美丈夫の嫁2 3





 初めてその人を見た時、美しい猫のようだと思った。
 成人式の朝、親戚が集まって祝いの席を設けており、主役の俺は否応なくその対処を強いられていた。
 子どもの頃から繰り返されてきたことだ。
 だが年々重圧が酷くなる。特に成人したということで、娘を嫁にと望む者が膨れあがっていた。蔭杜の血統と深く関わろうとする者はいくらでもいる。
 直系に加われば金も人脈も自然と零れ落ちてくると思っているのだろう。実際そうして己の財産を殖やした者もいたはずだ。
 だが嫁に関しては、その手は通用しない。
 俺は女の嫁は貰えないからだ。
 脈々と受け継がれた蔭杜の掟であり、現当主である姉もそれを踏襲した。女がこの家に入ることを厭った蔭杜の因習は姉個人の恐れでもあった。
 この世に生まれ落ちた時から蔭杜に縛られた姉。彼女のために自分が妻帯を諦めることくらいさしたる問題でもなかった。
 だが伴侶自体は埋めておかなければ、結婚を求める者たちが際限なく寄って来る。なので男の嫁でも貰って籍だけは埋めておこう。そんな常識に照らし合わせれば馬鹿馬鹿しいにも程がある考えが蔭杜の本家のみで決定された矢先だった。
 上総と目が合った。
 成人の祝いに呼ばれた親戚の一人であろうことは、お手伝いさんが先導していること、そして本人もスーツを着ていることから分かった。
 だがそんなことよりも、涼しい、言い換えればやや冷たい眼差しに怜悧な顔立ちに目が奪われた。澄ました表情は高みから見下ろしてくる猫そのものだ。
 気位が高く媚びるなんて意識は欠片もない。俺に対してすら素っ気ないだろう。
 そう思うと震えるほど心が揺れた。
 そんなことは初めてのことだった。
 自分でもどうしてそんな反応をしてしまったのか分からない。ただ目が離せなくなってしまった。
 なのにその男は、まるで俺のことになんて見えていなかったかのように視線を外して、そしてさっさと歩いて行ってしまった。
 物心付いた頃から、周囲から顔立ちを褒められてきた。まして実の姉はとても愛らしい、美人と評判の容貌だ。身内である俺もそれには及ばないながらもそれなりの見た目だと思っていた。
 まして蔭杜の長男だ。親戚たちが注目しないわけがないと、そう思い込んでいた。
 意外過ぎるその男の行動が更に俺を惹き付けた。
 思えばそれは一目惚れだったのだろう。
 男の嫁を貰えと言われた時、俺は誰を生け贄にしようかと考えた。信頼の出来る人を選んで片腕として働いて貰うか。それとも全く役に立たないお飾りを置いて、捨てておくか。
 男の嫁という奇怪な立場であろうとも、蔭杜の名前の元に寄って来る者は多くいると思っていた。だからゆっくりと、何年かかっても自分が納得出来る形にしようと思っていた。
 仮に十年が過ぎても納得出来ないようならば、従兄弟に涙を飲んで貰うつもりだった。実際そういう話もしていたのだ。
 一つ年下の従兄弟は頭が切れ、行動力もあって一緒に蔭杜を守り立てていくのに申し分ない幼馴染みだ。従兄弟も俺の立場を理解しては結婚しないように心掛けると言ってくれていた。
 だが彼と出逢った。
 欲しいと思った。
 理由は自分でも分からない。ただそれがどうしても欲しいと思った。だからなんとしてでも、どれだけ時間がかかっても自分のものにしたかった。
 同時に誰よりも早く形にはめてしまいたかった。蔭杜という形に入れてしまえば自力で出ることはなかなか出来ない。成人の場にいたのだからあの男はきっと縁者だ。蔭杜がどんなものなのかもある程度分かっているはず。
 男の身元についてはすぐに分かり、上総という人は意外と簡単に手に入った。嫁に来てくれと願い出るとその場で「はい」と返事をしたのだ。
 躊躇しながらも頷いてくれたことに違和感はあった。そんな風にあっさり決められるものなのだろうか。自分で言い出したことだが、同性との結婚だ。しかもほぼ初対面である。
 まして蔭杜の名前に欲を持っているわけでもなさそうだった。その名を求めていたのは上総さんの母親の方だった。彼は母親に勧められ、自分の立場を考慮して俺の元に来た。主体性の乏しい、自身の気持ちが込められていない結果だったのだ。
 そんな決断を、普段の俺なら認めない。一人の人間として、周りに言われるがまま、自分の意志もさして持たずに結婚という重要な事柄を決めるなんてどうかしていると思っただろう。
 けれどそれが上総さんだと思えば有り難いの一言に尽きた。
 このまま婚姻を結んで確固たる繋がりを持ってしまえばこの人は俺から逃れられない。縛り付けることが出来る。
 完全に俺だけのものになる。
 そんな強すぎる独占欲と、素直に上総さんと親しくなりたい、仲良くなりたいという気持ちが混ざり合っていた。とにかく関わりたいと思っていたのだ。
 けれど、上総さんを蔭杜の家に引き入れることは簡単だったけれど、上総さんとの精神的な距離を縮めるのは決して容易なことではなかった。
 いつ別れるのか。
 上総さんはその一点のみを気にしていたのだ。いや、もっと詳しく言うならば俺がいつ上総さんを捨てるのか。嫁には相応しくないと気付くのはいつなのか。
 そればかり探っている。そしてその時を待ち望んでいる節すらあったのだ。
 別れることが前提だ。そんな相手である俺に上総さんが望むことは何もない。
 自身の周囲にある声を一時的に止めるため蔭杜の要求を呑んだ。言われる通りに動いた。
 だから上総さんには欲がない、俺に対しての興味もない。流されるまま、すぐに終わると思い込んでいる生活の中を過ごしている。
 それを空しいと思わない神経を正直疑っていたのだが、自分の手元にいてくれることは俺にとっては悪いことではない。
 別れるつもりがない以上、上総さんが想像しているような終わりも来ない。そう易々とこの家から出すつもりもなく、ならば時間をかけてゆっくりと俺の思いを理解して貰おうと思った。
 じわじわと染み込むように少しずつ、どんな気持ちを上総さんに抱いており、どれほどの執着なのか実感して貰おう。
 そう堅く決意していると上総さんがようやく敬語を崩し始めてくれた。妹さんと会話している時にちらりとだけ聞いた、少し変わった方言のような口調。あれは絶対に心許した相手にしか喋らないだろうと思っていた。実際上総さんは俺に対して零すことはなかったのだ。
 けれど俺が懇願して、やっとぽつりぽつりと使ってくれるようになった。
 嬉しかった。ようやく上総さんの懐に指先だけでも入り込めたと思った。
 それなのに。
『離縁して下さい』
 信じられない台詞だった。
 上総さんから電話がかかってくるなんてこれまでなく、初めて受けた着信がそれだ。
 俺のスマートフォンは電話を自動的に全部録音するアプリが備わっている。なのでこの会話もちゃんと録音されているのだが、二度と聞きたくない内容だった。
 何故と問うた声は低かったはずだ。全身を駆け巡る激情を抑え込むのに必死になっていたからだ。
(何故逃げようとする。どうして捕まえさせてくれない)
 そんな苛立ちすら感じながら、一方では上総さんの今朝の言動を思い出していた。
(異変はなかったはずだ)
 いつも通りの朝だった。上総さんは日課になった朝食作りを行い、俺はそれを美味しいと言って食べた。今日は仕事で残業があるとも、業務で特別なことがあるとも喋っていない。
 ここのところは少しずつ自分のことも話してくれ、たまに朝から仕事内容についても教えてくれるようになっていたのだが、今日は仕事の話もなく、朝のニュースについてちらりと語ったくらいだ。
 平穏な時間だった。
 上総さんにも不快を感じたような反応もない。そもそもあったのならばこんな風に突然電話で投げつけるように離縁を口にしないだろう。せめて家に帰ってくるはずだ。
 衝動的に俺と離縁をする理由。上総さんの感情を逆撫でして、こんな暴挙に出てしまう原因。
(家族だ)
 男の嫁という奇妙なものになってくれたのも、母親からの強い要望だ。
 上総さんからの返事を待つまでに、それだけの思考が俺の中で巡っていた。
 案の定妹さんに接触した男がおり、蔭杜の名前に引き寄せられたに違いない状況に激怒しているようだった。妹さんの家にまで乗り込まれて頭に血が上ったらしい。
 自分ならば我慢出来る。不条理なことも飲み込める。だが家族に対してそんなことをされれば絶対に許せない。
 そういう人だと薄々感じていたのだが、思っていたより家族愛と保護欲が強い。
 どこの男かは知らないが、随分と余計なことをしてくれたものだ。
 上総さんは家族のためにここに来た。だがここにいることで家族に迷惑がかかるのならばすぐさま出て行くことだろう。
 まして妹さんのことをとても大切にしている。
(どこの痴れ者だ……!)
 あの人の逆鱗に触れた馬鹿はどこのどいつだ。
 スマートフォンにヒビが入るのではないかと思うくらい、握り締める。
 一刻も早く蔭杜との関係を断ち切りたいと言う上総さんをなんとか宥め、妹さんに迫った男の処理を条件に時間を貰った。
 そう言わなければあの人は二度とここに帰って来ることすら叶わない気がしたのだ。
 想像しただけでぞっとする。
 電話の向こう側で泣いている妹さんの声も微かに届いてくる。それもまた痛ましく、純粋になんとかしたいと心から思う。
 上総さんと志摩さんは嫉妬してしまいそうなほど仲の良い兄妹だ。嫉妬してしまいそうなほど仲の良い彼らの間に割り込むことは、おそらくどう足掻いても出来ない。そのことにもどかしさはあるけれど、彼女ともちゃんと仲良くなりたいと思っている。
 友好的な親戚関係を築きたい。なのに泣かせるなんてもっての他である。
 二十四時間以内に満足して貰える結果を出す。
 誠意を込めてそう告げると、上総さんは志摩を……泣かせたくないんです、と祈るように返事をした。その声はこれまで聞いてきたどんな声音よりも切実であり、感情がこもっていた。
 まさかこんなことで、しかも悲しみの意味で本音をぶつけられるなんて。あまりにも不甲斐ない。
 通話を終えると俺は自宅から出ては本家に繋がる廊下へと踏み出していた。背後から憤怒が沸き上がってはこの身体を突き動かしているのが分かった。
 上総さんは絶対に逃さない。障害になるものは全て排除する。二度と、決してこのようなことが起こらないように根絶しなければいけない。
 一歩進む度に自分が磨き抜かれた刃物になっていくようだった。



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