお決まりの言葉を口にする。まるで客人のようだが、自分たちは同居をして、同じベッドで毎晩寝ているけれど、そう親しいわけでもないのだと再確認してしまう。
(……好きだの何だのとは、言い出すようになってしまったけれど)
 美丈夫は何をとち狂ったのか、俺が好きであるらしい。嫁にするため、蔭杜にとって都合の良い人形のような相手が欲しかっただけだと思っていたのだが。それだけでなく美丈夫の感情も含まれていると以前言われて、度肝を抜かれたものだ。
 あの男が、一体何故、俺のどこに惹かれたのかは全く理解出来ないのだが。世の中にはどれだけ本人が優れていても悪趣味であるということはままあることらしいので、すでに理解は放棄している。
 分からないものは分からない。
 お茶を持って客間に戻ると美丈夫は座椅子の向かいに正座していた。背筋をぴんと伸ばしている姿は実に絵になる。
 窓の外には日本庭園かと言いたくなるような庭があり、眺めるのに十分値する光景が広がっているのに、彼が見ているのは座卓の上に俺が置いた文庫本だ。
 庭の光景など子どもの頃から見慣れて飽きてしまったのだろうか。
 お茶を勧めると「ありがとうございます」と笑みを深くする。それだけで落ちる女は幾人もいることだろう。
 平常心、と心の中で呟きながら元々いた場所に腰を下ろす。
「美味しいです」
「それは良かった」
 美丈夫はお茶を一口飲んで感想をくれる。
(何せ蔭杜のお手伝いさんが入れ方をわざわざ貼り付けてくれておったからな)
 この家に来たばかりの頃、キッチンの棚を開けると茶葉が置いてあるスペースに、その茶葉に合った入れ方を書いたメモが貼られていたものだ。イラストまで描かれていたそれは大変分かり易かった。
 ここのお手伝いさんは「自分たちが分かり易いようにメモを貼っているんです」とは言っていたけれど、あれはたぶん俺に向けられたものだ。俺が美丈夫に茶を振る舞うことがあるかも知れない状況を考慮したのだろう。蔭杜で働くお手伝いさんが茶の入れ方を忘れるわけがない。
 美丈夫にまずい茶など飲ませるなという圧力を感じた。
「それで、お話とは?」
「婚約指輪を作ろうと思っています」
 真剣な顔で美丈夫が告げた言葉に俺は口を閉ざした。庭からはチチチッと軽やかに鳴く小鳥の声が聞こえてくるので、きっと俺の耳はまだ狂っていないだろう。
(………誰の?)
 そんな問いかけが口から出てしまいそうだった。けれど美丈夫にそんなことを言えば怒りをかってしまいそうだ。他に誰がいるのだと叱られそうだ。
「俺と貴方の分です」
(読まれていた……)
 もしかすると「誰の分だ」と顔に出ていたのかも知れない。美丈夫は苦そうな表情を浮かべて説明をしてくれる。
「籍はまだ入れられませんが、夫婦の形のような物が欲しいと俺は思っています。指輪はその点とても分かり易い。戸籍と金銭以外の形で婚姻を表すのに適していると言えるでしょう」
 金に物を言わせて結婚を事実にしようとするよりまし、ということなのだろう。結納金として実家に大枚を積みに行かないだけ理性的なのだろうか。
(本当に俺を逃がしたくないと思うのなら、母か妹にでも巨額の借金を背負わせれば一発で人生を掴めるからな)
 蔭杜ならば口の立つ詐欺師、もしくはそれ一歩手前の仕事をしている人間の心当たりくらいあるだろう。だがそうしないのは、彼らに良心があるからだ。
(しかし、だからといって指輪……)
 左手の薬指にそれがはめられるのかと思うだけで気が重い。
 それを見て周りは何というだろうか。蔭杜のかりそめの嫁になったと知っている人は同情の目を向けてくるだろうが。何も知らない友人や職場の人は、いつの間に俺にそんな結婚相手、もしくは婚約相手が出来たのかと騒ぐことだろう。
 想像するだけであまりにも面倒だ。
「そんなに形がいるものじゃろうか」
「虫除けになります」
「ではおまえさんだけが付ければ十分に役立つと思うが」
「俺だけ付けていても何の意味もありません。二人揃って付けているから、虫除けになるんです」
 蔭杜という名前、そして美丈夫の見た目に寄って来る女はいくらでもいるだろう。それが鬱陶しいので婚約指輪をして、自分はすでに身を固めていると周囲にアピールしたい。女たちを退けたいというのは分かる。
(確かに……二人揃って付けていれば威力はあるのかもしれんが。相手は俺じゃぞ)
 あの類いの指輪は、二人揃って歩いている際に同じ指輪を付けていることによって、強固な間柄だと主張して余計な虫を排除するのだろうが。俺が美丈夫と歩いているとしても、婚約関係だと思う者はまあいないだろう。同じ指輪を付けていると気が付いて、初めて衝撃を受けるのだろうが、それでも俺が相手では「奪い取れる」と思われるだけではないだろうか。
「俺が付けていても、周りは俺など敵ではないと思いそうじゃが」
「いえ、そんなことはありません」
 にっこりと笑う美丈夫が反論を封じてくる。この顔をしていると、俺が自分のことをどう冷静に説明しても聞き入れてくれないのだ。
 美丈夫の中の俺と、実際の俺と。どんどん隔たりが広がっているような気がする。
「…………しかしな、俺がそんな物を付けたら、周りがどう思うか」
「婚約者がいると言えば宜しいのでは?」
 涼しい顔でそんなことを言う人が恨めしい。
「職場でどんなことになるのか。根掘り葉掘り訊かれても俺は何も答えられん」
 どんな彼女だ、どんな嫁だと言われても、その立場は自分なのだと口が裂けても言えない。言ったところで職場の人間は誰も信じないだろう。
 頭がおかしくなかったのかと心配されるのがオチだ。
「同性だからと気後れされるのは分かります。ですが性別を誤魔化して俺のことを喋れば宜しいのではありませんか?」
「いや、そういうのはどこかでぼろが出る」
 男の部分を女に変えたところで。細かな話のどこかでほころびというものは出てしまうものだ。同居までして、ましてベッドは一つであるのに身体の関係はないことや。相手の実家でどう扱われているのか、そもそも実際の結婚はいつなのか。彼女の容姿だって、生まれや育ち、共通の話題。全部が「普通の恋人」から懸け離れているのだ。
(大体どこで出逢って、何故付き合うようになったのかすら、絶対説明が出来ん)
「出たら出た時だと思いますが」
 むしろばれてしまえと思っているのではないか。それほど堂々としている美丈夫に頭が痛くなってくる。
「男を嫁にと家訓で決めるようなお家柄のお人には分からんじゃろうが。世間は男同士だのということに敏感じゃ。まして俺のような顔も中身も何もかも普通な男がそうだと分かると、好奇心と嫌悪の的になる」
 普通を絵に描いたような人間が、その実普通ではないものを持っていた。その時世間は異様なほど拒絶感を示す。それは元から「どこか変わっている人」がそうであった時よりも反応は顕著だ。
 人間は群れになればなるほど、微かな異端でも酷く排他的になってしまう。
「そう危惧されるのも分かります。だからこそ、俺も上総さんの職場にご挨拶に行くのをずっと堪えていました」
「堪えておったのか」
「はい」
 ろくでもないことを胸の内に持っていたものだ。
 堪えてくれたことに感謝をすれば良いのか。そもそもそんな考えがあること自体恐ろしいと戦慄すれば良いのか。お茶を一口飲んで溜息を付いた。
 美丈夫の言動が色んな場面で理解出来ないのは、俺が凡人だからなのだろうか。
 

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