美丈夫の嫁3 5





 食事を取り風呂にも入った。上総さんも自室に入って自分の時間を過ごしていることだろう。日付が変わろうとしている時刻はそろそろ寝ましょうと声をかける頃合いだ。
 せっかく同じベッドで眠っているのだ。特に何をするわけでもないのだが、寝る時くらい同じタイミングでベッドに入りたい。
 上総さんの就寝時刻は大抵似たようなものであり、今頃だ。俺はもう少し遅かったのだが、上総さんと同居を始めてからは同じ時間に寝るようにしている。おかげで睡眠時間が増えた。
 上総さんの部屋のドアをノックしようと手を上げた時、インターフォンが不意に鳴った。
 この家は蔭杜の敷地内に建てられており母屋としか繋がっていない。外部からの来客は有り得ないのだ。なのにこの時間に突然人が訪れたということは、母屋で何かあったのだろう。
 姉の顔が頭を過ぎり、冷水を浴びせられたような気持ちになる。
(まさか……)
 体調が急変したのだろうか。
 しかし万が一という事態であるならばインターフォンが鳴らされる前にスマートフォンに電話がかかってくるはずだ。人を寄越すより俺が母屋に駆けた方が早い。
 それをせずにわざわざこちらに来る理由が分からない。
 上総さんも部屋から青ざめた顔で出てきた。おそらく姉のことで何かあったのだと思っていることだろう。俺と目を合わせては不安の色を濃くしている。
 二人で玄関のドアを開けると、そこにはよく知った顔が立っていた。
「よ。こんばんは」
 片手を上げて軽い挨拶をしたのは、実の父親だった。
 ジーパンにラフな半袖のシャツ。まるで近所のコンビニに行く途中のような服装だが、この父は確か今仕事で海外に行っていたはずである。
 脳天気そうな表情、気楽そうな雰囲気。年齢を感じさせない容貌。蔭杜先代当主の夫であるはずなのに、父は蔭杜の匂いが薄い。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
 父が何も言わずに急に帰ってくることはよくあるのだが、母屋にいるならばともかく、一応別に家を持っている状態の息子にこんな夜遅く訪ねてくるなんて。息子に緊急で知らせなければいけないことでも起こったのか。
「帰って来られたのがさっきなんだよ。飛行機が遅れてな〜。というかどうしたって言いたいのはこっちの方だ。親戚をベトナムに飛ばすわ、環は倒れるわ。何事だってな」
 おまえは何をしているんだ?
 父はそう、言葉の外で尋ねてくる。
 口調も声も変わっていないのに、眼差しだけが突き刺さるようなものに変化していた。それは端から見ている場合は分かりづらく、向けられた当人だけが察知出来る微妙な加減だった。
 たぶん上総さんには分からない。あえてその加減をした上で、父は俺に重圧を加えているのだ。自分の私欲のためだけに蔭杜の力を使ったのではないか。それによって姉に心労を与えたのではないか。
 暴走していないか。私利私欲に目が眩んでいないか。
 そう戒めを囁いているのだ。
「親戚を飛ばしたのは上総さんの妹さんに良からぬ事をしたからだ」
「聞いた聞いた。まあ、とりあえず中に入れてくれよ」
 説明をしようとしたが、玄関先では落ち着かないのだろう。中に入りたがる父に上総さんがスリッパを出しては上がるように勧めている。
 リビングのL字型ソファに座り、上総さんがお茶を出してくれた。ローテーブルに緑茶を置くと俺の隣に座ってくれた上総さんに新鮮さと共に喜びがあった。
 やはりこの場合上総さんは嫁として隣に来てくれるらしい。
(それにしても、パジャマ姿でこの時間に真面目な話をする羽目になるなんて)
 上総さんは申し訳程度にパジャマの上にカーディガンを羽織ってくれている。着替えるのは時間もかかり大袈裟な気がするけれど、パジャマだけではどうにもきまりが悪いのだろう。
 身内ではない関係がそんな部分に出ているのだ。それに父と上総さんは会話をする機会がほとんどなかった。
 家族ぐるみでもっと親密にならなければ、上総さんにも蔭杜本家の一員だと実感して貰えないだろう。
「環にもさっき会って来た。ちょっと貧血気味だそうだ」
 父は緑茶に口を付けては、深く息を吐いてからそう話し始めた。日本に帰ってきたばかりと言っていたが、ここでようやく一息ついたのかも知れない。
「この家で倒れたらしいな。上総さんには迷惑をかけた」
「いえ、そんなことは」
「これからもままあることだと思う。気に掛けてやって貰えると有り難い」
「それは勿論。私に出来ることであれば何でも」
 上総さんはわざわざ頼まれることではないというように、快諾してくれている。
 実際父に言われるまでもなく、上総さんはこれからも姉を心配してくれることだろう。あれだけ動揺して、ついさっきまで入院するのでは、なんて危惧していた人だ。
「あれは当主であるが故に身内にも色々頼れない部分がある。それはもうお見せしてしまったと思う。貴方にも迷惑をかけることがこの先あるかも知れない」
「それは俺がしっかり守っていくつもりだ」
 親戚たち、それ以外の人間たちが蔭杜の名前に群がって上総さんに何かしらの接触をしてくる。もしかすると危害を加えることもあるかも知れない。それは事実だけれど、上総さん本人に届く前に俺が全て処理しようと思っている。その覚悟や体勢も整えているのだ。
 上総さんに直接そんなことを言って無闇に不安を煽らないで貰いたかった。
「おまえが全てをカバー出来るわけじゃない。ある程度の覚悟は必要だ」
 でも、と言い返したくなるが父の言っていることも正しいとは分かっている。どれだけ緻密に警戒と保護の糸を張り巡らせていても上総さんが一人の人間として自由に行動している以上、俺の手が届かない場合は幾つだってある。
 蔭杜本家の力を駆使しても完全に守りきれるわけではない。監禁でもしなければ完璧な安全なんて得られないのだ。
(だがどうして今そんなことを言うんだ。俺はまだこの人を掴み切れていない。上総さんが心変わりしたらどうしてくれる)
 やっぱり蔭杜なんて危険なところだ。妹にも嫌な思いをさせた。迷いはあったけれど縁を切ってしまった方がいいんじゃないか。
 そんなことを考え始めたら、どうやって止めれば良い。志摩さんのことで上総さんはまだ蔭杜に対する不信感が強く残っているだろうに。俺の説得と謝罪だって短期間に何度も使えば価値が失われる。
 父を軽く睨み付けるけれど、素知らぬ顔をしたままだ。
「だが貴方に今出て行かれると俺たちはかなり辛い立場になる。周りは騒ぎ始めて、誉を絡め取ろうとする者が後を絶たないだろう。こいつは簡単には籠絡なぞされませんが環が弱り切れば本家自体が揺らぐ可能性もある」
 男の嫁は出て行ったらしい。やはり男が嫁にはなれないのだ。誉さんも結局は女が良いのだろう。まして環さんが弱っている。子が産めないかも知れない。では誉さんの子どもが次の当主に。
 上総さんが蔭杜から逃げれば、親戚たちの間でそこまで一気に駆け上がることは間違いない。
(そして無駄な駆け引きと争いが始まるんだ)
 忌々しいと唾棄するような騒動が起こりえる。
「貴方がここにいる条件として俺たちが出来ることがあるならば差し出したいと思っている。財産でも権利でも」
「父さん。俗な話は止めてくれ」
 上総さんが求めるものを差し出すというのは俺も望んでいることだ。だが金、権利、なんて生々しく下品な単語を晒し出さないで貰いたかった。
 そんな単語を出されて上総さんが「では」と身を乗り出してくれるわけがないのだ。
 もしそうならとっくに欲を出している。
「こういうことはさっさとやっといた方がいいんだよ。後からだと言い出しにくいだろ」
 父は歩み寄ろう、理解しようと思っている相手に対しては考えを率直にぶつけて反応を見る癖がある。腹の探り合いや遠回しな要求を払いのけて生身の声で接しようとするのだ。
 それに上総さんは苦笑していた。
「私は小市民なので本家には馴染めない面があると思います。財産や権利と言われてもどのような規模なのか、その利用方法も分かりません。そもそも人間には身の丈というものがあります。欲を出しては自滅するだけです」
 上総さんは淡く笑んだまま、静けさをたたえてそう語っている。欲を出して滅んでいった人間たちを間近で眺めていたかのような口ぶりだ。
「私が望んでいるのは平穏な暮らしです。母と妹がそれなりに暮らしていける。出来れば母の老後が安泰であれば幸いだという程度です。それも今のところは現状で何とかなるだろうと思っています」
 また家族のことから始まっている。この人は自分よりも先にそれを出して来るのだ。
 縛り付けられているのではありませんか?そう尋ねたくなるけれど、俺に言われたところでただの皮肉にしかならないだろう。
 この人よりも蔭杜に束縛されて呼吸すら支配されているような俺が、言える立場ではない。
「妹の学費に関してはこちらにお世話になっていますが、あの子も社会に出て働くようになれば少しずつでしょうが返済もします。私自身は一応働いていますし、自分一人くらいなんとか食っていけますので。今のところ特別望むことはありません」
 言いたいことはそれだけだとばかりに、上総さんは一区切り付けると緑茶ーを飲んだ。父はその姿をじっと見たかと思えばにやりと笑う。それは実に意地の悪そうなものだった。
「いつでも逃げられる姿勢を取っておられる」
「いえ、そういうわけではないのですが」
「貴方はそういうところが実に賢明です」
 賢いということは父にとってはかなりの褒め言葉だ。そして実のところ扱いづらさを覚えている、という証拠でもあった。
(もし欲深ければ金や権利でいくらでも縛り付けられた。上総さんはそれを許してくれない)
 もし金を出せばここにいてくれると言うのであれば、目の前に詰んで見せただろう。だから離縁は出ませんよ、と誓約書でも何でも書かせた。
 だが上総さんはそれをさせない。何もいらないと言う代わりに俺の束縛を事前に拒絶している。
(だからこそ好きなんだ。だからこそ魅力的なんだが)
 欲が薄く金に手を出さない。権力に目が眩まない。身の程を弁えている。
 それが上総さんの美徳なのだが。同時に歯がゆさでもあり、自分がこれまで行使して来たもの全てが無駄になっていくように思えるのだ。
 自分の武器が、がらくたにしかならない。
「いつでも逃げられる。だがまだ逃げずにいてくれる。そんなところですかね」
 俺が感じている現状をそのまま口にする父に、上総さんは「私はそんな」と曖昧な言葉で濁した。
 そんな、何なのだろう。違うというのだろうか。だが実際上総さんは逃げようとした。
 そしてまだその体勢は崩れていない。この人はいつだってここから出て行けるのだ。
 立場が下、小市民、身の程なんて言いながら。俺はどうしてもこの人に首根っこを掴まれて命を握られているような錯覚を覚える時がある。
 それが不愉快ではないのが、また問題だった。
 

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