美丈夫の嫁11 9 料亭を後にしてタクシーに乗り込む前に、志摩の丸まった背中を軽くぽんぽんと叩いた。 「結論はそう急ぐものではない。しっかり考えれば良い」 小声でそう言うと、志摩は途方に暮れたような瞳をしていた。美丈夫の父と円さんのやりとりを聞いていれば、そんな様子になるのも無理はない。 話の中心にいたはずなのに、ずっと蚊帳の外に弾かれたように呆然と聞いているしか出来なかった。蔭杜について語る彼らの真剣な、そしてどろりとしたよろしくない重みと淀みが凝縮したような内容に、志摩は当てられたのだろう。 「私」 「ああ、分かる」 皆まで言わずとも理解を示す俺に、志摩はほっとしたようだった。ようやく見えた安堵に、俺も少しばかり気持ちが軽くなる。 「こっちのことは気にするな」 いいから、と背中を押してはタクシーに詰め込む。これから一人で、自宅に辿り着くまでの間、志摩はずっと悩むことだろう。 今すぐ解決しなければいけない問題ではない。円さんも今すぐの結論など望んではいない。 むしろ時間を掛けて、ゆっくりと探っていった方が良いとすら思えるような話だ。 「母が失礼なことを言いました。ご両親のことはまして。俺が代わりに謝っても仕方がないとは思いますが」 栄さんは三日後に、わざわざ家にまでやってきた。 緊張しているのが見て取れる。彼がそんな風に全身に力を入れて俺の前で身構えているのは、志摩と交際しているのが分かった直後くらいではないだろうか。 「お気になさらず、ただの事実です」 言われた時もそうだが、今でもやはり不快感も何もない。円さんが語った両親の話は本物で、俺はろくでもない男だ。 蔭杜本家に入っても、何もせずに家で本を読んでいるだけのでくの坊。罵られても致し方ないのような有様だろう。志摩とて蔭杜に入って、有能でかけがえのない存在になれるかどうかと訊かれれば首を傾げざるを得ない。 美丈夫や栄さんに比べれば、兄妹揃って出来は良くない。 「上総さん。そんなことは仰らないで下さい」 「栄さん。俺はあれくらいのことは言われても仕方がないと思って生きています。まして蔭杜の人たちにとって俺の素性が愉快ではないことも理解しています。気にしていません。志摩も同様だと思います」 いちいち傷付くような年でもない。 志摩は母親と反りが悪いので、過去についても不快感に近い感情はあるようだが。自分が文句を言うならばともかく、他人にとやかく言われる筋合いはないと思っているようだった。 血筋だの家柄だのを気にする人々にとっては、俺たちは見下す存在だと分かった上でここにいる。むしろ周囲の人がそれについて今まで言及してこなかったことに驚いたくらいだ。 「母には決して、二度とあのようなことは口にしないように言いました。志摩さんを傷付けるようなことは言うなと」 (息子にそう言われたところで、大人しく引き下がるだろうか) あの人は蔭杜本家について、並々ならぬ思いがある。それは執着、妄執に近いものではないだろうか。息子が一日二日ほどあれこれ言ったところで、大人しく聞き入れるようなものではないだろう。 まして円さんは美丈夫の父と口論になっても、最後の最後まで、自分の主張を一ミリも曲げなかった。 むしろ何を犠牲にしてでも信念を守ると、そう必死に抵抗しているようだった。 栄さんの表情が晴れないのも、母が思うような反応をしてくれないままだからではないだろうか。 (生まれた時から背負わされたものだ) 簡単に脱ぎ捨てられるわけがない。 俺がやろうとしたのに代わりに美丈夫がお茶を入れてくれる。美丈夫のようにすらりと背の高いグラスの中で、冷たい緑茶は涼しげな色をしている。コースターは志摩が来た時と同じだが、栄さんの分だけは志摩と色違いの小鳥になっていた。 いつの間にそんなペアを決めていたのか。 栄さんと志摩の交際が続いていくことを望んでいるのが垣間見える気がした。 美丈夫をちらりと横目で見ると、視線に気が付いたようで目元が和らいだ。 目が合うだけでそんな表情をされると、くすぐったさに襲われては居たたまれなくなる。 「志摩さんとは昨日、話をしました。母が何を言ったのかも、誉からボイスレコーダーを貰って全部聞いていたので。一つずつ説明、釈明をしたのですが」 「おまえさん、ボイスレコーダーなんていつの間に」 「定石です。栄にいちいち説明する手間も省けますし、証拠にもなります。叔母も持っていたと思いますよ。ありがちです」 「ありがちか?」 俺の周囲では遭遇しないことだが?と美丈夫に言っても、微笑みが返ってきただけだった。 「今後については考えさせて欲しいと」 「今すぐ結論を出す必要はないと、志摩には俺からも言いました。ゆっくり考えて、自分の将来について選択するようにと。それがお互いのためでもあると思います」 「俺は、志摩さんと一緒に生きていきたいと思っています。そのためには母を説得します。たとえ説得出来ずとも、親と縁を切る覚悟があります。蔭杜と関わらないように、努力もします」 「上総さんは俺の妻なので、蔭杜と関わらないというのは不可能だが?」 「その点は調整する。何より兄妹が会うのに蔭杜が関与するところじゃないだろう」 美丈夫の指摘に、栄さんは口を挟むなとばかり睨んでいる。 それにしても美丈夫は俺を妻と呼ぶのにハマっているのか。最近よく耳にするような気がする。性別のせいかその度に複雑な心境になるのだが、止めて欲しいと言うと美丈夫が笑顔で却下しそうだった。 事実ですよ、と言われると返事に窮するのでまだ口に出せずにいる。 何より、俺にはもっと他に伝えなければいけないことがある。 「栄さん。その台詞はせめて学生を卒業してから聞かせて頂きたかった」 この人もまだ甘いのだな、と栄さんに向き合いながら肩を落とす。 「親と縁を切る、蔭杜とも関わらないように努力すると仰いましたが。貴方はまだ学生の身分。親、家柄の保護を抜けてどうやって志摩と生きていくおつもりですか?仮に学費を止められたら大学は中退を?それでどうやって金を稼ぎます?職は?住むところは?将来をどうお考えで?」 我ながら嫌なことを次々と尋ねていると自覚はしている。 けれど結婚だのと言い出したのは栄さんだ。そしてその話が大きくなって栄さんは母、こちらは戸籍上はまだ無関係の義理の父まで出てきた。夢見がちなお話で終わらせられない状況まで来てしまっている。 現実的な問題を突き付けると栄さんは口を閉ざした。あれこれ考えているのが次第に滲んでいく苦悩から察せられる。 親からの援助を全て切られて、二人でどう生きていくのか。苦労をかけない暮らしとは口が裂けても言えないだろう。 「貴方は金に苦労した経験がおありでない」 そう語る俺とて、食うや食わずの暮らしをしていたわけではない。だが母親から嫌というほど貧乏どん底の暮らしの辛さ、惨めさは聞いている。恵まれた環境で生まれ育った者との格差も。上澄みで生きてきただろう栄さんに、親という恩恵を切っても、と簡単に言って欲しくはなかった。 「もし誉さんが栄さんと同じことを言ったなら、俺は賛成しました。俺は一応職に就いています。俺だけの給料でも、誉さんと二人だけなら慎ましく生きていくことは可能です。苦労をしてくれと言われれば頷きます。でも志摩も貴方もまだ、その段階にはない」 ご理解頂けますか?そう尋ねると栄さんは頷いた。 そして片手で頭を抱えている。親と絶縁だなんて言ったところで、ただの楽観的な妄想にしかならない。決意だけでは、恋心だけでは飯は食えない。 「……卒業して足下を固めた際には、必ず志摩さんを幸せにします」 「それは志摩に伝えて下さい。俺に言われても」 「いえ、上総さんにも知って頂きたかったんです。その時が来れば、認めて頂かなければいけない。そうでなければ、結婚など出来ないと思います」 そうだろうか。志摩がどうしてもと言えば、俺は反対などしないが。 (結婚なんて、庶民にとっては二人の問題だろうに) 蔭杜ともなると、やはり周囲の同意が必要になってくるのだろう。 しかしそう思いながら、そっと栄さんから視線を外した。水滴に濡れた小鳥のコースター、志摩が来た時を思い出す。あの時の興奮した、だがどこか幸せを香らせた子を思い出すと、憂いが込み上げてきた。 栄さんは長居をすることはなく、頭を下げて帰って行った。背中が一回り大きくなったように見えるのは、彼から腹をくくった男の気配がしたからだろうか。 俺に嫁に来てくれと言った時の、約一年前の美丈夫を思い出しては、やはり従兄弟だなと思う。 (似ておられた) 志摩もあの覚悟に、引っ張られるようにして自分の未来を決めるのだろうか。 (おそらく志摩は) 「嬉しかったです」 志摩の答えを予想していると、美丈夫が傍らに来てはそう声をかけてくる。 何のことだと見上げると、それは柔和な、言葉通り嬉しさを噛み締めているような瞳がある。 喜色の美しさに見惚れていると、美丈夫の手が洗い物をしている俺の指を絡め取る。洗剤の泡が美丈夫の指にもまとわりつくのに、気にならないのだろう。 「何が?」 「貴方が、蔭杜と縁を切った俺と二人で生きていく将来を考えてくれることが」 妙なことを言う人だと思った。 そして美丈夫は蔭杜である自分に価値があると思っているのだろう、とも思った。自分の価値の多くは蔭杜の直系だという部分にあると。その認識はおそらく周囲の人間たちの態度から植え付けられたものだ。 (無理もないのか?) 長く豊かな家柄の本家ならば、家を自分の価値だとすり替えてしまうのは、円さんで目の当たりにした。当主の弟として姉を支えるのを子どもの頃から意識にすり込まれた美丈夫ならば、それも自然な感覚になるらしい。 しかし俺にとって美丈夫が蔭杜であることは価値の大半どころか、下手をすればマイナス要因に近いのだが。 「おまえさんは、蔭杜でなくとも良い男じゃろうが」 街中を歩いて振り返る女性もいるだろうに、本人だってそんな視線は感じ取っているはずだ。その上聡明で誠実で優しい。顔と性格だけで満点を超越している。 欠点は配偶者を選ぶセンスが壊滅的に無いところだけだ。 「ありがとうございます」 「どさくさに紛れてキスを仕掛けてくるでない。洗い物の途中じゃ」 「俺がやります」 もう終わるというのに美丈夫は俺からスポンジをそっと抜き取る。断るのも悪いかと、俺は代わりに洗い終わった食器の水気を拭いていく。 休日の大したこともないやりとりだが、美丈夫は上機嫌だ。 「栄も良い男です。叔母とのやりとりを聞いては憤慨していました。志摩さんには平謝りをして、今後必ず志摩さんを守ると誓ったそうです」 「そうか」 「ですがやはり志摩さんは不安のようで、今後の付き合いについて一度考えたいと仰ったそうです。距離を取られたようで、怖いと相談されました」 「衝撃的な話を聞いたから、志摩も色々考えたいんじゃろう」 「栄が一人前になった時には志摩さんに改めてプロポーズすると思います。その時には出来れば上総さんにも栄を認めて頂ければと思います」 数年後の未来に期待を込めている美丈夫の隣で、俺は口を閉ざした。 そうだなと言えばすんなりと終わる話だ。今日明日の出来事でもないのだから、さらりと流してしまうのが適していただろう。 けれど俺の心の底に僅かにある良心のようなものが、つい沈黙を選んでしまった。それを美丈夫は敏感に読み取ってしまう。 「上総さん?不安がおありなら、教えて下さい。栄では信用出来ませんか?」 「信用出来ないわけではない。栄さんは良い人じゃろう」 そういう問題ではない。 胸が痛むけれど、この憂鬱はいずれ必ず露呈する。ならば早いほうがまだましなのかも知れない。 「おまえさん、俺は志摩に確認したわけではない。これはあくまでも俺が勝手に想像したことじゃ。偏った決め付けのようなものだという前提をおいて、言いたいのだが」 「はい」 「あの姑がいる男と結婚したいと思う人はおらん」 はっきり言い切ると美丈夫は固まった。それは、と唇は動くのだがすぐに閉ざされては唸る。 それはそうだと、きっと考えてしまったはずだ。だからこそ反論が来ない。 「あれほど強烈な姑がいると分かりながら嫁ぐ勇気を、志摩に持てと俺は言えん。栄さんにはよう言わなんだが、栄さんがどれほど頑張っても、姑にあそこまで反対されては並大抵の女は無理じゃ」 「だからこそ、独立を」 「栄さんにとっては良い母親なのじゃろう?縁を切るのは難しい。心境的にもかなり辛い選択じゃろう。それは栄さんの母親にとっても同様。簡単にはいかん。簡単に済ますようなものでもない。志摩はそれくらい理解しておる」 「つまり、上総さんは二人が結婚するには反対だと?」 「志摩がどうしても結婚したいのだと言うなら、応援はする。だが手放しで賛成は出来ない」 絶対に苦労するぞ、という忠告は何度も繰り返すだろう。しかし俺が言う前に、すでに志摩はそれをひしひしと感じ取ったはずだ。だからあの食事会の際に、青ざめたままずっと黙りこんでいた。 (この年で結婚を意識する羽目になるとはな) 好きだけれど結婚はしたくない。そんな相手と付き合っている意味について、志摩は悩んでいることだろう。 「……俺は栄が押し切ると思います。勿論叔母を説得して、考えを改めて貰うのが最優先ですが、それでも志摩さんを逃しはしないと思います」 「そうは言うが、押し切れるじゃろうか」 かなり強烈な印象を植え付けられた円さんが、義理の母親になるのだ。志摩は自分の母親でもいい加減嫌になっているというのに。まして彼女を背負える勇気が出てくるとは、俺には思えない 「上総さんと志摩さんはよく似たご兄妹です。その上総さんを俺は押し切りました」 説得力抜群の笑顔にそう言われて、俺はぐうの音も出なかった。 了 |