美丈夫の嫁11 8





 愛する妻。
 堂々とそう言った美丈夫に、胸を高鳴らせて幸せを噛み締める。
 そんな可愛げが俺にあれば、きっと美丈夫の手をさらに強く握るなり、美丈夫に熱い視線を向けるなり、色々とあっただろう。
 しかし俺は、この人すごいな……という感心が先に立った。
 こんな男を捕まえて、愛する妻と断言するなど、並大抵の男では到底出来ない。すさまじい勇気だ。
 わぁ……という微かな感動を含んだ声が反対側から聞こえるので、おそらく志摩の方がときめているのではないだろうか。
 美丈夫は円さんを見据えたままだ。睨み合っているような体勢で、双方引かなかった。
「こいつも男前になったでしょう」
「義兄さんはそれでよろしいのですか?」
「よろしいも何も、上総さんはうちには勿体ないくらいの人だよ。来てくれて感謝している。だからうちの嫁を苛めるのは止めてくれ。大事にして貰いたい」
(うちの嫁!)
 揶揄いの意味を持たずに告げられた台詞に、背筋が伸びる。
 認められているのではないか。そう勘違いしてしまうには十分過ぎるその発言は、重みを含んでいる。
(もしかして俺は、蔭杜の中枢に組み込まれつつあるのか?)
 あまりに荷が重い予感が押し寄せてくる、しかし美丈夫の手を離せなかった。
「そうですか。元々上総さんが男性の妻として、蔭杜に入られることに反対するつもりはありません。もし反対するなら、顔見せのあの日にそう言いました」
 顔見せの席で円さんは何も言わなかった。穏便に、俺の記憶にも残らないほどあっさりとした挨拶と共に帰っていった。
「誉さんが決められたならどんなお人でも構いません。男性の妻は、子を産みません。当主の座には無関係です。ですが栄の妻には、その可能性があります」
 当主に関わるかどうか。
 円さんにとってはそれが、それだけが重要なのだろう。
「家柄がいいどこぞの娘を持ってきたところで、良い母親になるとは限らないでしょう」
 美丈夫の父は一人、前菜に手を付けている。他の誰も食事どころではなく、箸に触れてもいないのだが、この人だけは別のようだ。
 並々ならぬ豪胆なのか、それともこの程度の話し合いはさしたる重大性もないのか。
「良い母親ではないと分かれば、私が手助けをします。まして女の子が生まれたならば、当主になるかも知れない子です。どのような教育が必要であるのか、私が誰よりよく知っている。相応しい子に育て上げられるのは、今ではおそらく私だけです」
「円さん、貴方は自分が何を言っているのか理解してますか?栄君の妻になる人は、腹を貸しているだけ。生まれた子は貴方が育て上げる。母親などいらんと言っているようなものですよ」
「もし母親の素質がなければということです」
「素質と言うが、それは貴方が納得するだけの素質だろう。栄君の子が男なら貴方は黙って引き下がるだろう。だが女だったら?間違いなく取り上げて、当主になれるよう育てるためだといっては自分の思う通りに教育するだろう」
「思う通りではありません。当主になれるだけの資質を磨くだけです。何もかも束縛するつもりなんてありません」
「当主になるための素質を磨く、というのはそのまま自由を奪われることだと、貴方なら知っていそうなものですがね」
 皮肉を口にする美丈夫の父に、円さんが苦々しそうにビールに口を付ける。
「叔母さんが言うような家に、結婚したいと思う女性はいないと思いますよ。いたとしても、元から良い母親になりそうな女性だとは思えません。義理の母に我が子を奪われると分かった上で嫁ぐのは、何かしらの野心家、歪んだ目的があると思いますが」
「不届き者は身一つで追い出すんだよ。その方が都合がいい」
 父は息子の話にあっさりと結末を付ける。
 残酷なやり方に、円さんは反論はしなかった。それどころか黙ってビールを飲み続ける。
 腹をくくったその様子は、現実にそうなった場合は美丈夫の言ったままの行動をとると宣言しているのに近い。
「円さん、もう薄々分かってると思うけど、貴方が言っていることは真っ当じゃない。それでは誰も幸せになれない。何より栄君にとっての幸せが何一つ考えられていない。息子を駒にしてどうするんだ。貴方の可愛い大切な一人息子じゃないか」
 美丈夫の父は箸を置いては、円さんを見詰めた。
 円さんは黙ってグラスに視線を落としていた。底に少しばかり残っているビールの表面に、何を思っているのか。無表情に近いその様からは窺い知れない。
「息子まで蔭杜に縛ることはないだろう。そんなものに捕らわれるような時代じゃないさ」
 時代錯誤。
 俺がずっと感じていた感覚を美丈夫の父はずばりと指摘する。血も家柄も跡継ぎも、一般市民の暮らしには懸け離れたものだ。元号も二つほど遡らなければいけないほど、古めかしいものではないだろうか。
「……義兄さんは、蔭杜がどうなってもいいんですか?」
「どうなるって言うんですか。なりませんよ」
「義兄さんは蔭杜がお好きではないから、そんなことが言えるんです」
 怒りや苛立ちではなく、円さんは悲痛を堪えているようだった。ぎゅっと寄せられた眉は泣き出しそうにも見える。
「確かに俺は蔭杜が嫌いです」
 え、と志摩が微かに驚きの声を上げる。声こそ出なかったものの、俺も似たようなものだった。
 息を呑んでは美丈夫の父の横顔を見る。
 端正な横顔からは何の感情も読めない。淡々とし過ぎていて、逆に底冷えするような何かを秘めているようにも感じられた。
 俺の隣にいる美丈夫は父の発言に驚きも何もなかった。背筋を伸ばしたまま、黙って聞いている。
 美丈夫はそんな父を、とうに知っていたのだろう。
「だが嫌いだからといってないがしろにしたことはありません。子どもたちにとってみれば蔭杜は十二分に利用価値があるものです。資産、人脈、無駄に長い歴史、その全てがこの国で生きていく上で何かしら使える時がある。生まれ持ったその価値を、むざむざ捨てる必要もないでしょう」
「利用価値があるから守る。義兄さんにとって蔭杜はそういうものですか」
「俺にとってはそうです。子どもたちのために、使えるものは何でも使えば良い。価値があるなら守り、なくなれば捨てればいい」
「とんでもないことを仰る」
 円さんは顔を顰めては残り少ないビールをあおった。この人が不快感を露わにしたのはこれが初めてだ。自制出来ない、まさに聞き捨てならない台詞だったのだろう。
(蔭杜が、どうしても大切なんだ)
 しかし蔭杜の中枢にいる美丈夫の父にとって、蔭杜はおそらく道具でしかない。
 宝物、かけがえないものだと捉えている円さんとは相容れない考え方だろう。
「蔭杜を捨てるだなんて。あの家が長く続いてきたのは、それだけ蔭杜の人間が献身してきたからです。たとえ多少の犠牲を払っても、先祖代々継いできた家を守り続けなければという、蔭杜の尊い血がそうさせたんです。それを当代が捨てて良いわけがないでしょう」
「ご立派なお話だ。泣けるほど気高い志じゃないですか。でもね円さん、俺は家なんてものは生きている人間のためにあるものだと思っている。生きている人間が幸せになるために、家はあるんだ。だからこそ家は大切にされ、受け継がれてきた。生きている人間を犠牲にして、苦しめて、それでも家を守る意味なんてない。苦しみを受け継いでどうするんだ。そんなもの気高くも何ともない」
「義兄さん!」
「家なんて、血なんて縛り付けるものじゃない。踏み台にして自分を高めるべきだ。目に見えない家という概念を頭の上に乗せて、生きてる人間を押さえ付けるなんて馬鹿げている」
「貴方は姉を恨んでいるから!だから蔭杜を恨んでいるのでしょう!だから!」
「あいつのことは恨んでいない。だけど蔭杜は大嫌いだ」
 まるで吐き捨てるように言う。
 紛うことのない本音だ。それを容赦なく円さんに突き刺して、そして彼女は言葉を失ったようだった。
 唇を噛んで、睨み付けていた瞳がじわりと潤む。
「円さん、何も今全部を決めることはない。栄君の幸せも、貴方自身の幸せも、今一度真剣に考えてみればいい。こうでなければいけない、なんて思い込みは自分を苦しめるだけだ。もっと楽観的に先を想像したっていいじゃないか。環が可愛い女の子を産む、それで貴方の憂いは晴れる」
「…………それは、そう。分かってます」
 分かっている。
 そう繰り返しながら、理解出来ないのだと強張った全身が訴えている。
 理性とは別の部分が叫ぼうとしているように見えた。
 感情的な人ならば、ここで思うまま、言いたいことをぶちまけるところだろう。少なくとも俺の母親ならば、美丈夫の父に馬鹿にされた、侮辱だと思い込んでは勢い良く罵ったはずだ。
 けれど円さんは深く長い溜息をついてはビール瓶を手に取り、グラスを再び満たす。今度は一気に半分ほど飲んでは片手で目元を覆った。
 泣き出すかと思ったのだが、重たそうに頭を上げた時に涙は浮かべていなかった。代わりに色濃い疲れが滲んでいる。
「今日は、私の考えを貴方にお聞かせするつもりでした。なので概ね目的は果たしたかと思っています。最初からお伝えしている通り、栄との交際については反対していません。結婚は、二十一歳の貴方たちには早すぎる話でしたね」
 円さんは最後に苦そうな笑みを浮かべた。
 結婚をどう思っているのか。答えを出さない姿勢とその笑みからして、円さんの考えはおそらく何も変わっていない。
 美丈夫もそう察したのだろう。叔母さん、と声をかけるのだが円さんはぱんと手を叩いた。
「ずっとお料理を眺めてばかりでしたね。これでは作って下さった方に失礼になります。女将も近くでハラハラしていらっしゃると思いますし。早く食べましょう」
 ね、と強引に話を切り上げて食事を促してくる。美丈夫は食い下がろうとしたのだが、美丈夫の父が「そうですね」と同意したのに、不満げに口を閉ざす。
 志摩は硬い表情で箸を付けては、沈黙と共に機械的に咀嚼して飲み込むという作業を繰り返しているようだった。その心境が、痛いほどによく分かる。
 食事が始まると美丈夫の父と円さんは季節の話題をきっかけに、美丈夫の父が最近どんな場所に行っていたのか、どんなものを食べたのか。そんな当たり障りのない会話を和やかに広げていく。
 ついさっきまで緊迫した空気の中で互いの意見をぶつけ合って、おそらく胸の内に傷も付けられただろうに。まるでそんなことはなかったかのように、完全に雰囲気を塗り替えていた。
 これを大人だと思うべきなのか。それとも蔭杜の人々がそれだけ意識を切り替えるのが上手いのか。
 美丈夫も不満げなものは多少感じられるものの、料理に舌鼓を打っているらしい。
「美味しいですね」と声をかけてくる際は目元もほころんでおり、しっかり味を堪能出来るだけの精神状態なのだろう。
 だが志摩は話を振られても生返事で、料理などよりよほど心を占領しているものがあるようだった。




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