美丈夫の嫁3 4





 翌日はバイトから帰ると自宅よりも先に母屋の姉に会いに行った。
 今朝方も顔を見てから大学に行ったのだがあれから数時間経ち、顔色も段々良くなってきているようだった。
 それでもまだベッドに座っている。姉はよくここで時間を過ごすのでベッドにはサイドテーブルが付けられており、簡単な作業ならば出来るようになっていた。今もノートパソコンを広げている。
「具合は?」
「もう平気。だいぶ良くなっているから、大丈夫」
 そう語る姉の台詞を疑いはしない。姉は体調iに関して虚勢を張る人ではないからだ。
 どれだけ嘘を言って大丈夫だという言葉を重ねても、倒れてしまえば意味がない。周りも振り回されるだけであり、それならば真実を話して周囲も早急に対処が出来るだけの心構えをして貰った方が自他ともに安全だと知っているのだ。
 何度も体調を崩して倒れた姉が導き出した結論だった。
「仕事帰りに上総さんがお見舞いにいらしたわ。昨日お借りするつもりだった本もわざわざ持って来て下って」
 姉は上総さんと本の貸し借りをしているらしい。姉は病室で暮らしていた時期が長く、その間出来ることは限られていたのだ。読書は彼女の良い趣味だった。
 同じく本が好きであるらしい上総さんとは仲良くやっているようだ。本の趣味はかなり異なるようだが、それもまた新鮮だと話してくれた。
「随分心配して下さったけど。家ではどう?欲深い目はしていなかった?」
 姉は穏やかな口調で、だが上総さんの性根を疑うような問いかけをしてくる。しかしそれは何も上総さんの人間性が非道なものだと思っているからではない。
 自分の不幸が他人にとって利益になる可能性を持っている人の、哀しいまでの現状確認だ。そうであって欲しくないと思っていたとしても、姉は自分の不幸を願う人間の把握をしなければいけない。自分を守るためにも。
 何も知らず、気付かずにいるほうが心の安定だとしても、茨を掴むようにして周囲の動向を確かめるのだ。
「心配していた。実家の女性は二人とも風邪も引かないような人らしい。女性が倒れるなんてとんでもないことだと思ったみたいだ。姉さんが倒れた時も救急車を呼んでくれって慌てていたよ」
 俺にとって姉が倒れるということは日常の中で有り得ることだったけれど。上総さんにとっては緊急事態だったのだろう。救急車を呼んで今すぐ処置をしなければ命に関わるとでも思っているような慌てようだった。
「そう。どうか、そのままでいて欲しいわ」
 姉は安堵したような顔を見せながらも、陰りのある声で呟いた。
 彼女は知っているのだ。自分をどれだけ心配し、優しい声をかけてきた人であっても後々自分の利益のために姉の不調を願ったことを。姉が死んだ場合について調べ上げては、その場合の根回しをしていたことを。
 微笑みの裏で他人が金勘定と権利を狙って足元をすくおうとしていることを、姉はこれまで幾度となく見てきた。
「大丈夫だよ」
 上総さんは薄汚い金に固執するだけの親戚たちとは違う。むしろあの人は欲がなさ過ぎてこちらが不安になるような人だ。
 姉が憂うようなことにはならないはずだ。
「そうだといいけれど。それと私を心配して國朋さんが上総さんに辛く当たってしまったの。それを謝っておいて。私も謝罪はしたんだけれど」
 國朋というのは姉の夫だ。俺が上総さんを嫁にすると聞いた時から、義兄は上総さんにあまり良い感情を抱いていない。
 俺が仕事上で有能になるだろう相手、たとえば従兄弟などを選んで今後の俺や姉、そして蔭杜の発展に繋げると思っていたらしい。
 俺も当初はそう計画していたのだ。義兄に相談もしていた。
 だが俺はあっさりと上総さんを選び、しかもすぐに嫁として蔭杜に入れた。それが義兄からしてみれば俺が上総さんに騙されたのではないかという杞憂になったようだ。
 そんなことは決して無いと説得はしているのだが、俺が上総さんに良いように言いくるめられている。もしくは軽い洗脳状態にあるのではないかと勘違いしているようだ。
 そして何より、姉に対して良くない影響を及ぼすのではないかと危惧しているらしい。
「義兄さんは心配性だから」
 それは俺が上総さんに出会うまでは決して悪いことではなかった。特に姉に対して心配性で、過保護とも思える対応をしている様は俺達に安堵を与えてくれる。
 そもそも義兄が姉に対して盲目的とも思えるほどに愛情を向け、姉を一心に思いやれるような男でなければ夫になどしなかった。
 義兄は姉を大切にし、自分の立場も利益も度外視してくれているからこそ、ここにいられるのだ。
 この蔭杜で最も欲に目が眩む立場にあるのは当主の夫なのだから。
 しかし義兄は上総さんを認めないつもりだろうか。会った時は必ずと言って良いほど冷たい言葉を投げているらしい。
 それは主にその近くにいたお手伝いさんや義兄本人の口から聞いており、上総さんはそれに対して何も言わない。
 そもそも気にしていないらしい。歓迎されるなんて最初から思っておらず、義兄に関しては初対面の時からきつく当たられたので、身構えているそうだ。覚悟している分何を言われてもさして傷付きもしないと、本人は言ってくれている。
(それでも気の毒だ)
 仮にも縁続きになろうかという人に冷たいことを言われて遠ざけられるのは、決して良い気分ではないだろう。ただでさえ上総さんには蔭杜の家に入るということだけでも心労をかけてしまっている。
「上総さんには優しくして欲しいって言ってるんだけどね」
「……それが増長させているんじゃないのかな」
「え?」
 姉のことが大切で大好きな義兄にとって、他の男に、たとえそれが義弟の嫁であっても、優しくしてあげてくれなんて言われれば気にくわないはずだ。まして相手に初めから不快感があるなら尚更面白くないだろう。
 だが姉はその辺りのことは分からないらしく、首を傾げた。



 自宅に帰ると上総さんが「おかえり」と言って出迎えてくれた。
 この生活は本当に良いものだ。家に上総さんがいて、ちゃんとおかえりと言ってくれる。共同生活をしている醍醐味ではないだろうか。
「環さんに会ったんじゃが。まだ顔色はよろしくないな」
 二人で晩御飯を食べている時に、上総さんがそう言った。上総さんが仕事の日はお手伝いさんが作ってくれていた食事を温めて食べるだけなのだが、その作業も上総さんがやってくれたというだけで特別な気持ちになれる。
 しかし上総さんの表情は曇りがちだ。昨日からずっとそんな雰囲気のままだった。
「俺もさっき会って来ましたが。あれでもそんなに悪い状態じゃないんですよ。ここ数ヶ月が特別元気だったんです」
 丁度上総さんを嫁にしたいと俺が言い出した辺りから姉は元気だった。なので上総さんは姉の不調を目にすることがなかっただけだ。
 上総さんがうちに来るということで姉は興奮と緊張をして、体調を保っていたのかも知れない。現状に慣れて来て疲れが出たという可能性もある。
「入院なんてことにはならぬということか?自宅療養で大丈夫だと?」
 上総さんは姉の状態がよほど危ういものに見えるらしい。身内で大病をした者がいない人の感覚というのは、こういうものかも知れない。
「あれくらいなら平気です。すぐに良くなりますよ」
「なら良いのだが」
 なめこの味噌汁を飲みながら、上総さんは心配そうな様子を消さない。この様を姉にも少し見せたいなと思う。
 姉が近くにいなくとも、この人はちゃんと姉を心配してくれている。決して自分の損得だけに捕らわれていない。人を思いやることが出来る人だと分かって欲しい。
(姉ならともかく、義兄はそれでも難しそうだが)
「ご心配をおかけしたこともそうですが、義兄さんに辛く言われたそうで申し訳ありません。貴方が財産目当てにならないか気にしているようで」
 上総さんが義兄に何を言われたのか、詳しくは聞いていない。だがある程度予測は付く。
 蔭杜の金を狙っているのか、蔭杜の中で地位を得ようと思って無駄だ。おおよそこの辺りの嫌味を言ったのだろう。
 これまでお手伝いさんから聞いた、義兄の上総さんへの発言の大半がそれらに関する言葉だったからだ。
 義兄が警戒し次々嫌味を吐かなければいけないほど、それらに群がってくる虫が多いということなのだが。その中に上総さんを入れるのは止めてくれと再三言ってくるのにいつになったら納得してくれるのか。
「環さんが倒れて気が立っておられるのじゃろう。謝られることはない。誰だって俺に対してはそう思う」
 上総さんは義兄に冷たくされてもけろりとしたものだ。まるで興味がないようだった。
 聞き流し一切反論することも、腹を立てることもしないらしい。だが神経が図太いのではない。ちゃんと配慮も出来、身内のことになると敏感過ぎるほどに反応し、気を尖らせる。
 蔭杜のことに関してはあえて鈍く、そして出来るだけ距離を置いて首を突っ込まないように構えているのだ。
 自分がどう振る舞えば良いのか、冷静に判断している。
「……もし姉が死ねば代わりの当主が立てられます。親戚の中から女性を一人選びその人が当主になる。けれどその次の当主を俺の子どもにしたいと言われるかも知れません」
 当主になれるのは女だけ。直系では今のところ姉以外に女はいない。なので親戚の中から出来るだけ当主になれるだけの器があるだろう女が選ばれ、次の当主に収まるだろう。けれどその女の次には、俺の子どもを望まれる可能性が高い。
 出来るだけ当主は本家の血が近い方が良いとされているからだ。俺しか直系がいないのならば、俺に子どもを作らせて女児が生まれれば次期当主として育てる選択肢も出てくる。
「その場合、女の妻を娶れと言われるかも知れません。そして貴方に対して厳しい選択を迫ることになるでしょう。いえ、でも貴方にとってはそれは辛くないのかも知れませんが」
 離縁して欲しいとついこの前言ったばかりの人だ。俺が女の妻を持たなければいけない。だから別れてくれと言っても「はい」という返事だけで離れていくのではないだろうか。
 俺が嫁になってくれと言った時と同じように、あっさりと。
(……怖いな)
 上総さんとの繋がりを求めているのは俺だけだ。
 他の誰も欲してなどいない。
 それを今更思い知っては勝手に打ちのめされていると、上総さんは苦笑した。
「おまえさんは本当に大変な身の上じゃな。大切な姉が亡くなった時のことまで考えねばならんのか。蔭杜のお家を思えば万が一の時も呆けてはいられぬのだろうが、世知辛い」
 悲しみに浸ることも許さない。どんな時にも時間は、周囲は動いている。自分が止まっていればその間置いてきぼりにされ、勝手に身の周りを荒らされる。
 あげくにはやってもいない、言ってもいないことで後々責められるのだ。そうでなくとも不利益を被っては、気が付いた時には後祭り。
 そんな有様になった者たちを子どもの頃から見ている。
 弱さを見せてはいけない。隙を見せてはいけない。
 その瞬間、ここぞとばかりに鬼が食い付いてくる。
 蔭杜の直系たちにはそう教え込まれている。
「まだ若いのに背負いすぎる御人じゃ」
 哀れみに俺は曖昧に笑った。宿命だと言えば簡単な返事だろうか。
 俺だってこんなものは望んでいなかったという苦い思いはあった。出来るならば平穏な慎ましい生き方がしたかったものだ。
「環さんが亡くなられるなど、俺にとっても辛いことじゃ。それだけでもう充分に寂しいのに」
 姉がいなくなることが辛い。
 そんなシンプルな答えを聞いて、俺は茶碗片手に少しの間固まってしまった。
 これまで周りからそんな台詞は聞こえてこなかった。もし姉が亡くなった時はどうするのか。そんな問いかけや、こうした方が良いだろうというアドバイスばかりだった。
 純粋に寂しいと思っていても、嫌だと思っていても、その時は来るかも知れない。ならばその時にどうするのかということくらいは予め決めておき、覚悟をしておくべきだという正しい選択故だ。
 寂しがっているだけでは何にもならない。
 けれど俺は上総さんの言葉に胸が詰まった。
(……そういう言葉が、ずっと昔から欲しかったのかも知れない)
 そんなことになっては嫌だ。ただそう自分と同じ気持ちになってくれる人を欲しがっていたのかも知れない。
 何の対処にならなくても、解決にならなくても。
 一瞬でいいからこの気持ちを分け合って、共感して、分かって欲しかったのかも知れない。
「はい……」
 頷きながら、今すぐ上総さんを抱き締めてどうかここにずっといて下さいと懇願したくなった。
 

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