美丈夫の嫁2 8 「貴方を二度とこんな目には遭わせません。守ると誓います。私たちにもう一度チャンスを頂けませんか?」 志摩の嗚咽が多少ましになった頃、環さんはそう尋ねてきた。その問いに志摩はびくりと肩を震わせる。 ここに来るまでは嫌だと突っぱねていたことだ。蔭杜とは縁を切るべきだと言い張ってきていた。 けれどその蔭杜の主の腕に慰められているのだ。割と気まずいだろう。 「お願いです。貴方を守るチャンスを、どうか」 本来ならば蔭杜の当主が志摩にこうして懇願などする必要はない。被害に遭った、だからどうしたと放り出してもおかしくないようなことだ。環さんが直接志摩に何かしたわけではない。ただのとばっちりだった。 けれど責任を感じてそう願い出てくれる人に、志摩はゆっくり顔を上げた。真っ赤になった瞳で俺を見ては確実にどうしようかと迷っている。 「私は……兄が、辛い思いをしていないか。私と母のために、我慢をして。耐えていないか、それが怖くて」 「幸せにします!上総さんは幸せにしてみせます!だから離縁などとは仰らないで下さい!」 それまで黙って控えていた美丈夫が突然意気込みを見せる。 あまりにも力の籠もった発言と声量に、志摩がまたびくりと震えたのが分かる。面食らっては威圧されたように身体を小さくしている。 無理もない。美丈夫の一番近くにいた俺だって反射的に一歩距離を取ったくらい。鬼気迫るものがあったのだ。 妹の優しさに心打たれているゆとりもない。 「……それは、私が、決めることでは」 志摩は気合いの入った美丈夫に呑まれてしまったらしい。怖ず怖ずと目を逸らしては俺の助けを求めてくる。 一人で決められることではない。 それは俺が昨夜美丈夫からの電話に対しての返事と同じものだ。兄妹揃って自力での決断を避けている。 しかし言い換えれば自分一人だけでも強引に決断が出来るということだ。相手に決断を委ねることで、どんな結末になっても受け入れるという体勢の変化だった。 つまり俺が蔭杜と繋がったままでも今は構わない。そう言ったも同然だ。 (まあ、このザマじゃからな) 環さんに抱き締められて安堵しているような有様だ。蔭杜の何もかもが嫌だ、なんて口が裂けても言えないだろう。 「……でも男の嫁なんて、やっぱりおかしいですし」 「そのおかしさを塗り替えてみせます!お願いします!」 美丈夫がその場に膝を突き頭を下げようとした。 (土下座!?) まさか、いやそれはいくらなんでも! 「待って下さい!」 こんなことで美丈夫に土下座などさせられるわけがない。まして周囲は立ったままであり、その中での土下座などあまりにも意味が重い。俺は焦って共に膝を突き美丈夫の肩を掴んだ。意地でも頭など下げさせるものか、そんな罪悪感の塊に強打されそうな行動は見てられない。 「上総さん」 俺は、と熱の籠もった眼差しで何かを告げようとする美丈夫に俺は目を逸らした。真っ向から見るには破壊力の強い顔面をしているからだ。 どんなことを告げられても「はい」と言い出しそうな自分がいる。 「志摩さん、少し待って頂けませんか?今すぐ答えが出せることではないと思います。何より誉がこんな感じですので、もう少しだけお時間を下さい」 混乱が深まる場に、環さんは鶴の一声とばかりにそう言った。このまま話し合いをしようとしてもぐちゃぐちゃになるだけだろう。 「お二人の身は必ずお守りします」 ふわりと微笑んだ環さんに志摩は頷くべきかどうか躊躇したようだった。結局兄妹は目を合わせ、しかし出てこない答えに曖昧な表情を浮かべる。 志摩はそっと目を伏せると深く息を吐いた。 「私、お兄ちゃんのご飯が食べたい……」 こんな時に何を言い出すのか。環さんもきょとんとしている。美丈夫など言わずもがなだ。 「もう、晩ご飯は食べただろうが……」 「朝ご飯でいいから。だから、泊めて下さい」 泊まることは構わない。というのが蔭杜側の答えだった。 むしろこれまで一度も来なかったのが寂しかった、とすら言い出しており。蔭杜本家筋は俺たちが思っていたよりも、ちゃんと俺たちと関わりを持とうとしていたらしい。 こちら側はてっきり俺が人身御供のように嫁に持って行かれるだけで、後は親戚でも何でもない、赤の他人のような認識で捨て置かれているのかと思った。 蔭杜の周囲は俺たちに興味を示しても、本家筋は志摩にも母にも関心など欠片もないものだとばかり考えていたのだ。 しかし志摩が俺と美丈夫が暮らしている家に泊まるつもりだった、というのには難色を示した。 俺が、だ。 「おまえは女の子だろう。男がおる家に軽々しく泊まるのは良くない」 「本家にだって男の人はいるでしょう」 「夜の本家におるのは環さんのお父さんと旦那さんだけと聞いてる」 環さんの気持ちを配慮して、蔭杜に使えている男連中は夜は本家の住居にはおらず、敷地内にある従業員専用の別宅に待機をしているらしい。警備の問題で男を排除することは出来ないそうだが、それでも本宅とは切り離されている。 「環さんの旦那さんは環さん以外目に入らんような御人だ」 志摩がいようがいまいが、男でないなら全く興味はないだろう。 「それじゃまるで誉さんが私に興味があるみたいじゃない。誉さんは私なんて目に入らないでしょう?」 「失礼かも知れませんが、志摩さんにそういう対象としての興味はありません」 志摩の問いに美丈夫は至極真面目に答えてくれた。ここであります、なんて冗談でも言うような性格の人でないことは知っている。 「ほら」 「そういうことじゃない。分かってるだろう。本人たちの問題じゃない、周りがどう思うか、何を言うかだと」 年頃の男女が一つ屋根の下で寝泊まりをした。何かあったわけでもないのに、その事実だけで騒ぐ連中というのはどこにでもいるのだ。 ましてここは旧家で格式高いお家柄だろう。志摩が泊まって過ちでもあったなら、と陰口でも叩かれては双方共にたまったものではないはずだ。 「蔭杜はそんなことを言い出すんですか?」 「そのような話をする者を雇い入れることはありません」 環さんがきっぱりと断言してくれる。ここの雇用体勢は充実していそうだが、規約が多そうだなと思う。 特に内側の情報を外に漏らした場合など社会的に消されそうだ。 「大体お兄ちゃんの妹じゃない。兄妹が一緒に寝泊まりするのがおかしい?」 「いや、だから」 俺だけならば問題などあるわけがないのだが。一応成人男性がすぐ近くの部屋で寝ている家というのは心許ないだろうに。 まして自宅に男が押し入った後だ。怖くないのだろうかこの子は。 「客用の布団もなんもないんだよ」 「いいよ、ソファでも床でも」 「志摩さんにそのようなことはさせられません」 どこでも眠れるという子を美丈夫が即座に止めている。しかしうちに寝具の予備などあるのだろうか。押し入れの中など見たけれど布団の類はなかったような気がする。 本家から運び入れるのか。入れるとすればどこに。 そもそも、だ。 (あの家にはベッドが一つしかない現実をどう説明せよと?) お兄ちゃん、実は美丈夫と共寝をしとるんじゃ。など絶対に言いたくない。 志摩の顔がどんな表情を浮かべることか。少なくともまともな話が出来るとは思えなかった。 「ならうちに泊まって下さい!」 環さんはぽんと手を叩いてそう発案した。それはいつかを彷彿とさせる。 確かあれは親戚に俺を紹介する際、嫁に行かないでと泣きついた志摩にあれこれ着物を着せる時の流れだった気がする。 「えっ」 「女子会をしましょう!」 そういえばこの人女子会がしたかったと言っていた。今がそのチャンスだと思ったのだろう。 喜々として志摩を見ては「ね、ね!」と少女のように興奮しているらしい人に、志摩はあわあわと慌てている。 (あー、これ見たことがあるわい) 飲み込まれるやつじゃ。そう思った。 押し切られることが大前提であり、志摩は「ご迷惑じゃ」と社交辞令と共に辞退を申し出ようとしていたが「まさか!迷惑なわけがありません!」と更にテンションを上げた環さんに反撃されている。 「朝御飯だな。明日は何時に起きるつもりだ?俺にも仕事があるぞ」 さすがに志摩の大学の講義時間を全て把握しているわけではない。明日は昼からなので朝御飯はゆっくり食べたい、などと言われても俺にも出勤時間があるので叶えてはやれないだろう。 すでに環さんのところに泊まることが決定された志摩にそう訊くと「うう」と小さく呻いた。 この状況を打開してはくれないのか、と訴えているつもりらしいが。自ら招いたことである、なんとか頑張って貰いたい。 「お兄ちゃんの仕事の時間には起きるよ。私も朝から大学があるし……」 「なら仕度をしてこっちにおいで」 久しぶりに志摩とちゃんとした飯が食える。ここのところずっと人が作った飯が食いたいと言っていた子だ。それに応えてやりたいと思いながらも、こんな騒動になってしまってなかなか食べさせてやれなかった。 頷いた子は、楽しそうな環さんに連れて行かれた。泊まりの準備なんて何もしてないので、と自分で言い出した宿泊自体無しにしようと最終的な足掻きをしていたのだが「全部こちらで新品を用意します」という笑顔に叩きのめされていた。 (というかこっちに来ても泊まりの準備などないが) どうするつもりだったのだろうか。今となっては謎だけれど、戸惑いながらも歩いて行く志摩の様子は、口で言っていたほど困ってはいないように見えた。 next |