美丈夫の嫁3 6





 捕まえたいのになかなか捕まえられない。それどころか逃走される危険性をずっと消さないでいる。
 俺の複雑な心境を正面にいる父は察しているかどうかは分からないけれど、ちらりと俺を見た目に叱責が混ざっているような気がした。
 情けないとでも言い出しそうな雰囲気だ。
「ところで、かりそめとは言っても夫婦です。どうですか生活は?」
 かりそめの夫婦、という表現に喜んで良いのか悲しんで良いのか迷った。かりそめなんていつでも終わる儚い関係で。だがそれでも夫婦という形にはめられていることは幸いなのか。
 どうにも上総さんに関しては複雑な心境になることが多すぎる。
「平和に暮らしております」
「聞けば上総さんはお手伝いさんがいるのに朝飯と休みの日の食事、掃除までされているとか。まさに良妻ですね」
 手間が省けるのだからお手伝いさんに任せてしまえば良いだろうにと、おそらく父も俺と同じく簡単に思うのだろう。しかし上総さんは毎日のルーティーンとしてこなしている。もしかするとそれらは苦ではないどころか楽しいものなのかも知れない。
「家事は実家でもやっていましたので、習慣になっています。人様にやって頂くより自分でやった方が落ち着くというだけのことです。誉さんには迷惑をかけていると思いますが」
「まさか!嫁の飯が食えるなんて旦那として嬉しいでしょう!」
「そうですよ!俺は毎日感謝してます!」
 自分の行いを卑下する上総さんに父共々全力で否定をした。自分の妻が料理を作ったことなど一度もない父にしてみれば、上総さんの発言は控えめを通り越して菩薩のお言葉のようなものに聞こえるかも知れない。
「それなら良いのですが」
 やはり曖昧に笑んでいる上総さんに、この人はもしかして現代人ではないのではないかとすら思う。
 かなり昔の、それこそ昭和初期や明治時代の嫁の姿ではないだろうか。こんなにも慎ましやかでお淑やかで欲の無い嫁が現代に存在しているなんて信じがたい。
「特に問題もなく生活されていると」
「はい」
「ふぅん……夜の生活はどうですか?」
「父さん!?」
 突然シモネタに走った実の父親に俺は腰を浮かせた。
 何という下品なことを言い出すのか。酔っ払いが宴会の場で口にしたとしても、上総さんに向けられたものならば許せなかっただろう戯れ言だ。
 父親だからまだ我慢したけれど、遠縁の中年親父であったのならば即座に胸ぐらを掴んでこの場から排除したことだろう。
 それだけたちの悪いことを言われた上総さんは、怒るわけでも驚くわけでもなく、きょとんとしたまま固まっていた。
 あんまりにも低俗な発言だったので頭が理解するのを拒否したのだろうか。そう心配していると父が肩をすくめた。
「おい息子よ。この人全然分かってないぞ。おまえ何やってるんだ。何もヤってないのか」
 やってる、ヤってないのニュアンスの違いをしっかり聞き分けてしまった俺は絶句した。そんなことを人に訊かれるなんて思ってもなかったことだからだ。
 しかも不甲斐ないなんて視線で突き刺されては居たたまれない。
(物事には順番ってもんがあるんだよ!)
 そんな言い訳が喉元まで出かかったのだが、出してしまえば父親から冷ややかな言葉を浴びそうで言えない。男としての矜持に関わることだ。
「生活に昼も夜もあるか、みたいな顔をされてますが。夫婦生活のことですよ。ベッドは一つなんでしょう?ヤることヤってるのかってことです」
 さっきまでの丁寧な口調を脱ぎ捨てて、父はざっくばらんとした喋り方で人の下半身の事情について尋ねてくる。
 上総さんはそこでようやく問われている中身に気が付いたらしい、唖然としては父をまじまじと見詰めている。
 正気ですか、という疑問がそこには大きく書かれていた。
「いや……私たちは、そういう」
 関係ではないとでも言いかけたのだろう。だが隣にいる俺に視線を移動させては言葉に詰まった。
 きっと俺に同意を求めようとしていたのだが、それが失敗したことに気が付いたのだ。数日前に肉体関係を求めていると言われたばかりなのだから。
「籍が入っていないんだからまだ夫婦じゃない、みたいなこだわりですか?初夜を大切にしたいなら結婚式だけでも先にしますか?籍に関してはそう簡単にはまだ入れられませんが結婚式ならいつでも出来ますよ」
「そんな!まさか!」
「だって嫁でしょう」
 結婚式なんてものが自分に降りかかってくるわけがない。そんな驚きを露わにする人に、父はあっさりと「嫁」と言い放った。
 そして事実俺はこの人を「嫁」として迎えている。本人もそれを繰り返し耳にしているはずだ。だからこそ反論が止まった。
「別に式はしてもしなくても俺はどっちでもいいと思いますがね。夫婦の形は人それぞれですし。まして同性で、思うところもあるでしょう」
 こだわりません、強制もしません。そんな姿勢を取っているけれど、上総さんに対して嫁の自覚を持たせようとしていることは明白だった。
 追い詰めていないようでじわじわ追い詰めている。
「上総さんは、どうして息子の嫁になってくれたんですか?」
「え?」
 今更過ぎる質問に、ただでさえ戸惑っていた上総さんは途方に暮れたかのような目で父を見ている。
「いや、御家族への影響やご自身の周囲の人間関係を考えた末のことだとは分かっています。断りづらいのは百も承知。こちらもそれを理解した上で強引に推し進めたことです」
 断れるはずがないだろう。そんな傲慢さすら蔭杜にはあったのだ。
 俺だってそれを頭の中に入れた上で上総さんを嫁に、と願い出たのだから。思えば人としては非道な部類に入る。
「ですが抵抗の仕方ならあった。まして今回妹さんのことでかなり頭に来たはずだ。貴方は離縁も突き付けたと聞いています。蔭杜のことが許せなかった。だがまだ嫁でいてくれる。態度もそう冷たくなったわけではないらしい」
 それは俺が努力してなんとか情に訴えた結果だ。だが姉の力によるところも大きい。
 その辺りを突くのは止めて貰いたかった。自分の力の無さばかり思い知る。
 しかし確かに俺に対する態度が変化しないというのも、有り難いけれど不思議なものではある。元凶は俺にあるのだから、あれほど激怒して蔭杜と縁を切りたいと言った人が、俺に対して冷たさを持っていないのも、振り返れば違和感があるのかも知れない。
「そもそも誉が紋付き袴で貴方に結婚の申し込みをしに行った時。貴方はさして間も置かずにはいと言った。あの短い時間に自分に与えられる利害の全てを考えて結論を出すには相当の思考力がいる。けれど貴方は完全に頭が真っ白だという顔をして座っていた」
 呆けていた、とすら言えるだろう。
 上総さんは目と耳を疑い座っていた。俺は上総さんの微かな変化すらも見逃すまいと凝視していたのでよく覚えている。
 澄ましたようなあの冷え冷えとした表情を消してぽかんとした。無防備な顔は、それはそれで可愛らしいものに見えて、初めて見た時の印象とのギャップがあって心躍ったものだ。
 この人はそんな顔もされるのだなと、記憶に焼き付けた。
 その様子に計算高さなどあるわけもない。上総さんはきっとあの時、これからの自分についてなんてろくに考えもしなかっただろう。
「何故あの時貴方は頷き、そしてどうして未だに付き合って下さっているんですか?」
 なんて根本的な質問だろう。
 俺が訊くのを躊躇い、答えを先延ばしにしている問いではないか。
 追求してしまえば、上総さんが自分が置かれている状態の異常さに尻込みして「無理です」と言って逃げ出してしまいそうだから。これまで核心に触れることを避けて来たのに。
 上総さんは顎を引いては黙り込んでしまった。
「何故……と言われても」
 困り果てたと言わんばかりに眉尻を下げては視線を落としている。
 上総さんにとって、俺は魅力が薄いことは分かっている。金も権力にも興味のない人が、同性である俺に対してどこに惹かれるかなんて。本音を言えば無いのかも知れない。
 薄々察していたのだ。そんなことは。
(……この沈黙が恐ろしい)
 三人ともが黙ってしまい、部屋には重苦しいほどの静けさが流れてしまう。父も上総さんの返事を諦めて別の話題を振ればいいだろうに、こんな時に限って粘っているのだ。
 上総さんは不意に口元に手を当てた。
 深く考え過ぎて、何か深刻な事態にでも気が付いたのか。もうこんな生活は嫌だという気持ちでも込み上げてきたのか。
 そう戦々恐々と横顔を覗き込むと、それは悩んでいるというよりも恥じているかのようだった。
 じわじわと頬が紅潮していく。
(……何故?)
 何か恥ずかしいと感じることでも思い出したのか。耳まで染まっていく上総さんを不可解に思っていると、父が「あー……」と気の抜けた声を出した。
「そういうことですか。はいはい、分かりました」
「え?」
「なるほどね。なんつーお似合いな」
「父さん?」
 一人納得したらしい父に、俺だけでなく上総さんまでびっくりしたらしい。視線を上げては口元を押さえていた手を外して「あの……」と小さく零している。
「誉。おまえも鈍いね〜。俺の息子だろうが」
「……あの、蔭杜さん」
「上総さん貴方もですか?こりゃ、なかなか進まないわけだ」
 何を言われているのか分からない俺たちを前に、父はにやにやと笑っている。愉快だという表情を全面に出しているその様子に、所在なさを感じるけれど一体父が何を察知したのかすらも分からない。
「若いんじゃないのか君たち」
「私はもう若くはありませんので……」
「まだ二十代でしょうが。充分若いですよ」
 上総さんは物腰と言葉使いは落ち着いているが、容貌ならば充分若い。実際に年を気にするような年齢でもないのに、若くないというのは謙遜が過ぎる。
 父も上総さんの発言をからりと笑って跳ね飛ばしている。だが本人だけは素直に聞けないのか、複雑そうだ。
「なんだ、そうか。まあそうだろうなと思っていたがな。結婚式がしたくなったらいつでも言ってくれ。国内でも国外でもすぐに用意してやる」
「そういう予定はまだ」
 ですよね?と隣にいる人に同意を求めると困惑したまま頷いている。
「まだというか、全然と言いますか……」
 する気もありません、と続きそうな有様だ。男同士で結婚式というのは、この人にとってはハードルが高いイベントなのかも知れない。
 しかしまだ赤さの残る頬は色っぽくて、俺は父が何を考えているか、何が言いたいのかも気にせず、その横顔に見惚れてしまった。



 父は上総さんが入れてくれたお茶を飲み干すと慌ただしく帰っていった。明日からまた別の国へ行くらしい。今度は仕事半分、遊び半分だ、と楽しそうに話していた。
 自由にふらふらしていて根無し草のようだと言いたいところだが、俺が高校を卒業するまでは海外に行きたくとも日本に留まり我慢していた節がある。子どもに手がかからなくなってやっと自分のしたいことが出来るようになったのだろう。
 それまで父の自由を奪っていたかも知れない後ろめたさがあって、その行動を止める気になれなかった。
 父が帰り玄関を閉めてほっと一息ついたらしい上総さんの顔に不快感がないことを確かめてから、俺は口を開いた。
「どうして俺の嫁になってくれたんですか?」
 結局上総さんは父に答えはしなかった。恥ずかしいと言っているような様が気になって、俺は覚悟を決めて自ら問いかけた。
 上総さんはぎょとしたようだった。何故貴方までそんなことを言うのだと、責めるような視線で見られる。
 だがじっと黙って返答を待っていると、どんどん表情は揺らぎ目を逸らされた。
 そしてまた、羞恥を微かにちらつかせるのだ。
(良くないですよ)
 恥じらいは人の興味を掻き立てる。もっと言えば暴きたい、もっとその奥を見たいという欲望を生み出してしまう。
「キスしてもいいですか?」
「はい!?」
「貴方をいきなり襲ったりしないと約束しましたから。だから許可を求めなければいけない」
 性的な行為をしたいと思っても、手を出してはいけない。それを約束したからこそ上総さんと同じベッドで眠れる。もっと言えば同居が継続されている理由はそこにあるのだろう。
 身の安全が確保されているから、この人は日常生活をここで送ってくれている。だからどんなことであっても下心があるのならば、事前に宣告するべきだ。そうでなければ不安を与えてしまう。
 だが許可を求めた俺に、上総さんは絶句した。そして顔を真っ赤にしては一歩後ろへ下がる。
 唇が少しばかり動いたのだが声は聞こえない。そして首を大きく振ってはその場にしゃがみ込んだ。
「……駄目です」
「どうしてですか?」
「心臓が保たない……心不全で倒れてしまいそうじゃ」
 震えている声に、なんて可愛らしい人だろうと高揚した。俺の心臓だって痛いくらいに熱を持っている。
 やっぱりキスがしたい。抱き締めて貴方が欲しいと囁きたい。
 けれどそこまですればベッドを分けると言われそうで、必死になって耐えた。
 



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