美丈夫の嫁2 2





『……はい?』
 耳を疑ったような美丈夫の声に無理もないとは思う。思うのだがわざわざそれを気遣って一から説明するような心の余裕はなかった。
「いや、私たちはまだ籍も入っていませんでしたね。では私を嫁にするという話は白紙にして下さい」
 離縁も何も端からすれば俺たちは赤の他人であり無関係だ。そうだ、まだ美丈夫とは繋がっていないのだ。
 ならば簡単なことだった、口約束である嫁になるという話を消してしまえば良いのだ。
 はい分かりました、と美丈夫が一言告げれば俺たちは元通りになれる。
 俺は蔭杜から遠ざかり、薄いそれこそ糸一本ほども血縁関係があるかどうかも妖しい距離になるだろう。そうしなければ志摩も安心しない。
 電話の向こうで何やらガタガタと音がした。美丈夫が珍しく動揺しているのかも知れない。
『……何故、でしょうか』
 聞こえてくる声は多少低くなったけれど堂々としたものだった。なるほど声音を乱すような脆い精神力ではないらしい。益々二十歳とは思えない人だ。これなら俺よりもっと良い嫁が見付かるだろう。
「妹の元に蔭杜の親戚と名乗る男が押しかけました。同じ大学の男だそうですが、妹の部屋に強引に入り込んで居座り、妹はトイレに避難をして泣きながら私に助けを求めてきました」
 説明をしながら、はらわたが煮えくりかえる思いだった。膨らんでいく怒りとは反対に俺の口調は礼儀正しく、そして冷えていくのが分かる。怒気が過ぎるといっそ落ち着きが出るのは性分だ。
「私が蔭杜の関係者になったので妹に目を付けたようです。蔭杜に深く取り入ろうとしているのでしょう。妹がそんなことをしても無駄だと言っても聞く耳を持たない。それどころか大学が同じなので否応なく顔を合わせ、近寄ってくるそうです」
 志摩の通っている大学には当然多くの学生が通っている。学生から教員、関係者たちまで含めるとかなりの規模だろう。その中でたった一人の人間に怯えながら生活するなんて、どれほど理不尽で苦痛か。まして相手は男なのだ。
「もし万が一暴行があれば私は相手の男を決して許しません。殺します。そんなことはしたくない」
 殺すとはっきり言ったことに、志摩は俺の服の裾を掴んだ。物騒な台詞に危機感を募らせているのだろうが、俺は本気だった。
 法律が捌く前に俺の手で制裁を下す。それが法治国家に反する行為であってもきっと止められない。
「妹にもこれ以上辛い目には遭わせたくない。妹を泣かせるくらいなら蔭杜とは何の関係もなかった頃に戻ります。妹の大学の学費は私が払います。その他そちらで私が嫁になるという前提でかかった費用も全てお返しします。額が大きくとも生涯をかけてお支払いしますので」
 妹の学費だけならなんとかなるだろうが。俺が嫁に来る際に向こうは美丈夫が住んでいた家に手を加えたらしい。それがどの程度の規模であり、いくらの金がかかったのかは分からない。けれど縁を切ってくれるなら借金をしてでも払う。
 それだけの決意が俺にはあった。
『待って下さい!』
「待てません。この子は泣いてます。気丈な子が、我慢強くて子どもの頃から泣くのを我慢してきた子が!貴方が私に嫁になってくれと仰った時から私はこの子を泣かせてばかりです!これ以上辛い思いをさせたくない!」
 分かっていた。
 俺が家を出て美丈夫の元に行くと決まった時から志摩には無理をさせていたのだ。大体兄が嫁になるなんてこと、認められるわけがない。それを苦渋と共に納得させたのは俺だ。
 その上蔭杜と関わりがあるからと迷惑をかけて、こんな恐ろしい目に遭わせるだなんて。俺にはもう耐えられない。
 美丈夫には、今更嫌だと言うことは申し訳ないとは思う。だが美丈夫よりも、やはり俺は自分の妹の方が大切なのだ。
『上総さん』
 溜息混じりに名を呼ばれるが、それを聞いても冷静さは取り戻せなかった。
「突然のことで申し訳有りません。ですが一刻も早く決着を」
 今この瞬間にも離縁を受け入れて貰いたかった。
 そしてそれを環さんに報告し、完全な縁切りを、何なら蔭杜の親戚という淡い形すら奪って貰っても構わなかった。
『待って下さい』
「誉さん」
『お願いです、待って下さい。お気持ちはお察しします、ですが上総さんは今頭に血が上っておられる。少し、ほんの少し、一日だけでも良いので時間を下さい。お願いします、どうか』
 電話口で懇願してくる美丈夫に、罪悪感がないでもない。この事に関しては美丈夫のせいではないのだ。けれどこちらとて早い決断を求めていた。
 志摩の安全がかかっている。無駄な時間など一秒たりともないのだ。
「誉さん。申し訳有りませんが」
『決して後悔はさせません!必ず貴方と妹さんのご理解を得られるだけの結果を出します!このまま貴方と離縁など俺には出来ない!お願いします!一日だけでも!』
 急である、一日すら待てないのか。
 そう言われると確かに性急すぎる上に、一日で結論を出せというのも本来ならば無茶な要求である。
 段々と必死になってくる美丈夫の様子に、僅かばかりの理性も戻って来て俺はつい言葉に詰まった。
『少なくとも志摩さんの部屋に居座った男の素性と、大学で会った時の対処に関しては考えなければいけないはずです!俺はそれについて解決することが出来ます!それだけでもお待ち下さい!』
 大学で会った時の対処。それは俺が電話をしながら頭を悩ませていたことだ。
 俺が蔭杜の人間でなくなれば志摩への接触も減る。それが一番の希望だったのだが、相手の男が考えをおかしな方向にねじ曲げて変な粘着をされても困る。
「……対処方法に心当たりがおありで?」
『はい。必ず明日中に、いえ二十四時間以内にご満足頂ける結果をお約束します』
 まるで何かの契約のように改まった口調で断言する人に、確かにあの男の処理には困る、という気持ちがあった。蔭杜が動くのであれば何か徹底的な、それこそ二度と志摩には近付けなくなるような効果的な対処をして貰えるのではないか。
「志摩、蔭杜があの男の問題だけでも解決させて欲しいと言っておる」
 俺としてはそれだけでも蔭杜に任せる、というか自分の末端が招いた謂わば不始末のようなものなのだから、そちらで処理して欲しいという気持ちがあった。
 けれど被害者は志摩だ。電話口から顔を離して、小声で志摩に尋ねるとしがみついた子は首を振った。
「もういいから!私大学も辞めるから!お兄ちゃんもこれ以上関わらんで!」
 この子にとって蔭杜なんぞもうさっさと手を切って逃げてしまいたいような相手なのだ。
 精神的に限界なのだろう。
 気持ちは痛いくらいに分かる。だが逃げても、追って来られては意味がない。
 それに何の非もないこの子ばかりが負担を強いられ、居場所を奪われるなんて俺には到底認められるわけがない。
「おまえが大学を辞めるのは反対じゃ」
『俺に任せて下さい!』
 おそらく志摩の声が聞こえたのだろう。美丈夫が電話口で叫ぶようにして告げている。
『お願いです!少しだけ待って下さい!』
 電話と志摩に挟まれて俺はどうしたものかと深く息を吐いた。
 どちらを取るかと言えば志摩を取るに決まっているのだが、そのために美丈夫をここで切るのは早計だろう。
「男のことを、どうか早急に処理して頂けませんか?」
 そう、一番最初に片を付けなければいけないのはあの男のことだ。
 そのために利用出来るのならば蔭杜とまだ繋がっていることも、致し方ない。
『お任せ下さい』
「男に関してのことは志摩から詳しく訊いて、またお電話します」
『いえ結構です。大学の名前が分かっている以上こちらで調べられます。すぐに動きますので、どうか。離縁するなど仰らずに待って下さい』
 お願いします、という美丈夫の声は必死だった。目の前いたら、深々と頭を下げてくれたことだろう。見たくないけれど。
 そして懇願する人の声に快諾など出来なかった。
「志摩を……泣かせたくないんです」
 そう告げると美丈夫もまた言葉に詰まったようだった。
 二人だけの暮らしで周りに何の影響もなかったのならば、と思う。
 それならば美丈夫に不快感も恨みもない。同居していても摩擦すらなかっただろう。このまま過ごしていけたはずだ。
 けれど俺たちが出会ったのも、同居する羽目になったのも、周りの影響のせいだ。それを思うと遅かれ早かれ、あんなおかしな暮らしは破綻するしかなかったのだろう。


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