美丈夫の嫁11 3





 この年で嫁になったらどうしよう。私料理が出来ん。お兄ちゃん教えて。家事なんぞ真面目にやっとらん。うちの部屋を見たら分かるじゃろう?どうしよう!
 志摩は何やら混乱しているようで、嫁になるために足りないスキルを次々に述べていく。家事は真面目にやれと、一人暮らしの志摩の部屋に行く度、片付いていない空間に口酸っぱく繰り返してきたのに。この子は全く反省していないままだ。
「だから言うておるじゃろう。掃除洗濯料理なんぞ、毎日のことじゃ。積み重ねて腕を上げる。後回しにして逃げてばかりおるからおまえはいつまで経っても上達せんのじゃ」
「だってだって!一人なら別に部屋が汚れてても洗濯だって山になってても困らないんだもん!ご飯はお兄ちゃんが作り置きしてよ!」
「我が儘を言うな!なんで俺がたまにおまえの部屋に行く度掃除をして冷蔵庫に食料を詰めねばならんのか!」
「お二人とも落ち着いて下さい。まずは志摩さんは中に入って、何故嫁などという話が出たのか教えて下さい。上総さんも混乱して、話の矛先をずらして逃避しないで下さい」
 美丈夫が志摩を促してリビングに誘導するのを眺めながら、俺はキッチンに向かう。そして冷蔵庫からアイスティーの作り置きを出して、ようやくそこで「嫁ってなんだ」と呟いた。
(志摩が嫁?嫁ということは結婚するとでも言うのか。それとも俺が嫁になったみたいに、何かしらの役割を担うということか)
 ぐるぐると様々な可能性を探りながら、アイスティーをグラスに注ぐ。オレンジ色のアイスティーに満たされた三つのグラスを美丈夫がリビングのローテーブルへと運んでいく。お茶請けのクッキー缶を引っ張り出しては白い皿に並べて、アイスティーの隣に並べた。
 ふと見るとグラスの下にはしっかりコースターも敷かれている。志摩のコースターは可愛らしい小鳥のものだ。俺と美丈夫は揃いの蔦の模様で、それぞれの印象に合わせているのかも知れない。
 志摩はアイスティーを一口飲むと「美味しい」と口元を緩めた。
「マスカット?」
「そう。環さんからお裾分けして頂いた茶葉で作った水出しアイスティーだ」
 環さんが俺の本を借りに来た際に持ってきてくれた茶葉だ。冷蔵庫で一晩寝かせるだけで出来るアイスティーは、お手軽なのにマスカットの爽やかな香りを楽しませてくれた。
 さっぱりとした風味でごくごく飲める。暑い季節にはもってこいだ。
「……仲良くしてるんだね」
「うん?ああ、よくして貰っている。それよりおまえはどうした。何が起こっているのか最初から話せ」
 クッキーに手を伸ばそうとした志摩が固まった。そして伸ばした手を引っ込めては、また両手を握る。それはきまずい、少し話しづらいと思う時によく見られる仕草だ。
 しかし話さなければいけない重大な問題に直面したのだろう。だから突然蔭杜という、志摩にとっては苦手意識の塊のようなところまで来たのだ。
「……今日は、栄さんとデートをする予定だったの。待ち合わせ場所で五分前には逢えて、その時に今日の服が可愛いって言われて」
「そうじゃな、可愛い」
「可愛らしいです」
 俺と美丈夫がそれぞれ志摩の服装を褒める。シャツワンピースはウエスト部分がベルトになっており、スカートはふわりと脛の辺りまで広がっている。清楚な印象でデートに着ていくにはよく適しているだろう。
 志摩は普段動きやすいからとパンツ姿でいることが多い。なのでワンピースを着ている時点でデートに気合いが入っているのが丸分かりだ。
「私も可愛いと思う。狙った通りの答えが返ってきて、やったと思ったのよ。そうしたらその気持ちが顔に出てたらしくて、栄さんにとってはそれも、なんか、可愛かったらしいのね。それで、勢いがついたのか、キスを、されたわけよ」
「はあ」
「それが初めてのキスってわけじゃないの。初めてじゃないんだけど、なかなか、あんまり、そういうのはしない人みたいで。最近まで、手を繋ぐだけだったのが、ようやく少し進んだかな、って感じだったの」
「はあ」
 志摩は気恥ずかしいのだろう。視線を彷徨わせている上に説明が途切れ途切れになっている。
 内容はただの惚気だ。可愛いと言われて嬉しかった。照れたらキスをされたという。何とも微笑ましい話なのだが、妹の口からそれを聞かされた兄は一体どんなリアクションをするのが一般的なのだろうか。
 俺にはよく分からなくて、生返事しか出てこない。
 赤の他人の惚気など平然と、心動かさずに聞き流せるのだが兄妹だとややむず痒い。気恥ずかしさをこちらにまで伝染させてくるのは止めて欲しい。
「奥手な人なんだと思ってたの。でもそういうの、悪くないっていうか、私としては信頼出来る人だなって思ってたんだけど」
「はあ」
「それを、人に見られたんだよね」
「ほう」
「それで、栄さんは変なスイッチが入ったみたいで」
 変なスイッチ、というところで先ほどの美丈夫の姿が思い出されて思わず身構えた。まさか襲われたなんて話になるのだろうか。
「結婚して下さいって」
「は?何故に?え、結婚して欲しい?」
「そう言われたの!私びっくりして!」
「そりゃあびっくりするじゃろう!え、なんじゃ、キスをされるのを人に見られたらその相手と結婚しなければならないしきたりでもあるのか!?」
「ありません」
 斜め上にカッ飛んだ話に、思わず美丈夫を見た。蔭杜の一族にはそんな突飛な掟でもあるのかと疑うが、返ってきたのは何とも穏やかな微笑みだった。
「それにしても、腹をくくったものですね」
 驚愕する兄妹を横目に、美丈夫はリラックスしたままゆったりとクッキーを摘まんでいる。従兄弟の奇行に、驚く部分はないのか。
(そういえばこの人もいきなり結婚を申し込んできた)
 蔭杜の人々は突然に求婚してくる人種なのだろうか。
「よろしいのでは?結婚して欲しいという気持ちがあいつにはあるのだと、そう証明したかったんでしょう」
「たかがキスを見られたくらいで?」
「それだけの覚悟があると知って欲しかったんでしょう。中途半端な気持ちではないと」
 いや重いな、と俺は思ったけれど口には出さなかった。隣にいる美丈夫も同じタイプであり、重さに大差が無い気がしたからだ。
「見られた相手が、相手だったからかも知れない」
「誰に見られたんじゃ?」
「栄さんのお母さん」
「ああ……なるほど」
 付き合っている彼女とキスをしている場を見られて、栄さんは親にも交際を伝える決意をしたのか。それとも親公認の関係になって欲しい、いずれは結婚も視野に入れて欲しいという気持ちが暴走したのか。
 無関係の赤の他人に見られただけで結婚に走ったと思うより、筋書きは理解出来た。
 栄さんのお母さんがどんな人なのか、美丈夫に尋ねようとした。けれどその横顔を見て、俺は絶句した。
 従兄弟の恋愛が進展していることに微笑ましいという表情を浮かべていたはずなのに。顔つきは完全に変わり、底冷えしそうなほど冷たい瞳をしていた。
 笑みは消え、代わりに背筋がぞくりとするような緊張感が漂ってくる。
 志摩も美丈夫の変わりように当惑しており、兄妹で黙って顔を見合わせる。
「栄が言ったのですか。あれは母だと」
「はい……」
「どんな様子でした?」
「ちょっと驚いていたみたいですが、すぐに笑って会釈をしてくれて。私も頭を下げて、反射的にすみませんとは言ったんですが、恥ずかしくて声が小さくて聞こえていたかどうか」
 何かとんでもないことをしてしまったのかと、志摩は心細そうに早口で説明をする。美丈夫はそれを淡々と聞いていた。
「栄さんのおうちのすぐ近くで待ち合わせてたのに、そんなことをしたのがまずかったのは分かるんだけど」
「栄さんは、それからなんと仰った?ここにいるということはデートは中断したのか?」
「結婚して欲しいって言われた後に、答えは今すぐじゃなくていい。今日は申し訳ないけどデートは出来なくなったって言われて……また連絡するからって。それ以上何も言えないくらいに真剣だった。だからお母さんに私たちのことを説明するのかなって思ったんだけど」
 志摩は美丈夫の様子を窺う。もしかして何か、良くない状況になりつつあるのか不安なのだろう。
 緊張感が高まっていく中、美丈夫は手で口元を覆っては深く考え込んでいるようだった。先ほどまでは聞いている方まで気恥ずかしくなるような、微笑ましい話をしていたはずなのに。一変してしまい兄妹で取り残される。
「おまえさん、栄さんのお母さんはどのようなお人だろうか」
 ネックになっているのは間違いなくその人だ。
 美丈夫は口元を覆っていた手を外しては、目を伏せた。目尻に物憂げな影が淡く落ちる。
「叔母は栄にとっては良い母親のようです。子どもの頃は俺も世話になりました。ですが誰よりも蔭杜に捕らわれている気がします」
「蔭杜に捕らわれている?」
 美丈夫は俺の問いかけに何かを言いよどんでいた。
 不穏な表現の理由を放っておけるわけもない。黙って返答を待っていると、答える前にテーブルの端に置かれていた美丈夫のスマートフォンが鳴った。
 そこに表示されているのは栄さんの名前だ。
 志摩はアイスティーを飲んでいてそれを見ていなかったらしい。まして向かい側に座っているせいで、画面自体見づらかっただろう。
 美丈夫は志摩の視線から隠すように、スマートフォンを素早く取っては「失礼」と短く告げてソファから立ち上がる。
 早足で部屋から出て行く美丈夫を見送りながら、美丈夫の嫁になると親戚たちに紹介された時を思い出す。
 大勢の親戚たちの中に、栄さんの母親もいたはずだ。確か従兄弟の母と誰かが紹介してくれていた。だが特に印象には残っていない。おそらく当たり障りの無い会話をさらりとした程度だったのだろう。
 極度に気を遣っていた上に、次から次に人が来るせいで親戚たちの顔も名前もろくに覚えていない。
(まさかこんな形で関わるようになるとは)
 蔭杜に捕らわれている。
 到底、良い未来が思い描けるような一言ではなかった。




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