美丈夫の嫁3 1





「今日中に移動して貰います。飛行機の手続きは済んでいますので、このまま空港に向かって下さい。荷物は後ほどこちらから全て発送しますのでご心配なく」
 引っ越し業者が忙しなく家にある荷物を片付けている。その横で俺はスマートフォン片手にそう指示を出していた。
 一度動き出した流れは止められない。俺はいつ鳴るかも分からないスマートフォンを気にしつつ、男を睥睨した。
「待って下さい!俺は少し、ちょっと接触しただけじゃないですか!大学が同じなんです!会うのは仕方がないでしょう!」
 摩さんに言い寄った馬鹿な男は、すがりつくように懇願した。俺にその手を伸ばそうとして、近くにいた従兄弟に取り押さえられる。
 幼馴染みのようにして育っただけあり、従兄弟はこういう時の人間が凶行に走ることもよく知っている。下手な護衛を連れて来るよりも、従兄弟を連れて来た方が便利で信用も出来た。
「それで自宅まで押しかけますか?」
「好きになったらそれくらいのアプローチは許されるでしょう!」
「接触するなと言っていたはずですが?」
 おまえの気持ちなどどうでも良いのだ。志摩さんがどう感じるのか、どう解釈するのかということしか興味がない、意味がないのだ。
「第一何故このタイミングで好きになったのですか?同じ大学で意図せず接触してしまうくらいの近距離で生活していたのならば、これまでも会う機会はあったはず」
「好きになるのにタイミングなんて関係ないでしょう!?」
 馬鹿の癖に正論を吐いた。
 そんな目で見てしまって、我ながらいけないと思い瞬きをする。相手に正論を吐かせるのは良くないことだ。それだけ今の俺は冷静さが欠けているらしい。
「そうですか。たとえそうだったとしても禁じられていることに違いはない。それ相応の対処をすると言ったはずです。今一度こちらに署名を」
 引っ越し業者の中で一人浮いているスーツ姿の男から契約書を貰う。屈強な身体付きをしているが、これでも行政書士である。
「署名します!だから海外に飛ばすなんて止めて下さい!」
 バインダーに挟まれた契約書に男は噛み付くのようにして署名をしている。走り書きで綴られた名前、その乱雑さは彼自身の身の振り方のようだ。
「書きましたね。ではこれは頂いていきます」
 名前を確認すると俺はそれをすいっと奪い取った。行政書士の手に渡せばこれで完了だ。後はこの男を日本から追い出せば良い。
「海外でも学ぶことは出来ますよ。貴方も大学生の身なのですから勉学に励んで下さい。もっとも、貴方の成績と出席率を見る限りあまり熱心な学生とは思えないようですが」
 男の名前を聞いた時にすでに身元は調べてある。親戚なのだからデータを集めるのはあまりにも簡単だった。
 何かあった時のためにと、いつでも親戚についての情報は収集してある。揉め事を起こすのは外部より内部の方が多いのだ。実に嘆かわしい。
「それはこれから!」
「これからという時間はありません」
 人間には今という時間しかない。これから、明日からなどという単語を出して逃れようとする者に、次の瞬間など訪れるものか。
 男の願いを無下にすると、泣き崩れていた男の母親が足元に縋り付いてくる。跪くような体勢を取られるのだが、それで哀れみを抱くのは無理だろう。みっともない、よくこんな事が出来るものだと呆れる気持ちならばあるが。
「どうか許して下さい!今から突然ベトナムに行けだなんて!私たちには無理です!」
「それは息子さんに仰って下さい」
 まるで俺が突然こんな暴挙に出たように言うけれど。全ては息子が引き金を引いたことだ。説得も嘆きも自分の息子に向けて貰いたい。
「誉さん、到着されたようです」
 引っ越し業者の責任者が耳打ちをしてくる。それを合図にしていたかのように、怒鳴り声と共に一人の男が荒々しく玄関から上がって来る。
「これはどういうことだ!誰の許可を貰ってこんなことをしている!」
 ブランド物のスーツを纏っている中年の男が引っ越し業者を罵倒しながらずかずかとリビングにやって来た。高圧的な態度は常日頃からそうなのだろう。役職に就いていると、どうにも自分を人間として偉いものだと勘違いしがちであるが、この男もそのタイプのようだ。
「お早いお帰りですね」
「誉さん!いきなりこれはどういうことですか!いくら貴方でも横暴が過ぎる!」
「貴方の息子さんは触れてはならないものに触れたんですよ」
「その、志摩さんと言ったか、貴方の妻の妹は。彼女に接触したからといって、これはいくらなんでもやり過ぎでしょう!」
 ここに来るまでにある程度の説明は聞いてきているらしい。そうだとしても話し方にところどころ横柄な部分がある。せめて妹さんと言って貰いたかったものだと、些細なことに神経が逆撫でされる。
 誰のせいで上総さんに離縁などという単語を口にされたと思っているのだ。
「志摩さんの家に押しかけて居座り、脅迫まがいのことまでしたそうです。警察沙汰ですよ。ですがそれでは貴方の外聞も悪い。身内で処理しようという、謂わばこれは温情ですよ?」
 無論今から警察沙汰にも出来るのだが、それでは志摩さんも大事になったと思うだろう。大学でも妙な方向で名が知られてしまう。あの兄妹はそういう騒動を厭いそうだ。
 平穏に暮らしたいとすら言い出しかねない二人に対して、その対処は賢明ではない。
「おい!そんなことをしたのか!?」
 父親は息子を威嚇するように詰問している。それに息子は首を振った。
「し、してない!」
「言いがかりじゃないですか!?証拠はあるんですか!?」
 思わず肩をすくめてしまった。
「先ほど息子さん自身が認めてましたよ」
「認めてない!家に行っただけだと!」
 司法書士がボイスレコーダーを片手に持って息子に見せた。それに顔を引き攣らせたのが見えたけれど、録音出来た発言がやや正確性に欠けるのは俺も分かっている。
「入り込んだでしょう?女性専用アパートに。どうやって入り込んだのかもアパートに付いている防犯カメラに映っていますよ。他の住人の後ろについて入って来たと」
「その人とは知り合いで!」
「裏付けは今すぐにでも取れるんですよ?それに志摩さんの隣の部屋の住人が言い争う声も聞いているでしょう。自分の首を絞めるのは楽しいですか?」
 息子の発言は重ねれば重ねるほど、自分を窮地に陥れるだけだ。俺の機嫌をどんどん損ねていくのだから。
 声音が冷えていくのが自分でも分かる。
「待って下さい誉さん!この通り!息子には二度とこのようなことはさせないと誓う!」
 父親はその場に土下座をして願い出る。それに息子も倣っているけれど、その後頭部を踏みつけたくなるだけだった。
「頭を上げて下さい」
 出来るだけ柔らかい声でそう語りかけた。それに父親と息子は安堵したように顔を向けて来たのだが、それに俺は微笑んで見せた。
「貴方の土下座にどれだけの価値があるのですか?まさか私の決定よりも重いものだとでも?それに人に注意されなければやって良い事と悪い事の区別も付かないような人間は、蔭杜にいて貰っては私たちの不利益になります」
 おまえの土下座に価値などない。見苦しいだけだから止めろ。
 ただそれだけの制止でしかない。
 親子の顔に絶望が広がっていくが構いはしない。上総さんのあの凍り付くような怒りの込められた声を思い出せば、目の前に人間に対しての哀れみなど湧いてくるわけもない。
「大丈夫です。貴方の仕事のポストは今向こうで用意しています。ご活躍を期待していますよ」
 閑職に飛ばすわけではない。仕事が無能ではない父親を無駄にしないためにも、ベトナムでもしっかり働いて貰うつもりだ。
「そんな!」
「奥さん」
 父親の顔はもう見ることなく、項垂れて泣き始めた母親に声を掛けた。両手で顔を覆っている母親は返事も出来ないようで嗚咽だけが零れていた。
「貴方のご実家は蔭杜とは無関係です。ここで離婚をされ、ご主人息子さんと縁を切ると仰って頂けるのであれば、二人と一緒に日本を出ることを強制はしません。ここに留まられて今のお仕事を続けられるように配慮も致しましょう」
「本当ですか!?」
 泣いていた母親は、泣き顔に驚愕を張り付かせては俺を見上げてくる。そこには色濃い喜色が滲んでいた。
 母親は蔭杜の人間ではないけれど、正社員として働いている会社は蔭杜の息がかかっている。きっと蔭杜に目を付けられてしまった以上は、今の会社では働けないと思ったのだろう。
 それが覆された喜びだけが見えた。
 夫と息子を捨てろと言われているのに。
「何故こいつだけ!!」
「今すぐ別れます!」
 母親は俺の予想通り、夫と息子を即座に切り捨てた。これまで十数年続けてきたはずの家族は一瞬で崩壊したのだ。
 断言した母親に息子が愕然としていた。俺がかけた冷たい台詞など比べ物にならないほどの衝撃が走っていることだろう。もしかするとベトナムに行けと言われた時以上かも知れない。
 その衝撃を与えたいがための駆け引きだった。
「ではこちらに署名をして頂きましょう」
 司法書士が今度は離婚届を母親に差し出した。父親は「離婚などしない!!」と悲鳴のように喚いているけれど、それに母親はこれまでの不満を一気にぶちまけ始めた。
 元々あまり仲の良い夫婦ではなかったのかも知れない。
 だがあまりの醜態に息子はその場にしゃがみ込んだまま頭を抱えて泣き始めた。
 地獄絵図とはまさにこのような光景を言うのだろう。
「親戚には本当に容赦ないな」
 従兄弟は音を立てて崩れてしまった家族の絆にそう呟いた。それに俺は再び微笑んだ。
「この手の輩は大嫌いなんだ」
 侮辱されているはずの家族は誰一人俺の声なんて聞いていない。自分の置かれた状況を嘆いては泣き、怒り、我を失うのに精一杯であるらしい。
 自分のことだけに捕らわれる。周りが一切見えなくなってしまう。
 だからこそ、今こんな状態になってしまったのだという自己分析は出来ないらしい。
「よく知ってるよ」
 引き攣った顔を見せた従兄弟には、人間の嫌な部分を見せる時によく同席させてしまって申し訳ないという気持ちがある。
 同時におまえだけは向こう側に回らないで欲しい、回った時はこれほど容赦しないのだからという警告も含めていた。
(上総さんには見せたくないな)
 自分がこれほど冷酷であるところも、蔭杜の名前に群がってくる底の浅い人間たちの有様も、どうか知らずにいて欲しいと思う。だが俺の近くにいる限りは、いつかは知る時が来るのだろう。
 その上でまだ嫁でいて下さいなんて、どの面下げて言えるのだろう。
(でも俺は恥知らずとしてあの人に願い出るだろうな)
 それこそ土下座をするのだろう。
 何の価値もないと言ったはずなのに。
 

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