美丈夫の嫁2 4





 斬りかかる対象を見付け出すため、怒りを抑えながら母屋に入る。姉の部屋の前に来て、はじめて片手が塞がっていることに気が付いた。スマートフォンを握ったままだ。
 今更家に置きに帰るのも面倒で、デニムの尻ポケットに無理矢理押し込んだ。圧迫感が嫌で思わず舌打ちをしてしまう。行儀の悪いことはしないように躾けられてきたのに、こんなことすら我慢出来ないくらい、自分は感情が高ぶっているらしい。
 襖に「姉さん」と声をかけると一拍置いてから「なあに」と暢気な返事があった。
 それを入室許可と受け取り、襖を開けた。中は洋室になっている。
 ここは姉の仕事場だ。
 正座で長時間座っているのは辛い、キャスター付きの椅子にしたいと姉が希望したので、畳よりフローリングの方が都合が良いだろうと、洋間に改装した。
 姉はメインパソコンの前に座っており、こちらに背を向けたままだった。パソコンは他にも一台置かれている。そして外付けのハードディスクが複数台起動しており、データを常に管理、保存している。メインパソコンの画面は三つ。正面と左右に配置されており、それぞれが別の情報を映し出していた。のほほんと毎日のんびり生きている雰囲気のある人だが。蔭杜当主としてそれなりに仕事はしている。
 在宅で出来ることに重点を置いており、外出はあまり好まない。代わりに父が外に出たっきり帰ってこないような有様だ。
 どう切り出そうかと思案していると、姉はしびれを切らしたように振り返り、俺と目が合うと驚いたようだった。
 おそらく俺の表情は相当に酷いものなのだろう。
「上総さんから離縁を申し付けられました」
「どうして?貴方そんなへまをしたの?」
 へまと言われてとっさに「有り得ない!」と叫びそうになった。俺がどれだけ慎重に、確実性を視野に入れて動いていると思っているのか。
「俺がへまをすると思いますか?」
 実の姉であっても、改まった話をしたいと思った時は丁寧な言葉使いで会話をする。それだけこの件については真剣だと感じ取って貰ったはずだ。姉は「思いません」と椅子を回して身体ごとこちらを向いてくれた。
 顔つきも真面目なものになっており、互いに緊張感が漂い始めた。それだけ上総さんのことに関しては二人とも大切なことだと認識していた。
「誰が何をしたのかしら?」
「志摩さんと同じ大学に通っている蔭杜の関係者が、志摩さんの部屋に強引に乗り込んで居座ったそうです」
「最低ね」
 姉が吐き捨てた。
 優しくて穏やかでふわふわしている人。姉の外面しか知らない、関係の浅い人間はそう姉を語る。けれど中身はそれなりに厳しさ、冷酷さも持っている。そうでなければ大きなこんな家の頂点になど立っていられない。家の利害に関してはむしろ合理的な部分を重視する考え方をしており、優しいと思い込んでいると手痛い判断を喰らう。
「上総さんとご家族には接触しないように言いつけてあったのに」
 姉は溜息をついては目頭を押さえた。パソコン画面を見続けて眼精疲労が溜まっている上に頭の痛いことになった、とでも思っているのだろう。
 上総さんを嫁にすると親戚たちに知らしめた時に、本人とその家族には関わりを持たないようにと、親戚たちには話してあった。当主と深い繋がりが出来る人たちと懇意になることで、当主から個人的な温情が分けられないだろうかと考える者がいるからだ。
 もしくは上総さんを利用して蔭杜の権力の欠片でも使えないか。そう謀る輩が何人も思い付いてしまった。
 なので関わってくるな、関わればその者から順に蔭杜との縁を切っていく。そう宣言しており、上総さんとその家族に関しては蔭杜の逆鱗であると意識させたはずなのだが。
 それを正しく理解出来なかった者がいたのだ。
「個人的に好意を持ったからだと、言い訳をしたそうです」
「愚の骨頂ね。たとえそうだとしても、やり方が他にいくらでもあるでしょうに」
「恐怖を覚えた志摩さんが上総さんに電話で助けを求め、会いに行った上総さんはその場で俺に電話をかけて蔭杜と縁を切りたいと仰いました」
「そう思うのが当然でしょう」
 蔭杜と関わりにならなければ、妹はこんな怖い思いもせず泣かせることもなかった。
 上総さんの頭の中はそれでいっぱいなはずだ。
 そしてそれは特別責められることではない。姉だけでなく俺も自然な流れだと思った。
「それで、どうするの?」
 姉は俺にどう対処するのか尋ねてくる。勿論どうするのか決めた上で当主の元に窺いに来たのだろうと、高みから問いかける様に背筋が伸びる。
「男の始末をします。家族諸共日本から追い出しましょう。無論上総さんたちへの接触禁止の念書も書かせます」
 上総さんたちは男がもう一度会いに来るのを恐れているはずだ。大学が同じということで、きっと妹さんは通学を躊躇っている。男に二度と妹さんに話しかけるなと言ったところで、自分の生活区域を男がうろついているだけで恐怖を覚えるはずだ。
 ならば追い出してしまえばいい、引っ越しもさせて妹さんとは決して会うことの出来ない土地に追いやれば良いのだ。
 そう、おいそれと通うことの出来ない遠く。最低でも日本から出してしまいたい。
「それだけ?」
 姉は俺の判断に微笑みながらも、その程度で終わらせるのかと煽るような目を向けてくる。
「いえ、親戚にいる年頃の男たち全員に同様の念書を貰いに行きます。そして意図的な接触をしないように親戚には今一度念押しをします」
 今回のようなことが二度と起こらないように。道を踏み外した者は全員血祭りに上げると知らしめなければいけない。
 俺の提案はひとまず姉を納得させることは出来たらしい。首を縦に振らせることが出来た。
「分かりました。親戚への念押しは私がします。貴方はその問題の男を処理しなさい」
「お願いします。男の行き先はどこにしましょうか」
 姉に頭を下げて、ここに来た一番の目的を問いかける。男とその家族をどの土地に飛ばすか。それだけは俺一人の力では決められないことだ。
 姉は首を傾げた。そしてしばらく「えっとね〜」と幼い子のようにぐるぐると椅子を回して遊ぶ。
 そして椅子が五度くるりと回ると元の位置で止まった。
「この前アオザイの衣装が綺麗だったの。今後の経済発展にも期待が出来ると思うのね。うちの会社からも幾つか進出しているでしょう?だからベトナムとかいいかも」
「ではそのように」
 日本でなければどこでも良かった。ベトナムだろうがアフリカだろうが。とにかく答えだけが必要だった。
 結果が出たので俺は次の行動に移る。すぐに部屋を出ようとする俺を姉は笑った。
「焦っているわね」
「二十四時間以内に答えを出すと約束したから」
「早いわ。上総さんがそう言ったの?」
「俺から言い出した。そうでもしなきゃあの人が今すぐにでも逃げそうで」
 電話をしてきた時点で腹をくくっていた人だ。この瞬間にでも「もう嫌だ」と言って蔭杜から逃げていってもおかしくない。
 嫁に来る時も決断が早かった。あっさりしたものだったけれど、逃げる時もきっとあの時と同じ早さで決めるのだろう。
「とにかくあの人は今、蔭杜と縁を切ることで頭がいっぱいだ。早く繋ぎ止めないと」
 上総さんの背中ばかりが脳裏を過ぎった。



 泣きじゃくる志摩の背中をぽんぼんと優しく叩いてあやしながら、こうして慰めるのはいつぶりだろうかと思う。
 この子もこうして兄に慰められるなんて本当ならば恥ずかしい年だろうに。そんなことを感じられないくらいに、精神がぐちゃぐちゃになっているのだろう。
 赤く染まってしまった瞳から涙がようやく止まった頃、志摩はぽつりと「怖い」と呟いた。
「お兄ちゃん、ここにおって」
 生活の中でも最も安心で、落ち着ける場所であるはずの自宅に恐怖が押し寄せたのだ。一人でこんなところにいても心休まらないのだろう。
 俺としても志摩が安全だと分かるまでは側についていてやりたい。
 けれどそれは許されないのだ。
「ここは女性専用マンションじゃろ」
 いくら兄妹でも男がここに泊まっていれば周囲から苦情が来るのではないか。それに近所の人は俺が兄だなんて分からない。ぱっと見ただけでは彼氏のようにも思われるだろう。
 女性専用マンションに男を連れ込んだ、と志摩にいらぬ噂が立てられても困る。
「でも、一人は怖いよ」
「そうじゃな。実家に戻るか?」
 母親との暮らしは、正直少し気が重い。そして志摩とも相性が悪く、今回の話をすれば、また何を言い出すことか。  無神経な発言で志摩が傷付く可能性も大いにある。
 実家に帰るのは得策とは思えないなと憂鬱になっていると志摩も同じく表情が暗い。
「実家も向こうにはバレてるかも知れないよ。また押しかけられるかも」
「そうじゃな。ならばビジホにでも泊まるか。それなら俺も一緒に泊まれる」
「……いいの?」
 一人は嫌だと言いながらも、俺が蔭杜に戻らずに一緒にいてくれるのに気兼ねがあるのだろう。たぶん美丈夫に何か言われるのではないかという心配だ。
 その気遣いに俺は苦笑した。
「あんな啖呵を切ったんじゃ戻れん」
 世が世ならば離縁など嫁の立場からでは言い出せないことだ。たとえ現代であっても離縁などと言えば、夫婦間の信頼関係やら愛情やらが冷めるのは必須。
 まあ俺たちの場合は信頼も愛情も無いに等しいものなのだが。それでも気分は盛大に害されたはずだ。
 なのにどんな顔をしてあの家に戻れというのか。俺には出来ない。
「……ごめんなさい」
「何がじゃ」
 志摩はまた双眸に涙を溜めてそう謝罪する。ぎゅっと服の裾を掴む手は不安でいっばいなのに、一体何に謝り自分を制そうとしているのか。
「お兄ちゃんは別に誉さんとは問題なかったんでしょう?普通に暮らせたみたいだった」
「おまえが泣くなら大問題じゃ」
 問題がなかったのは双方が遠慮して摩擦を減して、なんとか平穏に過ごそうとしていたからだ。互いの努力、歩み寄りのおかげだろう。
 けれど俺たちがなんとか平和に過ごしていても、その傍らで志摩がこんなにも辛いならば、俺は今の暮らしなどすぐに投げ捨てる。
「あの人は適当な嫁が欲しかっただけ。俺はそれに乗っただけ。母親が喜ぶじゃろうと思っておった。利害の一致じゃ。でもおまえが泣くなら害が勝る」
 母親が、周りがそれで良いなら。俺の心の底にはいつだってそんな他人を理由にした言い訳があった。自分で決めたことだけれど、どこか他人任せだったのだ。
 だが志摩が泣いているならば、俺は自分の意志で美丈夫との関係を断ち切る。母親ですら退けるだろうとはっきり言えた。
「あの人は……誉さんは怒るよ」
 志摩は目を逸らしては後ろめたそうに口にした。確かにこの件に関して突然離縁を迫られた美丈夫は被害者みたいなものだろう。だが一番の被害者は志摩だ。
「口約束みたいなもんじゃったし。籍も入っておらん。それに妹まで泣かせて誰が嫁になんぞ行くか」
 そもそも男は嫁になど行かんものだが、婿であっても同じだ。この子を泣かせて嫌だと訴えられて、それまでもまだ続けなければいけない関係など無い。
「斯様なことまで強要されるなら俺は戦う。相手が何であってもじゃ」
 俺にとってはそれ何もおかしいことではない、当たり前のことだった。
 それに志摩は涙を拭ってこくこくと頷いてくれる。
「ありがとう……」
「違う。謝るのは俺の方じゃ。俺のせいでおまえに苦労を掛けた」
「いい、いいの。お兄ちゃんがおるなら大丈夫じゃ」
 大丈夫と繰り返すけれど、現状は何も安心出来ることなどない。とにかくこの子の気持ちを上に向けさせなければいけなかった。
「とりあえず荷物を作れ、ビジホに移動しよう」
 男がいた雰囲気を引きずっているこの部屋から一時的に出て、意識を切り替えてしまおう。志摩を促しながら俺はこれから自分がするべきことについて一つずつ脳内で整理をしていく。
(美丈夫は男をどうするつもりじゃろうか)
 退学させてくれると有り難いのだが、そうなった場合もし逆恨みなどされれば志摩の身が危ない。ならば引っ越しもしなければいけないだろう。
 大学から離れた場所に変わるか。だがそれも住所を調べられれば意味がない。そもそもこのマンションは蔭杜の管轄であり、親戚ならば簡単に調べられるものかも知れない。
 ならば次のマンションは蔭杜になど頼ることなく、自力で用意しなければ。
(それでもまだ何かあれば、俺はもう我慢出来ない)
 犯罪だと言われても俺はあの男を容赦無く殴る。暴行罪も厭わない。それどころか殺人未遂に発展することも有り得るだろう。それくらい俺の頭には血が上っていた。
 もう二度はない。そう強く思う。
「こういう時に金持ちの権力やら何やらを使って貰いたいもんじゃが……あの人はどうするつもりじゃろうか」
 蔭杜の力を持ってすれば男一人大人しく黙らせることくらい出来るのではないか。そう思うのは浅はかだろうか。
「どうせあんな大きな家の人間は身内の恥は揉み消して、なあなあにして終わりにするよ。そういうものじゃない」
 冷たい蔑みが混ざったその言葉に、俺は「そうじゃな」と落胆と共に答えていた。美丈夫の行動もきっとそうなのだろうと、初めから諦めばかりが浮かんでくる。
 他人に期待したところで、喜びに繋がる未来が見えたことはほとんどないせいだろう。志摩のように「どうせ」なんて斜に構えて言うつもりはないけれど、期待するだけ損をするという後ろ向きな思考は根付いている。
「ろくなもんじゃない」
「だから嫌なのよ。蔭杜みたいな家って。お母さんは好きみたいだけど、私は大嫌い」
 蔭杜の末端に座っている。けれどほとんど血も繋がっているかどうかも妖しい我が家は、親戚からも距離を置かれていた。得体の知れない親子、父親が死んでしまって蔭杜とは無縁になったのではないか。そんな目で見られてきた。
 旧家のプライドの高い人間たちには遠巻きに、そしてどこか見下されてきたという記憶ばかりある。
(それが嫁になんぞ、一時的にでもなろうとしたからじゃ)
 身の程を弁えないからだ。そんな声がこうしている間も聞こえてくるようだった。
   

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