美丈夫の嫁3 3





 上総さんはそれから三日は身構えていた。俺の挙動を窺っていたが平素と大差がないことを実感したのだろう。段々と無防備に戻っていった。
 日常へと戻っていく生活に、俺は安堵して良いのか落胆して良いのか迷った。
 上総さんに負担をかけるのは良くないことだが、またこのまま同居人という目で見られる暮らしになるのだろうかという恐れもある。
 せっかく踏み出した一歩が消えるのか。
(しかし怯えられるよりはましだ)
 犯されるかも知れないなんて、そんな危機感を募らせるような目を上総さんに向けられた日には立ち上がれなくなるだろう。自分は人間としての理性がある、自制心も持ち合わせていると熱弁することになるはずだ。
 いくらなんでもそれは空しい。
(まだ、今は現状を甘んじるべきだ)
 そうもやもやとしたものを抱えながらも自宅のドアを開けた時、上総さんの声がした。しかも大声で慌てたように何かを叫んでいる。
 普段声を荒げることのない人だ。何があったのかと靴を脱ぎ捨てて声がしたと思われる上総さんの部屋に駆け込んだ。
 そしてそこにある光景に血の気が引いた。
 姉が上総さんの腕に抱えられてぐったりと目を閉じている。元から肌の白い人ではあったのだが、青いとすら言える顔色や閉じているまぶたに体内でサイレンが鳴り響いた。
「環さんが突然倒れて!救急車を呼んでくれ!」
 上総さんは突然のことに動転しているのだろう。近くにあるソファに姉を寝かせることもせずに硬直している。
 姉の呼吸を確かめながら、俺は電話をかけることよりも姉を受け取ることを優先した。
 動揺している人は泣き出しそうなほど表情を歪めている。きっとこんな場面に出会したことはなかったのだろう。
「姉さん」
 呼びかけるが答えがない。姉をソファに横たえ、手首を掴んで脈を測ったが特別乱れているようでもない。
 顔は青ざめているけれど何度も呼びかけると、微かに反応があった。
「姉さん。気が付いたか?」
「……私、倒れた?」
「ああ」
 短く答えると姉は起きようとした。それを片手で制して様子を見る。姉は目を開けては瞬きをして周囲を見渡した。ここがどこであるのか、そして自分の記憶と合っているのか確認しているのだろう。
「そう……たぶん貧血。だから大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょう!」
 上総さんは姉が倒れた衝撃が抜けきらないのだろう。大丈夫という台詞を口にする姉に反発している。それに姉は上総さんを見た。
「上総さんごめんなさいね、びっくりしたでしょう?」
「俺のことはどうでもいいんです!救急車を呼びますから」
「いらないわ。いつものことだもの」
「でも!」
 上総さんはこのまま姉を寝かせていくことは出来ないのだろう。人が倒れたのならば救急車を呼ばなければいけない、という強い気持ちがあるのかも知れない。
「医者を呼びます。蔭杜には専属の医者がいますので」
「ああ……そうなんですね」
 主に姉を子どもの頃から見てくれている医者が近所で医院を経営している。診察外の時間だが姉を看てくれと言えばいつでも飛んで来てくれる。
 姉の状態も病歴も熟知してくれているので救急車など呼ぶよりもずっと安全だ。
 上総さんは医者がいるということに安堵はした。だがそれもすぐに不安に取って代わったように見えた。
 姉は慣れたことで、目を閉じ安静にしているけれど。上総さんはその様に落ち着かなそうに視線を彷徨わせて、しまいには立ち上がって「俺も何か」と言い出した。
「平気ですよ。慣れているの。こんなのいつものことだもの」
「いつもとは……」
「身体が元々丈夫じゃないので、子どもの頃はずっとベッドの上でした。今は元気になった方なのよ。ねえ誉」
「今年はまだ倒れていなかったくらいだから。元気だったよ」
 本当に姉は元気になってくれた。昔は病室で寝泊まりをして、なかなか家にも帰れないような子どもだったのだ。
 それが次第に病室から出る事が出来て本家に戻り、学校にも通えるようになって、倒れる回数も減った。今年に入って数ヶ月が経過しているのに、まだ一回も倒れていなかった。もしかするとこれまでの中でも最も長い期間、倒れなかったのではないだろうか。
 そんな俺たちの会話に上総さんは痛ましいという表情で黙り込んだ。



 姉は貧血だと診断された。本人の予想通りだ。
 慣れたものだと思いながら、姉は俺と医者に支えられながら自室へと戻った。丁度帰宅したばかりだった義兄はそれを見てまるで上総さんのように青ざめていたが、こちらは何度も体験しているはずなのに、いつになったら適応してくれるのだろうかと思う。
 それだけ姉のことが大切なのだと思えば、悪い気はしないけれど。
 上総さんは姉を送って俺が帰って来てからも、まだ不安そうだった。
「本当に大丈夫なんじゃろうか」
「姉にとっては日常です」
 そわそわとする人にとりあえず落ち着くためにコーヒーでもと言ってはコーヒーメーカーを起動させた。
 コーヒーメーカーが豆を挽き始めた音が部屋に響く。上総さんはキッチンの椅子に座っては溜息をついた。
「それが日常というのも、辛いものじゃな」
「生まれつきなので」
 物心ついた時から倒れることなど普通である生活だったので、姉は健康というものを知らない。自分の身体を不幸に思うことはあるだろうが、彼女なりに割り切ってもいるようだった。
 努力などで覆すことの出来ないものだ。受け入れるしかないのだろう。
「うちは二人とも身体は丈夫で、風邪すらもそう引かん。あんなにも華奢な人が倒れると心臓に悪い」
 上総さんの二人の家族を思い出す。頑丈というような外見ではない。どちらかというと細身なのだが、内臓と免疫力は強いのだろう。真っ当に生きるのならばそれは美徳だ。
 これまでに体験したこともない光景に狼狽した人を前に、子どもの頃から幾度も見て来た姉の姿が思い出される。
 真っ白な部屋、真っ白なベッド、子どもの好きそうな玩具や本は所狭しと並べられているのに、姉の表情はいつも泣きそうだった。
 ここにいるのが辛い。寂しい。
 そう聞かずとも分かった。
「子どもの頃はいつ死ぬかも分からない。そう言われていた姉です。病院に入ったきりなかなか出ることは出来ず。時には面会が許されなかったこともあった」
 姉弟だ。家族だ。けれど幼い記憶の中にある姉は、いつも自分とは違う世界に住んでいる人のようだった。接する時間の少なさもあるけれど、何より自分とは異なり、一歩間違えば死んでしまうのではないかという儚さがいつも付きまとっていた。
「それは、大変な子ども時代じゃな……」
「親戚たちは姉を気遣いながらも、もし姉が亡くなったら跡継ぎはどうするのかと言ってました。蔭杜は女系ですが姉が死ねば直系は俺しかいない。女系だなんて時代遅れだ、結局は当主の息子である俺が継ぐのだろう。もしくは嫁を貰ってその嫁が当主になるのではないか。そんな憶測が流れては子どもである俺に媚びる大人がたくさんいた」
 当主様も親戚の女よりも自分の子どもに継がせたがるに決まっている。いくら掟と言っても現代になってまで捕らわれることだろうか。
 誉君なら健康で、どうやら出来も良いらしい。きっと当主にすることに周りもそう反対はしないのではないか。
 いややはり女ということにはこだわるだろう。ならばいっそ誉君の嫁を当主にさせるのではないか。それが親戚から出てきた女ならば建前も通る。
 そんな話を子どもの俺の近くで交わしていたのだ。子どもの耳に入っても分からないと思っていたのか、大人たちは好き勝手欲望を撒き散らしていた。
「姉がいつ死ぬか分からないと心配したはずのその口で俺に媚びへつらう。俺はそいつらが大嫌いでした。姉の代わりに死ねば良いと思ったくらいに」
 そして今でもその親戚たちの顔を覚えている。その後名前を調べては姉には徹底的に近付けないように突き放していた。
 彼らは当主になった姉に擦り寄って来たが、彼女自身も彼らを排除して今では本家に足を踏み入れることも許されていない。
「姉が今必死になって病気と闘っているのに、どうして大人たちは姉が死ぬことばかり言うのか。信じられなかった。みんな汚い金の亡者にしか思えなかった。父は俺をそんな連中から遠ざけようとしてくれました」
 現在はあちこちふらふらして、身軽に様々な仕事をしている父だ。時折所在が分からなくなり困らせられることもあるのだが、子どもの頃の父はずっと姉の元か、もしくは俺と一緒にいてくれた。
 病弱な姉に、まだ手のかかる年齢の息子。騒がしく毒になるだけの親戚たちから子どもを守るのに父はきっと必死だっただろう。
「だがもっとたちの悪いのがいたんです」
 コーヒーメーカーが赤いランプを灯しては出来上がりを知らせる。マグカップに出来上がったばかりのコーヒーを入れて上総さんに手渡すと気遣わしげな顔をされた。
 悲哀はあまり顔に見せない、淡々とした人だと思っていたのだが。人に同情するという感情は濃いものであるらしい。ただその対象になる相手の範疇は限られているように感じる。
 その中に自分が入れたのは喜ばしいことだ。
「たちの悪いのとは?」
 上総さんはコーヒーを一口に飲むとそう続きを促して来た。
「母です」
 俺の答えに上総さんが瞠目したのが分かる。
 そうだろう、一般的には母親というものは子どもを守るもの象徴とされることが多い。上総さんの中にもそんなイメージがあったのだろう。
「母は子どもの頃から蔭杜の長女として大切に育てられてきました。可愛がられ、何をしても特別であり、優遇されてきた。先代が病気で当主の座から退き、若くして当主になったせいか我が儘な性格で、何事も自分が一番でなくては気が済まなかった。それは自身の娘にまで向けられたんです」
 コーヒーを口に含むと苦いと感じる。だがそれよりも母の記憶はもっと苦かった。
 病気と闘い苦しんでいた娘に対して母は冷たかった。父や周囲の人々が姉を気遣うと、時には早く死ねばいいのにとすら言ったものだ。
 周囲の関心を全部自分のものにしなければ満足出来なかったのだろう。母に冷たくされて傷付く姉を慰める父を見て、母は更に姉に対して酷い態度を取るようになっていった。
(あれは鬼だ)
 母だと、人間だと思いたくなかった。
「こんなことを言ってしまえば息子としては失格でしょうが、事故で亡くなった時にはほっとしました。これで姉が意味のないことで責められることもない。もしかすると姉の容態も良くなるんじゃないかと。実際母が亡くなってから姉の身体も回復しました」
 まるで母が呪っていたかのようだった。実のところ俺の心にはその疑いが闇のように根付いている。
 それほど俺にとって母という人間は信じられず、また冷酷な人だった。
「あれほど姉の死を口にしていた親戚たちも、姉が退院して学校に通えるようになると次々に寄り擦って来ました。それはもう、醜いものでしたよ。蔭杜という蜜に群がる虫のようだった」
 そしてそれは今も変わりがない。
 金が、名誉が、地位が、彼らにとっては甘い甘い蜜なのだ。それは俺にだって理解出来る。それがなければ生きていくことに苦労するだろう。苦渋を舐めて地べたを這いつくばるような暮らしになるかも知れない。
 だがあれほど掌を返して自分の醜悪さも見ないふりをするなんて、人間としての意識が低すぎる。尊厳など初めから捨てているではないか。
「おまえさんは、それが嫌なんじゃな」
「はい。その害が上総さんや志摩さんに向けられたことを思う、本当に申し訳がありません」
 何度目かの謝罪をすると上総さんはマグカップ片手に苦笑した。
「それは最初から察しが付いてたはずじゃろう。誰を選んでも害が向けられる。ならばいっそ無関係な人間からではなく、同じ蔭杜の中から生け贄を選ぼう。そう思ったのではないか?」
 見透かされている。
 そうだ。上総さんに出逢う前はそう思った。
 どうせならば蔭杜の人間を俺の嫁にしよう。そして自分たちの血が、親戚が、どれほど醜いものか見せてやろうと思っていた。
 そして俺の嫁になることで利益が得られると思っているような人間ならば、その害を身に受けて体感すれば良い、そしてその上でまだ欲張るのならば親戚たちと利益の奪い合いでもさせようかという、どす黒い考えもあった。
「否定はしません。ですが俺が貴方を選んだ理由は違います。俺が貴方を選んだのはもっと純粋で!」
 俺の黒いばかりで救いのない計画は結局無駄だった。従兄弟を選ぶという真っ当な道も、結局のところ無駄になっており。俺は自分で思っていた道を完全に外してこの人を選んだのだ。それだけの衝撃をこの人が与えてくれた。
「それはもう聞いた。疑いもしておらん」
 上総さんは繰り返し言うことではないと止めるように、俺にそう言った。素っ気ない返事に少しばかり残念になる。
「しかし女性を入れると荒れるということは分かった。これでは嫁など入れられんな」
「無益な争いを避けるためです」
 少なくとも姉は身内に女が来ることを歓迎はしない。むしろ母との記憶が刺激されて恐怖を覚えることだろう。
 まだまだ健康とは断言出来ない人の身に余計な心労など加えたくない。出来れば心穏やかに平和な日常を過ごして欲しいのだ。
「苦労の多い御人じゃな」
「いえ、貴方を嫁に出来たことを思えば、これくらい何ともありません」
 そう告げると上総さんは気まずいと言わんばかりの表情で目を逸らした。その様をどう解釈して良いのか、俺は答えが見付けられなかった。
 

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