美丈夫の嫁2 7





 ちなみに俺は翌日の仕事は休まなかった。
 ホテルを出た後、荷物は妹の部屋に一時的に預け、そこから出勤した。
 美丈夫との間で何があろうとも、仕事には関係がない。そしていつも通りの流れで行われる業務と接客に俺は安定感を覚えては現実逃避を行っていた。
 日常に舞い戻れるというのは素晴らしいことだ。やはり人間は毎日の生活に戻ると心も落ち着く。
 志摩も安心して大学に行ったようだった。あの男がいなくなった以上志摩が通学を躊躇う理由などない。
 志摩はバイト先に本日休みを貰っていた。美丈夫との話し合いのためだ。
 そう話し合いが今夜あるのだ。
 もしかして大広間かどこかに通されて、複数の人間たちと対面した上で俺は説明を求められるのだろうか。もしそうなったら吐血してしまいそうなくらいに緊張することだろう。
 だがそれでも逃げるわけにはいかなかった。逃げたところで追い詰められるのが目に見えていたからだ。
 どうせ蔭杜は決着をつけるまでは纏わり付いてくるに決まっている。美丈夫の嫁という目で見られている以上、それはどうしようもないことなのだ。だから嫁にはなれないと言わなければいけない。
 いけないのだが、電話口から聞こえて来たあの美丈夫の声に加えて、本日は弱っているだろう顔面とも立ち向かわなければいけなかった。
(あの人の顔面は、卑怯じゃ)
 神様はあの男に色んなものを与えすぎだ。
 勤務時間の終了が近付くにつれて、どんどん気持ちは重くなっていく。仕事が終わるのに喜びではなく憂鬱を覚えるなんて、この前までの俺ならば信じられないことだっただろう。
 だが容赦無く訪れる時間の経過、そして職場に居座っていたとしても志摩を待たせるだけだという現実に、俺は渋々仕事を終えて従業員出口から外へ歩き出した。
 自転車を取って志摩の元に行こうとしたのだ。
 だが俺の目の前に一つの車が、行き先を遮るようにして止まった。鳳凰のマークが付いた黒い車は明らかに俺を目標としていただろう。
 嫌な予感がした。
 しかし「まさか」と呟くよりも先に助手席のドアが開いてしまう。そこから下りてきたのは想像通りの人であり、俺を見ると真っ直ぐ目の前に立つ。
「お迎えに上がりました」
(来なくても行くと言ったじゃろうが!)
 こんな警戒心ばりばりの高級車で迎えに来なくとも良いのだ。自らの足でちゃんと蔭杜に行こうと思っていた。逃げたかったけれど、ものすごく逃げたかったけれど腹はちゃんと括っていた。
「これから志摩さんもお迎えに参りますので」
 可哀想に、あの子も俺と同じ思いをするのだ。
 許せ妹よ、この家に関わってしまった兄が全て悪い。
 そう思いながら後部座席に収まった。シートの座り心地は大変良いはずなのだが、車内の沈黙の重さが耐え難い。
 美丈夫は何か喋るかと思ったのだが、蔭杜本家で話し合いをするまでは無駄口は叩かないとでも思っているのか沈黙を守っている。当主から禁じられているのか。
 美丈夫が喋らないのに運転手が喋るわけもなく、かなり年上の、初老に近い運転手は黙々と安全運転を遂行している。
 妹にはアパートの下で待っているように、とメールで指示をする。きっとこの車を見た途端部屋に帰りたいとぼやくことだろう。
 そして実際、アパートの入り口にいた志摩は唖然としていた。俺を見ると「これは……?」と尋ねてくるけれど、俺が聞きたい。
 美丈夫は志摩に会うとまずは丁寧に腰を折っては謝罪をした。俺には電話で話をしていたけれど志摩とは直接会話をしていなかったのだ。
 志摩は謝罪を拒みたいような、だが目の前にいる人に対して冷たく出ることも出来ないと言いたげに、戸惑っていた。
「あの、お話があると」
「はい。本家で正式なお話をさせて頂きます」
 それでもまずは頭を下げるところから入るべきだと、美丈夫は判断したのだろう。この時点で随分改まった態度だというのに、これから更に堅苦しいだろう場所に連行されるのか。
 もう嫌だ、という文字が志摩の顔に書かれている。当然俺も同様であるが、兄妹は後部座席に入れられて運ばれてしまう。
 何故謝られる側がこれほど心細く、出荷される豚のような不安を抱えなければならないのだろうか。脳内でドナドナが大音量でかかっている。
 蔭杜本家の正面入り口に車は止められた。俺は普段勝手口から自宅に入っているので、大きすぎる正門に回るにはかなり久しぶりだ。蔭杜本家で親戚たちを集めて俺の顔をお披露目された時以来ではないだろうか。
 胃どころか内臓全部をきゅっと締められていくような錯覚がある。息苦しさに酸素マスクが欲しくなるけれど、そんな阿呆な真似が許されるはずもない。
 志摩も顔色が悪く、駆け落ちのように手に手を取って逃走を図りたかった。
 車から降りると美丈夫を先頭にして本家を案内される。自宅と繋がっている家てはあるのだが俺は本家を歩くことがまずない。
 高級旅館かと言いたくなるような玄関に今日もまた圧倒されながら、どこまでも続きそうな廊下を進む。廊下の端には埃どころか塵一つ落ちておらず、艶やかな光沢を保っている。毎日拭き掃除をしているのだろうかと思っていると美丈夫が立ち止まった。
「失礼致します」
 美丈夫はそう言っては襖を開けた。中は思っていたよりずっと小さな部屋だった。たぶん六畳くらいだろう。
 客間の一つであると思われ、床の間には鶴が描かれた水墨画がかけられているが、他に目立った装飾品はない。まだ地味な部屋だと言えるだろう。
 その部屋真ん中に環さんが座っていた。しかも着物である。
 普段は洋服で過ごしていることを知っているだけに、その藍色の着物に緊張が走る。日本人ではあるが日常で着物を見ることは滅多にない。それこそ「式」と付く場でしか見ないという印象があるせいだろう。この場が途端に緊迫した公の場になったような気がした。
 親戚たちが大勢いないことは有り難いけど、環さん一人でその親戚達全員に匹敵するくらいに圧力を漂わせてきている。
「この度は大変ご迷惑をおかけしました」
 そう言って頭を下げた環さんに俺はつい「いえ」と否定しながらも腰を下ろせずにいた。環さんの向かいに座るということは床の間を背にして上座になってしまう。そう思ったからだ。
 これまではずっと環さんが上座にいた。当主という立場がそうさせていたのだろう。
 けれど今回は俺たちに謝罪するという名目上、自分を下に置いたようだ。けれど俺たちは庶民であり、身分何だのを考えると到底上座などに収まることは出来ない。
 むしろ廊下に座りたいくらいだった。
「どうぞ」
 美丈夫は立ったままの俺たちに座るように促してくるけれど、動きづらい。
「あのような輩が志摩さんに無礼を働くなど、どれほど怖かったでしょう」
 環さんは俺たちが座る前に顔を上げて志摩を見上げてくる。そこには深い同情が宿っているどころか、なんとなく泣き出す一歩手前のようにも見えた。
 驚いていると環さんは立ち上がり志摩へと歩み寄る。謝られるとは思っていたが、何故環さんがそこまで痛ましいと言わんばかりの表情なのか分からず、俺たちは面食らっていた。
「志摩さんに怖い思いをさせてしまったのが私たちの最大の罪です。女の子の家に男が押し入ってくるなんて、それだけでもどれだけ恐ろしいか」
 環さんの話に志摩が唇を噛んだ。トイレの中から俺に助けを求めた時の声が蘇ってきては苦いものが込み上げてくる。
「私も昔は、蔭杜の当主になる女だという目で見られて。言い寄って来る男が何人かおりました。中には強引な手を使ってくる輩もいました」
 美丈夫は切に語る姉に顔を強張らせた。何か良くない記憶がここにもあるのだろう。
 蔭杜当主となれば、志摩などよりよほど魅力的な立場にいる女の人だ。近付きたいと思う者は多く、そしてその欲も強かったはずだ。
 こんな華奢で穏やかなそうな女の人に、無体な真似をしようとする馬鹿がいる。力で押し切ろうとする。それはもう狂気の沙汰としか言いようがない。
 けれどその狂気を持つ男は、残念ながらこの世には少数でも存在してしまう。
「そのような輩は一度手を付ければ女は自分のものになるのだと、身体を奪えば良いと、そう思うのでしょう。ただの暴行なのに、言うことを聞くようになると思い込んでいる」
 環さんは怒りを露わにして喋っている。全身に力が入っているのが見て取れた。
「そんなことは絶対に許せない。でも、それでも」
 悔しそうに環さんは涙ぐんだ。泣き出してしまいそうで俺はつい彼女を止めたくなる。
 けれど「環さん」と控えめに声を掛けても言葉は止まらない。
 そのまま環さんは自らの古傷をえぐり続けた。
「どれだけ強がっても、何を言っても、結局女は力では勝てないのです。だからいつも男の人に怯えるようになりました。誰かに守って貰わなければ怖くなる」
(そんな風には見えなかった)
 いつも、環さんは優しそうでふわふわしていて、落ち着いた人に見えた。何かに怯えている節なんてなかった。
 もしかすると環さんの旦那さんが環さんに対して過保護だと感じる時があるのは、こういう彼女を知っているからだろうか。だからあまり一人にさせないようしていたのか。
「そんな思いを貴方にさせてしまったのが私たちの罪です。ごめんなさい」
 環さんは志摩の手を取った。桜色の丸く綺麗な爪がついた細い指が重なり合うと環さんは頭を下げる。
「怖かったでしょう」
 そう告げた声と共に環さんの双眸からは涙が落ちた。ぽとりと畳の上で弾けた小さな雫に、志摩の唇がわなないた。
「わた、し……」
 怖かったと言いたかったのかも知れない。志摩は見る見る内に表情を崩しては緩く首を振った。そして双眸からぽろぽろと大粒の涙を零し始める。
「っ……っぅ」
 嗚咽が迫り上がってきたらしく、口元を片手で押さえた子に俺の身体は揺れた。だが環さんが先に志摩の背中を撫でてくれた。するとそれに促されるようにして志摩は激しく泣き出した。
「ふっ、う……ぅあ…あぁ」
 声を上げて泣き出した子を自分に引き寄せて、環さんは抱き締めた。身長差のない彼女たちは寄り添って痛みを分け合っているようだ。
(……女の人にしか分からない怖さがあるのじゃな)
 たとえ兄である俺でも、この子の本当の怖さはきっと分からないのだろう。力で負けてしまう、どう足掻いても勝てない相手に我が身を狙われる怖ろしさ。しかもそれは特定の誰かだけではなく、この世にいる男という人間の大半がそんな獣になるかも知れないという危惧。
 こんな風に自分のか弱さや他人の凶暴性なんて知りたくなかっただろうに。
(……ここに来て、良かったんじゃな)
 子どものように泣いている志摩を、自分の気持ちを共感して貰い慰められている子を見てほっとする。俺相手では、きっとあんな風には泣けなかった。
 怖かった、辛かったと訴えることは出来るけれど。分かって貰えたという安堵を混ぜることは出来なかったのだ。
 環さんに救われているだろう子に安心するような、しかし少し寂しいような気分だった。
 

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