美丈夫の嫁2 9





 二泊しただけなのに、蔭杜にある美丈夫の家にはかなり久しぶりに戻って来たような気がした。
 それでもまだ自宅という感覚はない。職場よりかはリラックス出来るだろうか、という程度だ。
 大体俺がいなくとも部屋は片付いており、綺麗なまま。他人が掃除して管理している家を自分の居場所だと思え、という方が俺にとっては無茶なことだ。
 そしてきっとこの感覚は美丈夫には分からないことだろう。この人と感性が合致することは、たぶん有り得ないのだ。
(生まれ育った環境に大きな差があるというのは、日常の些細なことでもすれ違うもんじゃ)
 どうしようもないことを嘆くつもりはない。そもそも分かり合おうともあまり思っていないのだ。
「今日は自分の部屋のソファで寝ます」
 俺はリビングに入るとすぐにそう言った。一息つく間もなく宣言したのは、油断すると志摩がいつ突撃してくるか分からないと思ったからだ。
 志摩に訊かれたくない話はさっさと解決してしまった方が良いだろう。
 俺が与えられている部屋にはずらりと並んだ本棚だけでなく、座り心地の良いソファが置かれている。それは背もたれを倒せばベッドにもなるタイプのものだった。
 読書中に眠気に誘われたらそのまま眠れるように、という素敵なデザインは俺のお気に入りだ。休みの日はのんびりそこでうたた寝するのが至福の時間だった。
 しっかりとした作りのソファは長時間の睡眠にも支障はなく、今夜はそこで過ごすつもりだった。
 だが俺の発言に美丈夫はふっと顔を強張らせた。かと思えば酷く冷たい、挑みかかるような双眸で見詰めてくる。
 ぞくりとするような眼差しに俺は息を呑んだ。決して進んではならない過ちへと、足を踏み出してしまったような危機感に襲われる。
「何故ですか?」
 機械的な声だった。しかしその奥には激しい何かが渦を巻いている。怒りか苛立ちか、少なくとも美丈夫にとって歓迎出来るものではないだろう。
 ではなければ問い詰める空気がこれほど鋭いわけがない。
「志摩が、突然ふらりとこの家に入ってくるかも知れないので。あの子は時々突拍子もないことをしますから。同じベッドで寝ていたら驚きます」
「それが俺達の普通でしょう」
「そうですが」
 いつの間にかそれが日常になっていた。
 俺だって最初はどうして一つのベッドなのか、いくら親しさを持たせるためとは言え、随分な手段をとったものだと呆れた。
 だが美丈夫はすぐに寝付く上に寝相も良い。ベッドは広くて人間がもう一人寝たところで狭さなどなかったのだ。目を閉じてゆったりと身体を伸ばせば、美丈夫がいることも眠気と共に忘れられる。
 そうして何日も過ごす内に、俺の身体は美丈夫が隣にいても意識せずに平然と寝るようになった。
 美丈夫と寝るのが普通になったと言えば、普通だった。
「夫婦です。離縁を、俺は認めていない」
 美丈夫の眦が釣り上がった。敵意にも似たような視線を向けられるのは初めてのことで、面食らう。
 顔の整っている者が憤りを露わにすると、それは大変な迫力があった。圧倒されるに充分なのだが、それでも美しさが損なわれない、むしろ増したように見える。
 怒りすら自分の彩るスパイスの一つにするのだから、この男は本当に心身共に優れている。
 しかし感心しながらも背筋に走る冷たさはなんとかして貰いたい。
「離縁という問題ではなく」
 美丈夫を遠ざけるため、嫁などという馬鹿馬鹿しい立場を捨てるためにベッドから出るわけではない。
 美丈夫はどうやら早とちりをしたらしい。しかし俺が否定したところで凄みを増して俺を凝視する。
「ではどういう問題ですか?」
「純粋に、男二人が同じベッドだと、誤解されるでしょう」
「誤解?」
「志摩は、貴方をゲイではないかと思っています」
 本人に向かってこんな事を言うのは気が引けるのだが、俺の発言の意図を伝えるためには仕方がないだろう。
 それに志摩にそういうことを思わせた美丈夫にも、己の言動に注意して欲しいという願いもあった。
「俺はゲイではありません」
「でしょう。なので」
「ですが貴方のことは好きです。だからこそ嫁に来て下さいと申し上げました」
 ゲイではない。俺としては当然だと思っていたその返事に、奇妙な続きが付属した。
「……その好きとは、好ましいという意味でしょう。ゲイとか、そういうことは無関係で」
 嫁という立場を埋めるために丁度良かった。性格もそれほど難があるわけでもなかった。その好きは求めている役割に適しているので好感を覚えた、という意味合いだろう。
 わざわざこんな基本的なことを声に出して確認するのも手間だと思ったのだが、ちゃんと正しい理解を互いにしておいた方が良いだろう。
「ですが貴方に対して性欲を持っているという時点で男色だと言われても否定はしません」
「………はい?」
 まただ。
 この人は突然理解出来ないことを言い出す。そして俺は耳を疑って「はい?」を連呼する羽目になるのだ。
 このパターンにまた入ったのかと、気が遠くなるものを感じていると、美丈夫が溜息をついた。
「前々から思っていましたが、貴方は俺の気持ちを勘違いされている。俺が貴方に向ける気持ちはただの好意ではありません。まして蔭杜のことを考えての打算でもない」
 美丈夫は先ほどまでの威圧感を潜めませた。その代わりに真摯な声音でゆっくり、子どもにも分かるように、丁寧に喋ってくれた。
「俺は純粋に貴方が欲しくて嫁にしました。貴方を手に入れるために。もっと俗な言い方をすると、貴方に男女のごとき肉体関係を求めています」
 俗なこと、と言いながらも美丈夫が言えば妙に文学的に聞こえてくる。まして男女のような肉体関係だなんて、そんな表現を昨今の二十歳が言うだろうか。いやきっと言わない。
 そもそも肉体関係だなんて、文字として書き表されることはあっても会話の中に出てくることはそうないだろう。せいぜい裁判などの公の場ではないだろうか。
 だが美丈夫ならばその言い方がしっくり来る。
 しかし今、そんな美丈夫の言葉使いに感心している場合ではない。言われていることは天地がひっくり返っても異常だとしか思えないことなのだ。
「……はい?」
「ご理解頂けませんか」
「……わ、分からん!おまえさん何を言った!?」
「貴方に肉欲を抱いてます」
「は!?」
 なんだその肉欲というのは。お肉大好き!とでも言えば良いのか。だがここでそんな阿呆丸出しの発言をしても白けるだけなのは分かっていた。
 そして美丈夫の優秀な頭が肉欲の意味を知らないわけがないだろう。
「……分かって頂けてないのは薄々感じていました。貴方の態度は少しばかり親しい知人に対するものに違いなかった。でなければ貴方に対して欲情している男の横で、安眠するなど貴方の性格では無理でしょう」
 美丈夫はやれやれとでも言いたそうに、少しばかり疲労を滲ませている。これまで自分は大変だったのだと、苦労を忍んで欲しいかのようだ。
 けれど俺は何も知らなかったというか、そんなことがあるわけがないと端っから決めつけていた。可能性を視野に入れることすらなかったのだ。
 今、この瞬間まで一切だ。
「か…考えたこともないわい!」
「では今申し上げます。俺は貴方が好きで、貴方に欲情し、貴方の夫であることを譲るつもりはない」
 美丈夫は胸を張って、そう公言した。それは告白と言うには一方的で、ほぼ命令に近い響きであっただろう。だが思い返してみればそんなことは同居する前に済ませておくべきことだった。
 いや、もしかすると美丈夫の中ではそういうことを全部織り込んだ上で嫁に来て欲しいと言っていたのかも知れない。
 普通の男女ならばその意味合いが含まれる。
(じゃが俺は男じゃ!)
 政略的なことだけだと思いたいのも無理はないではないか。
「む……無茶じゃ!無理じゃろう!」
「何がですか。俺がですか?それとも男だからですか」
「どっちか分からんが!そもそも、なんで貴方が俺なんぞに!?欲情!?意味が分からん!」
 何がどこが欲情するのか。この顔か、身体か。いやどっちも魅力なぞないだろう。
 そういえば前にどうして俺を選んだのかと聞いた時に「澄ました猫みたいだったから」というようなことを言っていた。その時も全く分からないと思ったのだが、欲情とまで来ると更に混乱を極める。
 同性の何に心惹かれるというのか。ましてどこに欲を掻き立てられるのだ。
 俺は乳もない、尻の膨らみもない。柔らかなものはなく、かと言って筋肉もないので無い無い尽くしだ。
「気持ちが悪いですか?」
「そういうことじゃない!」
「ではどういうことですか?」
「おまえさんが俺を選ぶ理由が分からん!もっと良いのが男でも女でもいくらでもおる!」
 美男美女選びたい放題であるはずだ。美丈夫なら男でも抱かれたいと思う者はいるはずだ。いや、美丈夫が抱かれる側に回りたいのかも知れないが。それでも答えは同じだろう。
 この男が望むならば、と自らを差し出そうとする者は多いはず。なのにどうしてそんな気持ちにもなれていない、平々凡々の俺を相手にしようとするのだ。
「貴方が好みだからです」
「悪食じゃ!!!」
 もはやこれという答えもなかった。好みだなんて非常に曖昧で範囲の広すぎる反応に俺は悲鳴を上げることしか出来なかった。
「自分では悪くないと思っています」
 悪い悪い、誰が聞いても最悪の趣味をしていると言うはずだ。
(この人は頭も肉体面も健康も性格も悪くない。ただ一つ、好意を寄せる相手の趣味が悪いんだ)
 そうだ、どんな人間にも欠点というものが存在する。
 美丈夫の場合は嫁の選別に対しての意識が最低だったのだ。
 完璧な人間など存在しなかったんだ。
 同じ人間としては喜ばしい発見だが、嫁にされようとしている俺個人としては卒倒しそうだった。


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