美丈夫の嫁2 10





 唖然としている俺に美丈夫は大きく息を吸い込んだ。気合いが入ったのが分かり、これ以上の衝撃が来るのかと身構えてしまう。
「それで、どうされますか。離縁だと仰いますか?」
(どうする……)
 志摩が泣くなら、家族に迷惑がかかるならば離縁しかないと思っていた。蔭杜とは付き合っていけないと思った。
 しかし自分の身が危ういから、となると何とも判断に困る。第一危ういとは言うけれどすでに十数日を平和に過ごして来たのだ。
 美丈夫の心境を知らなかっただけで。
(でもここから変わるか!?身の危険とやらが来るのか!?)
 貞操に関して守りに入らなければいけなくなるのか。
「もし今気持ち悪くないのであれば、どうかこのまま続けてみませんか。どうしても駄目なら、嫌悪するというのなら俺も考えます」
「それは」
「貴方に手出しはしません。寝室を分けることも考慮します。ですが何も試すことなく、貴方の気持ちも分からず、逃げられるというのはやはり辛い」
 お願いです、と美丈夫は先ほどまでの勢いを削いで弱腰で頭を下げた。
 切実な様に俺に対してそんな風になる必要などないだろうにと言いたくなる。
(どうして俺なんじゃ)
 その気持ちに真っ正面から悩み、受け止めるなり、拒むなりを全力でしてくれる者ではなく。どうしてこんな風に人に流されてここまで来てしまった俺なのか。
「上総さん」
 顔を上げた人に結論を求められ、俺は「う」と詰まった。その縋り付くような目に弱いのだと自覚があったのに、かっちりと視線が絡まってしまった。
 じわじわと崖に追い詰められていくようだった。一秒ごとに心臓が忙しなくなっていく。大抵思考回路は衝撃を受けた後は時間の経過と共に冷静になっていくものだろうに、美丈夫に対してだけは反対に崩壊が加速されるのだ。
「俺は、貴方が言葉にされるまで引きませんから」
 黙り込んでしまった俺に焦れたのか、美丈夫に肩を掴まれる。
「駄目だと言うまで、諦めません」
 言ったところで貴方は諦めるのか。
 そんな純粋な疑問があるのだが、それを問うより先に美丈夫の唇が目の前に迫った。口付けられる、そう思ってぎゅっと目を閉じた。身体は自然と一歩後ろに逃げようとしたけれど、美丈夫の手に捕まっている。
 動くことが出来ないと分かった俺の目尻に柔らかなものが押し当てられた。
 それは宣戦布告だったのか、口付けではなかったことに温情を見れば良いのか。俺には分からずただ無性に恥ずかしくなっては、再び目を開けるのにそれから何度も大きな鼓動の音を聞いた。



 眠れない夜だった。あんなことを聞かされたのに、俺たちは同じベッドに転がったのだ。
 寝室を分けることは決定的な仲違いに繋がると思った俺の不安と、美丈夫の「すぐ寝ます」という発言を信じた結果だ。
 この人は寝ると言ったら本当にすぐに寝る。
 スイッチによって切り替えがされているのかと思うくらい、あっという間に深い眠りに落ちるのだ。
 これまでも隣で俺が寝ていても関係無く熟睡していたのはその体質のおかげであるらしい。
 好きな人が隣にいると意識して興奮する、欲情するよりも眠気が勝るらしい。大変に有り難いことだった。
 何の心配も無さそうに安眠の中にいる美丈夫を眺めながら、俺はどうして自分がここにいるのか。この人が俺を好きだなんて嘘ではないのか。明日になったら「からかってみただけです」と言わないだろうかと思った。
 けれど美丈夫の性格から考えて、たちの悪いこういう悪戯めいたことはしないだろう。
 ではこれから俺はどうすればいいのか。この人は俺に無体を強いたり、暴行めいたことはしないと誓ってくれた。不埒な意味で身体に触れることもない、嫌だと言われればどんなことでも止めるとすら言ったのだ。
 紳士的に付き合うつもりなのだろう。
 だが俺は男であり、美丈夫とは同性で、恋人だの夫婦だのになるわけがない間柄である。
 そんなことを言えば、おまえはもっと前からそう気付くべきだろうと思われるかも知れないが。美丈夫が恋愛感情を持って俺を嫁にしようとしていたなんて、正気では考えつかないことだ。
 嫁。そう、俺は蔭杜では美丈夫の嫁という目で見られているのだ。
(しかし俺を好きだなんて、あるわけがない現実じゃろ)
 契約だ、飽きれば終わる。むしろいつ終わってもおかしくない。明日にも叩き出されるかも知れない。
 その不安定さの中に立っていた。むしろその不安定さに自分を保っていた。こんなおかしい状況だって一時的なものだから、すぐに過ぎ去ってしまうのだと自分に言い聞かせていたのに。
 枕に顔を埋めて、その夜の俺はひたすらに悩んでいた。頭がショートするほどに悩み抜き、気が付くとアラーム設定になっていた携帯電話が震えていた。
「おはよー」
 朝食の準備を始めた頃に志摩からメールから送られて来た。起きたからそっちに行きたいというものだ。
 俺は目覚めていたので了承し、ただし飯はまだ出来ていないと付け加えていた。
 志摩は返事よりも先に家の玄関を叩いた。インターフォンを鳴らしては音が大きく、他の人の迷惑になるので止めろと昨日の時点で言っていたので、ノックに留めている。
 朝の静けさの中ではノックの音もちゃんとキッチンまで届いてくる。耳を澄ませていたというのもあった。
 ドアを開けてやると、志摩は朝食が出来るまで抜き打ちチェックと言っては家の中を探検し始めた。俺がどんな生活をしているのかその目で確かめているのだろう。
 俺の部屋を見た時の歓声は明らかに羨望が混ざっていた。志摩も本を読むのは嫌いな子ではない。この子は漫画の方が好きだろうが、それでも本がみっしりしている光景は心躍るものであったらしい。
 美丈夫の部屋と寝室はさすがに不躾であると分かっているらしく入っていない。他の部屋は客間や普段使われていない部屋で正直見られたところで生活感すらないだろう。
 志摩にちょいちょい注意をしながらも好きなようにさせていると、丁度調理が終わった頃にキッチンに帰ってきた。
「もしかして寝室があるの?誉さんと一緒?」
 俺の部屋にベッドらしきものがなかったのに、気が付いてしまったのだろう。内心どきりとしながらも平静を装う。
「ああ。本棚がその分置けるじゃろ」
「そうなんだ。気を使わない?いびきとか」
 志摩はこれだけ部屋があれば寝室というものが自室とは別にあることに、変だとは思っていないらしい。まさかベッドまで一つとは想像もしていないだろうが。
「いびきは二人ともかいとらん。少なくとも誉さんは静かで大人しい。いつも先に寝ておるし、雷が近くに落ちても起きんくらいにぐっすりじゃ」
 そんなことを喋りながら俺は食卓にトーストを並べていく。
 ツナマヨコーンのトーストと、林檎ジャムのトースト。志摩は二枚も食べられないのでそれぞれトースト半分ずつで作った。残りの半分はまた今度俺が三時のおやつにでも消費するつもりだ。コンソメスープは昨日の夜に仕込んである。ごく少量のサラダを飾りとばかりに小さく盛りつけた。
 簡単な朝食だが志摩は「お兄ちゃんのご飯!」と喜んでくれた。
 俺とはいえば約二日間家を空けていたにもかかわらず食料がきちんと補充されているこの環境に感動した。ここのお手伝いさんは本当に気が利く。
 さてそろそろ美丈夫が起きる時間だなと思っていると、呼んでもいないのに美丈夫がキッチンと続きになっているリビングにやってきた。
 毎日平日はこの時間に起きてくる。遅刻する、寝過ごすなどということのない人だ。
 しかも寝起きでもきっちり身支度を調え、眠気など一切無く精悍な顔つきと隙のない立ち振る舞いだ。
「おはようございます」
 会釈をする人に志摩もまた同じ挨拶をしているが、ちらりと俺を見た時に残念そうな表情をみせる。寝起きなのだから気の抜けているところが見られると思ったのだろう。
 三人で食卓に着く。普段は対面式キッチンに二人並んで食事を取るのだが今日は三人ということで、キッチンと繋がっているリビングにあるテーブルで向かい合わせになった。俺と美丈夫、正面に志摩という形だ。
 窓から差し込んでくる光の角度に、朝からここに三人いることが奇妙な感じだった。だが二人は同い年の大学生同士ということで互いの大学の話題で意外と盛り上がっている。
 蔭杜の人間だからと警戒はしているだろうが、かと言って志摩もこうして食事の時にわざわざ刺々しい雰囲気になるつもりはないようだ。
 美丈夫は元々志摩に対して友好的だ。自分の大学にいるおかしな講師についてあれこれ面白そうに語っている。
(志摩の方が似合っておるのにな)
 こうして見ると美丈夫と妹は悪くない組み合わせではないだろうか。なのにどうして、この人は妹ではなく兄である俺を選んだのだろう。益々不可解だった。



 朝食の時間はあっという間だった。穏やかな空気は名残惜しいが通学の時間が迫る。俺も仕事に行かなければいけなくて、いつもよりゆっくり取った食事の時間のせいで慌てて出勤準備をする羽目になった。
 美丈夫は気を利かせてくれたのか、いつもより早く一人で先に出ていった。
 俺は志摩と二人、玄関に鍵をかけながら腕時計を気にする。まだ遅刻にはならないだろう。
「誉さんのことは嫌いじゃない。環さんも、もちろん」
「そうか。昨夜は楽しかったか?」
「うん」
 今朝家に入ってきた志摩の顔を見て、環さんとの女子会が良いものであったことは分かっていた。陰りを消し去り溌剌とした様は何も訊かずとも俺に答えを教えてくれていたのだ。
「そりゃ良かった」
「でも、お兄ちゃんが嫌ならいいんだよ」
 何も考えずに投げ出してもいい。そう言った子の隣で俺はカチャンと音を立ててかけられた鍵に苦笑した。
(嫌かどうか。そんなの俺だってもう分からん)
 好きか嫌いか。そんな目で美丈夫を見ていなかった。そういう対象にされるのも初めてのことだ。
 何が正解なのか、俺はこれから一人で答えを見付け出さなければいけないのだろうか。






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