美丈夫の嫁2 6





 大学にいる間は安全だろうと思われ、俺はその間実家に顔を出した。志摩だけでなく母親の元にも何かおかしい人が来たり、おかしいことはないかと思ったのだが全く変化はなかった。
 なさ過ぎて母親のだらだらとした生活が窺え、何故か家事をこなして帰って来たくらいだ。どうして出した物を出しっぱなしにして放置出来るのか。家が雑然としていてどうにも居心地が悪かったのだ。
 母親はそんな俺に美丈夫との暮らしを訊いてきたけれど、離縁を申し出たなど言えずに誤魔化した。そんなことを言えばどれだけ反対されてうるさいか。とにかく決着が付いてからの事後報告以外の選択肢は存在しない。
 志摩は大学が終わるとすぐにバイトに行く。その送迎もしようと決めていたので大学から出てきた子と待ち合わせ、バイト先に送ってから次は不動産屋をちらりと巡り、後はやはり雑誌と睨めっこだ。
 いっそ今の仕事以外にもバイトをした方がいいのかも知れない。しかし身体が保つだろうか。
 憂鬱を噛み締めながら志摩のバイトが終わる二十二時まで時間を潰した。バイトが終わるのが夜遅い、と今回の件を振り返ると思ってしまうのだが。だからといって志摩にこのバイトを辞めろと言えばあの子は嫌がるだろう。
 どうして何もかも制限されなければいけないのか。自分で決めたことなのに、蔭杜からの接触のせいでそれを断念するなんて、とあの子は怒るはずだ。
 心配だから、蔭杜のことがなくても若い女の子なのだから用心しなければ。と言ってもこのタイミングでは納得出来まい。
 まかないで晩飯を済ませたらしい志摩と、空いた時間にパンを口に詰め込んだ俺はバイト帰りに並んでホテルに戻る。
「お兄ちゃんのご飯が食べたい」
 帰り道にそう志摩にねだられた。実家にいた時は毎日食べられたそれが、一人暮らしをすると有り難いものだと分かったらしい。
 そんな志摩に俺も飯くらいいくらいでも作ってやりたくなるのだが、ビジネスホテルにキッチンなど付いているわけがない。
「また今度な」
 あのアパートに一時的に戻った時にでも作ってやろう。それに二人暮らしをするなら嫌でも毎日のように作ってやることになるのだ。
 こうして兄妹揃って一つの場所に帰るなんて何年ぶりだろうと思いながら、並んで歩いた。戻る場所が家ではなくビジネスホテルというところがもの悲しいが。
 ホテルの部屋に戻り、一息ついたのを見計らったように携帯電話が鳴った。
 着信は美丈夫からで、たぶんあの男に関する話をするつもりなのだろう。あの男がどんな制裁を受けたのか、すでに軽く知っているだけに着信音から威圧感が伝わってくる。
 一体何を言われるのか。あの男のことだけでなく、俺たちについても何かとんでもないことを言われるのでは。そんな怖ろしさがあった。
 だが無視をするわけにもいかず、溜息をつきながらも携帯電話を掴んだ。
「……もしもし」
『夜分遅くに申し訳有りません、誉です。今お時間よろしいですか?』
「はい……」
 美丈夫の電話はいつも丁寧なのだが今日は特別丁寧である気がして、気が重い。
 ずっしりしたものを背負う心持ちでいると、志摩が風呂場からふらりとやってくる。
「先にお風呂入っちゃいなよ。お湯溜まったよ?」
 電話をしているなんて思わなかったのだろう。近くでそう暢気に喋りかけられて俺は軽く志摩を目で叱る。電話の向こうまでしっかり聞こえてしまった気がしたのだ。
 志摩はすぐに俺が耳に付けているものに気が付いて「すみません」と謝る。その謝罪の声も向こうに届いただろうか。
 美丈夫はぴたりと黙り込んだ。通話をしているはずなのに静けさが漂い、奇妙な緊迫が生まれてくる。
 大切な話をしようとしているのに、くだらない会話が漏れ聞こえてきて気分を害したのだろうか。少なくとも出鼻はくじかれただろう。
『志摩さん、ですよね』
「はい。志摩があの部屋にいるのは怖いと言って、今ホテルを取ってるんです」
 美丈夫はやはり苛立ったのだろう。非常に低い声で問いかけてくる。しかし何故志摩かどうか確認するのかは謎なのだが、胃が縮まる思いになる。
『そうですよね。志摩さんですよね』
 美丈夫は何故か噛み締めるようにそう言うと声音を変えた。冷たさが無くなり、とても腑に落ちたと言う様な口調だ。
「志摩にお話ですか?」
『いえ、まずは上総さんにご報告を』
 志摩を気にするならば志摩に先に話があるのかと思ったのだが、そうではないらしい。もしかすると志摩の部屋を訪問して、本人がいないため探していたのかも知れない。
『志摩さんの部屋に押し入った男ですが。家族ごとベトナムに引っ越します。本日当人がベトナムに向かったことも確認済みです』
「ベトナム!?」
『最低でも数年は帰って来られません』
「いや、あの……ベトナムですか?あの、東南アジアの?」
 帰って来られない、というのは良いのだが。俺はベトナムが本当にあのベトナムなのかということが気になった。
 ベトナムという名前の店か何かに監禁している、という阿呆みたいな話ではなく。本当にあのベトナムという国に追いやったのか。
 海外に引っ越しだなんて、大袈裟に表現しただけど思ったのだが一晩で本当に、日本から出してしまったのか。
『はい。国内に残しては心配だったので』
 それは俺が言おうと思っていた台詞だった。美丈夫を黙らせるためにぶつける予定だった、理不尽で無茶苦茶な文句であったはずだ。
 いくら何でも、おそらく生まれてからずっと日本で生きてきただろう日本人をいきなり日本から追放するのは無理がある。
 なのでそんなことを手早く出来るわけがなく、俺は美丈夫と次に話す時は「あんな男が日本にいると思うだけで俺たちは安心して生活出来ません」と冷たく言い放とうと思っていた。だがいきなりそれが崩れてしまう。
『志摩さんのアパートの管理人も解雇しました。勤務態度に問題があったのは明らかです。今後は二十四時間体勢できっちり管理が出来るように人員を増やし、人材教育に努めていきます。申し訳ありません』
「あの……いえ」
 志摩のアパートの管理人がいないことに、確かに俺はキレた。志摩の部屋に男が押し入ったと聞いて 慌てて部屋に行く途中に管理人がいないことにドアを蹴りもした。だがあの時管理人室にいなかったという一点のみで解雇である。
 もしあの時滞在していたからまだ首は繋がっていたことだろう。それでも勤務態度に問題があるので、近い将来同じ結末を迎えたかも知れないが。
『そして二度とこのようなことが起こらないように、志摩さんに対して故意に接触しないように親戚たちに周知させました。年齢の近い男たちには全員に接触を禁じる念書も貰っています』
 念書、という単語を自分に関わりのある場面で耳にするのは初めてである。そんなものが必要になる状況に出会したことがなかったのだ。
 大事になっている。俺が想像していたより遙かにこの事件は大きく広がっている。
『もし利益目的で接触して来ただろう親戚がいた場合はすぐにご連絡下さい。迅速に対処します』
 それは迅速にベトナムに飛ばすということだろうか。
 なんだろうその島流しのような扱いは。ベトナムは江戸時代の佐渡島ではないぞ。
『上総さんを嫁にと決めた時に、すでに親戚たちには上総さんとご家族には接触しないようにと注意はしていたのですが。どうやら頭の軽い者にはその意味が分からなかったようで』
 あの男は馬鹿だと、美丈夫がはっきり言っている。俺に対して話しているから非常に低姿勢だけれど、男に対しての憤りがしっかり込められている声だ。
『志摩さんには本当にご迷惑をおかけいたしました。本来ならばお話を聞いてすぐに頭を下げに参りますところを、先に手を打ちたくてこんな時間になってしまい、不甲斐ないばかりです。今からそちらに』
「いえ、結構です、もう遅い時間ですから」
 美丈夫が紋付き袴で突然実家に来た時のことを思い出した。頭を深々と下げて嫁に来てくれと言われて俺は頷いてしまったのだ。
 あの衝撃は凄まじいものだった。このまま美丈夫が来れば俺はまた頭の中が真っ白になって首を縦に振ってしまいそうだった。
 けれどこれは俺が解決して良いことではないのだ。志摩の気持ちを考えてやらなければいけない。だから美丈夫がここに乗り込んでくるのは避けたかった。
『ですが』
「志摩もおりますので。この時間からというのは……」
 時間が遅いのでと二十歳の妹を理由にお断りをする。これ以上志摩に迷惑はかけられないと思ってくれている、という期待通りに美丈夫はそれ以上ここに来るとは言わなかった。
『決して、二度とこのようなことがないように充分に注意して参ります』
「……はい」
『お願いです上総さん、離縁などとは仰らないで下さい。どうか、帰って来て下さいませんか?』
 美丈夫は俺が一つでも、それこそ溜息でもついた時にはすぐに消えてしまうのではないと思うほどの弱々しい声で懇願してくる。
 これが本当にいけないと思う。あんなにも何もかも出来る人が。どんなところにだって一人で乗り込んでいける。今回のことだってあっという間に解決してしまったくせに。俺が部屋にいないということに、俺がいなくなるというだけのことに、こんな声を出すなんて。
 なんて卑怯なのだろう。
 まるで俺がとても価値のある、それこそ美丈夫にとってかけがえのない人間になったかのように錯覚してしまう。
 ぐらぐらと揺れながら、それでも俺は辛うじて残っている思考力で隣を見た。そこには志摩が膨れっ面で俺を見ていた。
 ぷっくりとしているその頬に、まるで幼児みたいだと思って美丈夫に絡め取られそうだった意識が戻ってくる。
「……それは、私の一存では決められません。なのでお時間を」
『では志摩さんと共にお話をさせて下さい。当主も今回のことに関しては謝罪させて欲しいと申しております』
 時間を置かせて欲しいと言おうとしたのだが、美丈夫が先を阻むように発案してくる。必死になっているかのようだ。
 とにかく早く、今すぐに、という勢いに呑まれてしまいそうだ。
(当主って環さんにも謝られるってことか?蔭杜のトップという立場で?)
 環さん個人ならば優しい気の良い美丈夫の姉、という印象で正解だろうが。当主と表現された以上蔭杜の代表という立場で話をされるのだろう。改まった場になりそうでうんざりする。
「いや、そんな大袈裟な」
『これは蔭杜の信用問題です。重大なことに当主が出るのは当然のことです』
(そりゃ当主の弟に来る予定だった嫁がいなくなれば、確かにちょっとした騒ぎかも知れんが)
 環さんと美丈夫二人が揃った場に出ていって、俺はどこまで戦えるのだろう。約束の二十四時間でこれだけの結果を出してきた姉弟に対して、果たして抗えるのか。
 悩んでいると志摩が俺に顔を寄せて来た。すぅと息を深く吸う音が微かに聞こえた。
「兄は蔭杜には戻りません!戻りませんから!」
 志摩は携帯電話に向かってそう言い放つ。癇癪を起こしたような声量に俺は空いていた側の耳を思わず押さえてしまった。キーンと耳鳴りがしそうなほどうるさい。
 間近には泣き出しそうな子がいて、俺は「板挟み」という状況を味わっていた。どっちに転んでも罪悪感からは逃れられない。
 美丈夫はぴたりと黙り込んでしまい、重々しい空気が流れる。
 志摩は唇を噛んでは携帯電話を睨み付けているし、美丈夫はきっと優秀な頭脳でどんな説得をしようか考えているはずだ。しかし俺はその説得を聞きたくない。
「一度お話をしなければいけないのは仰る通りだと思います。なので明日そちらにお伺い致します」
『……お待ちしております』
 美丈夫の堅い返事に、待ち構えられているという想像が過ぎってはすでに全身に疲労感を覚えていた。
 ものすごく精神的に疲れる羽目になるのだろう。もう充分疲れているのだが、更に追撃されるはずだ。
 もっと平穏に生きていきたい人生だった、と辞世の句でも口から出そうだった。


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