美丈夫の嫁11 7





 もし俺が蔭杜本家の敷地で暮らしていなければ、おそらく回れ右をして帰りたいと訴えたところだろう。
 覚悟はしていたが百年近くの歴史を誇る料亭は門構えからして重厚だった。限られた者だけに許された空間であると、高級感が仁王立ちをして門番をしているようだ。
 怖じ気づく俺たちの背中を美丈夫の父があっさりと押す。たたらを踏みそうになりながら門をくぐると、玄関では品の良い着物の女将が深々と頭を下げては部屋へと案内してくれる。和の美しさと静謐さが表現された室内を通り、艶やかに磨かれた廊下の角を何度か曲がる。庭に面した縁側に出ると、灯籠にほのかに照らされた夜の庭から静かな水音が聞こえる。手前にどっしりとした桜が植わっており、春ならば夜桜が楽しめただろう。
(蔭杜で、ある程度耐性は付いた)
 蔭杜の庭も随分と立派なものだ。この庭に一切引けを取らない。それを毎日のように眺められる環境で暮らしているおかげで、多少物怖じせずにいられた。
 しかし志摩は耐性がないせいで、料亭の敷地に入る前からガチガチに固まっていた。今も俺の隣で青ざめている。
 ちらりと背後を振り返るが、こちらの親子からは緊張は窺えなかった。リラックスしたように、美丈夫の父が何やら息子に耳打ちをしている。
 二人とも背丈は高いので、そうして内緒話をする際も背を丸めなくていいらしい。
(よく似ている)
 改まった格好をすると、紛れもなく親子だと分かる容姿をしている。恵まれた遺伝子をしっかり受け継いだらしい。
「こちらです」
 女将は奥座敷の前で立ち止まっては膝を突いて襖を開ける。
 中には一人の女性がこちらを向いて、座っていた。座卓前には座椅子などが置かれているのに、そこには腰を下ろすのではなく、俺たちを迎えるためにわざわざ入り口の近くで待っていたのだろう。
 面食らって、つい言葉が止まってしまう。
「初めまして、栄の母でございます」
 栄さんの母親と聞いて、想像していた年齢よりおそらくかなり若い。驚きを重ねていると頭を下げられ、兄妹して慌ててそれに合わせる。
 完全にリードを取られた。そう直感していた。
 まだ挨拶をしただけだ、しかし正面から見上げて来たその凜とした姿、全身から漂ってくる張り詰めた気配に完全に飲まれていた。
 けれど栄さんの母親は頭を上げて、そこで俺たち同様、言葉を失ったようだった。
「お久しぶりですね。円さん」
「義兄さん、誉さん……」
 それまで襖の影になっていたらしい、美丈夫とその父の姿を目にした途端に、激しい動揺が窺えた。無理もないだろう。俺だってびっくりするはずだ、というか今も正直驚いたままだ。
「どうして?」
「志摩さんが栄君と結婚するということなれば、俺にとっても息子が増えるようなものだからね。誉にとってみても従兄弟が兄弟になるんだ。気になるのは当然じゃないか」
「義兄さん、誉さんは養子縁組をなさったのですか?」
「まだだよ。だが事実婚のようなものだ。少なくともうちではそういう認識だ」
「そうですか」
 そんな話をしながら、席に着く。広々とした座卓の上には三人分の支度しかされていなかった。確かにこれでは当初通りに俺たち兄妹しか来ないと思うはずだ。
「円さんがこの店を指定してくれて良かった。サプライズで、と言ったら通用したよ」
「それは義兄さんだから出来ることですよ」
 予約人数が当日いきなり増やされては、店側の迷惑になるだろうと。美丈夫の父はこの店で会う予定だと伝えるとすぐにサプライズを店に通したらしい。
 予約した人に内密で、というのが通用するのかと思ったのだが。懇意にしている店だから出来るようだった。
 苦笑している円さんの様子から、美丈夫の父だからこそなのだろうと思わせられる。無理を通せる地位の人、なのだろう。
 上辺だけを探るように喋っている間に、五人分の前菜が並べられていく。瓶ビールが運ばれてきては円さんが美丈夫の父に酒を注ごうとしたのだが、美丈夫の父はそれを軽く手で制した。
「お互い手酌でいきましょう。どうかお気遣い。四人で押しかけて失礼をしてるんだ。これ以上は良くない」
 円さんはビール瓶を座卓に置いては深く息をついた。四人対一人。テーブルの位置からして、まるで彼女を責めているかのような構図になっている。
 華やかな小鉢に美しく飾られた料理が並べられていく。店の人たちだけがテキパキと動いている様は将棋の駒を並べているようだ。
 これから対戦が始まるとでも言わんばかりの緊迫した空気だった。
 前菜が並べ終わり、襖が閉められて五人だけの空間になった途端に、円さんはビールを自分のグラスに注いでは唇を付ける。
 まさか自棄になって一気飲みでもするのでは、なんて想像してしまったがただの杞憂で、彼女は少しだけ量を減らすと瞬きをして志摩を見据えた。
「何故私が貴方とお話がしたいと言ったのか。おそらくもう分かっているとは思います」
 初っぱなから切り込んできた。
 志摩がぐっと腹に力を入れたのが、隣に座っていて感じられる。ここが踏ん張りどころだと、志摩も思っているだろう。
 自分の母親と同じくらいの女性を前にして、どこまで出来るのか。俺だけじゃなく、本人もきっと分からないだろう。
 今日どんな服を着るのか、最初は俺に選んでくれと言われたが、俺は栄さんに選んで貰えと促した。母親の好みやTOPも把握しているだろう栄さんが適任であり、円さんに立ち向かった時に栄さんの存在を少しでも感じられたら支えになるのでと思った。
 その考えが役立つかどうか。
「結婚するのは許さない。そうですよね?」
「その通りです。あの子が貴方と付き合っているというのは、噂で聞いていました。ですが若い内にたくさん恋愛をするのは悪くないと思っています。なので彼女が誰でも私は反対はしません。貴方にもそうお伝えしたと思います」
 電話では確かにそう言っていた。交際は反対しないと。
 結婚とは完全に別物だと捉えているから。言い方を変えれば遊びだと思っているからだ。
「ですが栄は何を先走ったのか、結婚などと言い出したそうですね。たかが大学生の身分で、結婚するなどと軽々しく相手に伝えるなんて愚の骨頂。どうか忘れてやって下さい」
 お願いします、と円さんは頭を下げた。
 まさか謝罪が出てくるとは思っておらず、志摩は面食らっている。高圧的に説教をされる予想ばかりしていたせいだろう。
「あの、私は」
「志摩さんも同い年だと聞いています。その若さで結婚なんて聞かされて戸惑ったと思います。将来のことだってまだ何も分からない、これからどうしようかと考えている。そんな年頃でしょう?」
「それは、そうなんですが。でも、私は、真剣に栄さんと付き合っています」
「はい。それは構いません。人の気持ちを止めることなど誰にも出来ない」
「好きな気持ちのまま、この先もずっと付き合っていれば、いずれ結婚という選択を選ぶ時も来るかも知れません。その時、栄さんのお母さんは、私をどう思われますか」
 決定的な問いかけだった。
 円さんは志摩を見据えたまま僅かに眼差しを尖らせた。
「栄が結婚する相手は、ある程度絞り込んでいます。蔭杜の親戚からもお話は聞いています。蔭杜がどういう家であり、どのような形で繁栄してきたのか、そのしきたりは何であるのか。彼女たちは子どもの頃からなんとなくでも聞いているでしょう。何より生まれ育った環境から肌で吸収している」
 蔭杜の中から選ぶ。
 暗にそう宣言している。
 本家に近い人間の伴侶は、生まれながらに蔭杜に理解がなければならないと決められているのか。
「私も、一応、薄くはありますが」
「貴方は何も知らない。それでは務まらない」
 円さんは志摩が喋り終わるのを待たなかった。
 志摩もまた蔭杜の傍系だ。しかしあまりにも端っこ、血が繋がっているかどうかも怪しいほどの遠縁だ。円さんにとっては、それは蔭杜の中、とは言えないのだろう。
 一緒にするな、という拒絶すら感じられるほど、厳しく言い切っていた。
「務まらないとは言うが円さん、栄君は直系じゃない。結婚相手にそこまでこだわるもんかい?」
 美丈夫の父はいつの間にか一本目のビールを空けていた。しかし顔色も口調もさっぱり変化がない。ビール一本くらいでは全く酔わないのだろう。
 当然のごとくその手は二本目に伸びる。円さんはそれを察しては先に瓶を取り、蓋を開けては美丈夫の父へと渡した。
「栄は直系ではありません。ですが私は直系。先代の妹、まして私が誰の娘かご存じでしょう?」
 苦笑が込められたその言い方は、自分の父親を自虐を込めて示しているようだった。
「私は蔭杜の血が濃い。跡継ぎは当主の娘、そうでなければ親戚から女を引き取ってくる。それがしきたりです。血が繋がっていれば誰でもとは言いますが、当主から血が近いに越したことはない。実際、当主に跡継ぎがいなければ血が近い女児が養子になって育てられました」
「円さんが蔭杜のことを思って、跡継ぎを気にするのか分かる。貴方が最も当主に近い存在ということも、出来の悪い先代より貴方の方が当主に相応しいと言われていたのも事実だ」
「私は当主にはなりません。姉が最低な人だったせいで周りがそう騒いだだけです。不義の子が当主には座れないでしょう。それこそ、面汚しと言われます」
「不義の子であろうがなかろうが能力のあるものが頂点に立てばいい。何より不義は貴方には何の責任もないでしょう」
「あるんですよ。世間様はそう見る。親の因果が子に報い。そういう世の中です。なので我が子には、決して嫌な思いをさせぬようにと身を慎んで生きてきました。同時に呪わしい私の血は、蔭杜の中枢に据えられる可能性を持っています。私が娘を産めば、その子が当主の保険に、そしてその娘がまた娘を産めば当主の保険は続いていくのですが、生憎息子しか生まれなかった」
「だから、栄の子どもに期待を?」
 美丈夫の問いかけに円さんは緩く首を振る。
「期待ではありません。最善の道を選んでいるだけ。あらゆる選択の中で最も良いものを。蔭杜の未来に繋がるものを選んでいる」
「次の当主は姉が選びます。それに姉が子どもを、娘を産めば次の当主は決まったも同然です。叔母さんがそこまで栄の結婚相手にこだわらずとも、当主の血だけで続いていく可能性は十分にあります」
「いくら環さんの体調が良くなったとは言え、出産に耐えられる身体かどうかは分からないでしょう。まして環さん自身もこの前倒れたと聞きました。いつどうなるのか分からない以上、何事にも備えている必要があります」
「……到底環には聞かせられない話だ」
 美丈夫の父が苦渋を滲ませると、円さんははっとして口元を押さえた。
 罪悪感。そう感じられるものが円さんの顔に広がっていく。
 言わなければ良かった。
 そんな心の呟きが聞こえて来そうだった。きっと環さんと美丈夫に優しかった、という叔母の話は本物なのだろう。
(だが蔭杜の血に関わると、その優しさもどこかに飛んでしまう)
 まさに捕らわれているのかも知れない。
(環さんを連れて来なかった理由はこれか)
 優しかった叔母が環さんを貶める様を見せたくなかったのだろう。
「言い過ぎました。彼女にそうなって欲しいわけではありません。勿論、環さんが女の子を産み、その子が当主になるのが一番良い未来です。私もそれを信じています。ですが思った通りに物事は進まないものです。万が一、という事態になった時、そこから慌てているようでは蔭杜は衰退するかも知れません。ならば多少の苦しさはあったとしても、万全の備えをしておくべきではありませんか」
「その備えが栄君か。母親として、それでいいんですか円さん」
「恋愛と結婚は別物。それは義兄さんだってよく分かっているじゃありませんか。そしてそれでも幸せは掴めるものだとも」
 美丈夫の父は口を閉ざした。
(この人も、美丈夫の母とは見合いか何かで結婚しておるのか)
 恋愛結婚ではなかったらしい。その横顔の淡々としたところを見ると、結婚するいきさつはあまり好ましいものでもなかったのだろう。
「栄が娘を授かったなら、その子が当主になる可能性がある。ならその母親は、当主の生みの親として家柄、資質、品格が問われます。貴方にそれがありますか?」
 急に自分へと矛先が戻って来て、志摩がびくりと肩を震わせた。
 強張る唇は「ある」と断言するだけの力を持っていない。致し方がないだろう。円さんが示した三つに関して、俺たち兄妹が胸を張れるところはない。
 まして蔭杜の人たちと比べればどれも劣っている自覚がある。
 円さんはそれを見抜いた上で、返事に窮した志摩に落胆したように憂いを帯びた瞳を伏せた。
「上総さんが誉さんの奥さんになられたと聞いた時、それで本当に良いのだろうかと思いました。いくら蔭杜の親戚とはいえ、直系とは遠いほぼ無関係の他人です。しかも事業に失敗して借金を抱え首を吊った親を持つ息子と、どこの生まれかも分からない水商売の女との間に出来た子でしょう。ろくなものではありません。その上父親は早くに亡くなっている。お金に困って、誉さんに取り入ったのではないかと思いましたよ」
「叔母さん!上総さんにあまりにも失礼です!言葉を撤回して下さい!」
「ですが事実です。私は間違ったことは言っていません」
「聞き捨てなりません!」
 気色ばむ美丈夫の手を掴んだ。
 目を合わせると美丈夫は強い憤りを宿した眼差しをしていた。俺に向けられたものではないと分かりながらも、胃が締め付けられるような気迫が一気に押し寄せてくる。
 彼の優しさから生まれているものだと思うと申し訳なさがあった。
「事実です」
 円さんが語ったのは全て事実だ。
 何一つ誇張されていない。
 彼女の言う通り、他人からすれば俺はろくでもない素性の人間だ。
 俺の一言に美丈夫が動じては憤りを鎮めていく。代わりに悲哀の色が溢れ出しては、肩から力が抜けていくようだった。
 切なげな表情に、何故この人が傷付くのかと不思議な心地になる。
「一つだけ言うならお金に困って誉さんの元にいるわけではありません」
「妹さんの学費を蔭杜が肩代わりしているそうですね」
「痛いところを突かれました。それを言われると、返す言葉は御座いません」
 よく調べているものだ。
 志摩が悲愴な様子で唇を噛んだ。どうせ自分のせいで、とでも思っているのだろう。
 けれどそれを言うなら、妹の学費もさらりと払えなかった俺や母親のせいでもある。
「それは俺から言い出したことです。少しでも上総さん、志摩さんの楽になるようにと。肩代わりはしましたが、卒業後に少しずつ返して貰う約束です。上総さんには俺たちの方が助けられています。俺にとってはかけがえのない大切な人です。何より俺の愛する妻です。ろくなものではない、などと言われる筋合いはない」
(あっ……)
 愛する妻、と言い切られた。
 真剣に、挑みかかるように告げられたその言葉が、思わぬ衝撃となって俺に突き刺さる。おそらくこの場にいる誰よりも、俺が耳を疑っているだろう。
(愛するなど、そんな人前ではっきり言うのか、おまえさんは……しかも妻という単語付き……)
 数え切れないほどこの男に驚愕させられたが。これほどまでに破壊力があり、また恥ずかしく、人目が痛いと思ったことはなかった。




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