美丈夫の嫁11 2





 立川さんが娘を探しているという話を聞いて、美丈夫は蔵まで足を伸ばしたらしい。
 最近俺と共に蔵で本を読んでいるのを見かけていただけに、すぐにぴんときたそうだ。案の定そこにいた少女を立川さんの元に送り届けてから、俺たちは家に戻った。
「何故人妻という話に?」
 出てくるだろうなと思ったその疑問に、俺はコーヒーメーカーに豆を入れながら苦笑した。
「新しいお父さんがいればいいのに、と話しておったんじゃ」
「ああ……それは難しい。立川さんは再婚相手は探していないようですが」
 この家の家事を担ってくれている立川さんは、俺たちにとってはお世話になっている有り難い存在だ。顔を合わせる機会も度々あり、他愛ない話もちょくちょくしている。
 何故この仕事に就いたのか、これまで何をしていたのかも。日常の中でたまに話してくれる。
 男はもうこりごりだ。再婚なんて一生しないと思う。
 それが立川さんの考えだった。子どものことを思えば尚更、男に振り回されるような生活はしたくないらしい。男を見る目が自分にはないと、随分反省していた。
 何も彼女だけが悪いとは思わない。それどころか暴力を振るう男が悪いに決まっていると俺は思うのだが。子どもを巻き込んでしまったからと、立川さんは悔やんでいるようだった。
「立川さんは再婚するつもりは毛頭なさそうじゃが、娘さんは母子家庭ということを気にしておるようじゃ。どうもクラスで父親がいないのは彼女だけらしい」
「それで、何か問題が起こっているんですか?」
 美丈夫も俺と同じ心配をしたらしい。陰った表情に首を振る。
「今のところは大丈夫らしい。父親がいないということを指摘するのもよろしくないという雰囲気があるようじゃ。ナイーブな問題に触れるのは避けるのがマナーといったところか。よく出来ておる」
「立川さんのお子さんが通ってる小学校は落ち着いた子が多いそうですよ」
「そうじゃろうな。クラスメイトに揶揄われてというわけではなく。単純に寂しいんじゃろうな」
 そしてそれが最も切ない理由でもある。
 両親ともからの愛情が欲しい。それは純粋な願いだ。けれどそれを叶えるにはかなり難しい。
 立川さんの元夫は父親には相応しくなく、かといって新しい父親を母親は求めていない。
 娘に欲しがられたからといって簡単に見付けられるようなものでもない。父親は道具ではないのだから。生きた人間相手ほど慎重にならなければいけない。
「母親は幼い弟にかかりきりになってしまう。それを責めたところで寂しさは増すばかり。新しい父親がいればいいのに。そう思ったのじゃろう」
「もしかして、それで上総さんに?」
「近くにいるそこそこ若い男で結婚していないだろうと分かるのが、俺かおまえさんくらいだったようじゃ」
 立川さんの周囲にいる男性は高齢の方ばかりだ。元々蔭杜には男性が少ない。当主である環さんが男性が苦手だからだ。
 そのため母親の相手にするなら、と考えた際に見付かったのがたった二人だった。
「俺も候補に入っていたんですか?」
「入っておったよ。俺もおまえさんも無理じゃと言っておいた」
「もしかして、上総さんを人妻かと聞いていたのは」
「失言だった。人妻とは何かと尋ねられて困ったわい」
 豆を引き終わり、コーヒーが抽出されていく音に美丈夫の小さな笑い声が混ざる。
 蔭杜の事情も、俺がここにいる理由も、何より世間一般の夫婦の形もよく分からない子に。人妻などという何やら妙な生々しさが漂うものをマイルドに教えようとするのは至難の業だったのだ。
 まして自分がそうだなんて、世間からずれすぎている。下手をすれば狂気の沙汰だ。
「ご自身を人妻だと思っていらっしゃるんですね」
「嫁嫁と散々言われておるからな。多少は」
 そう言いながらも、さすがに人妻は馬鹿馬鹿しい表現だったなと反省していると、ソファに座っていた美丈夫が立ち上がっては距離を詰めてくる。
「それは嬉しい限りです」
 笑みと共に囁いては、美丈夫の手が俺の腰に回される。男の腰を抱いて何が面白いのだと少し前までは思っていたのだが。今はその手付きに思い当たる節があれこれ出てくる。
「こら」
 俺の予想を後押しするように、美丈夫の目つきが危ういものになっていく。情欲を帯びた視線が濃くなっていくのに、俺は目をそらした。
「コーヒーを入れている」
「後で頂きます」
 そんなことを言って、後という時間がいつになるのかは分からないくせに。
 半ば諦めたように思ってしまう時点で、負けは確定している。
 俺がろくな抵抗をしないのを察した美丈夫は腰を抱いたまま、ソファに俺を押し倒した。のしかかってくる自分より大きな身体に、もう一度叱るのだがお構いなしに唇が下りてきた。
「ん……んっ……」
 数度ついばむように重ねてから、口内に舌が入ってきた。ぬるりとした熱い舌に思考力が絡め取られていく。唾液に溶けていく理性を、喉奥まで流し込む。
 官能をざわつかせる舌先に、視界の明るさがかろうじて残っていた自制心を呼び起こした。
「真っ昼間から……」
「何かご予定が?」
「……俺を待っている本がある」
「そちらとは後で再会を。今は人妻になって下さい」
「無茶を言う」
 人妻になれというのも奇妙な言い方だ。しかし最初から嫁になってくれ、と請われて始まったような関係だ。妙なのは初めからだった。
「まあ……他の誰もそうは言えないが。おまえさんだけは俺を人妻とは言えるか。おまえさんだけの人妻ということになるな」
 人妻というからには他人の妻を示しそうなものだが。他人からしてみれば俺が妻と見られることはない。有り得ない現象だ。
 人妻が通じるのは蔭杜の中だけ。その内側だって俺を嫁とは言うが、妻だなんて言い方をする者はいない。
 万が一、誰かに俺を紹介する場合でも「うちの妻」と口にする可能性があるのは美丈夫くらいのものだ。
「うわ」
 俺にしてみれば淡々と呼称について考えただけなのだが。美丈夫にとって何かのスイッチが入ったらしい。ただでさえ危険な目つきをしていたのに、それが更に剣呑なものになっていた。
 ギラギラとしたそれは俺に噛み付いて、むしゃぶりついてやるという意欲が溢れている。
「真っ昼間のリビングということを忘れておるじゃろう」
「途中まで覚えてました」
「おまえさんの言う途中はどこまでじゃ」
 そんな食い付きそうな目で何を言うのか。途中というのは入れないということか。
(昨日、出来なかったからな)
 俺が翌日休みの場合、セックスをする場合が多いのだが。昨夜は眠気が勝って、俺が延期を申し出たのだ。美丈夫も大学の課題が積もっていたようなので、双方の合意が得られたのだが。欲望は溜まったまま、発散されていない。
 今ここで火が付いたようなものだ。
 俺とて覚えてしまった美丈夫との性行為に、惹かれないわけではない。
 服の中に手を入れては肌をまさぐってくる美丈夫の背中に、腕を回そうとした。俺が応じる姿勢を見せたことに、美丈夫の双眸が細められたのが見えた。
 その瞬間を待っていたかのように、インターフォンが鳴る。
「…………」
 無言で見詰め合う。
 これが実家ならば無視していたかも知れない。
 だがここは蔭杜の敷地内に建てられている離れ。来客が正門のインターフォンを押したところで繋がるのは母屋だ。ここではない。
 このインターフォンを慣らせるのは内部の人間だけだ。そして内部の人間は俺たちがここにいることは予測しているだろう。
 何だったら庭から容易に部屋へ侵入出来る。下手に居留守なんて使って、庭に面している大きな窓からリビングに入られても困る。
「立川さんが来られたやも知れん」
「……そうですね」
 美丈夫は大変重い溜息をついて身体を起こした。渋々、仕方なく、不本意ながらという気持ちがこれでもかというほど顔に出ている。
 インターフォンの受話器を耳に当てた美丈夫は、すぐに不可解そうな表情へと変わる。そして俺を振り返った。
「志摩さんが来られてます」
「は?志摩が?」
 思いも寄らぬ名前だ。
 俺が唖然としている間に美丈夫は離れに通すように話をしている。
「あいつ、アポもなしにいきなり来るなぞ失礼じゃろう」
 志摩とは実の兄妹で気が置けない相手ではあるが、ここに暮らしているのは俺だけではない。いきなり訪問すれば他の人々の迷惑になる。
 それくらい注意するまでもなく理解しているはずだったのだが。何故いきなりやってきたのか。
「上総さん、スマートフォンはどちらに?志摩さんは連絡がつかなかったので、突然来て申し訳ないと謝られているそうです」
「……部屋に置きっぱなしかも知れない」
「蔵に行く時はお持ち下さい」
 閉じ込められた際、外部との連絡方法がなくて大騒ぎになったのを忘れたわけではないだろう。そう目で叱られる。
 雨の中、美丈夫は走りまわってびしょ濡れになったあげく風邪を引いたのだ。それを思うと「申し訳ありません」と頭を下げるしかなかった。
 苦笑するだけで許してくれる美丈夫に感謝していると再びインターフォンが鳴らされる。今度は志摩が家の前まで来た合図だろう。
「スマホは見ておらなんだ。すまん。じゃが来るなら前日から教えて貰いたかったぞ」
 少なくとも三時間前まではスマートフォンを見ていた。事前に連絡をするならもっと早い段階で教えて欲しかったものだと、自分の不手際を棚に上げて妹に注意をする。志摩は兄の説教に異様なほど深刻そうな表情になる。
(そこまできつく責めているわけではないのだが。言い方がきつかったか?)
 あれ?と違和感を覚えていると、志摩がぎゅっと胸の前で両手を握った。
「私……どうしよう」
「志摩?」
「今度は、私が嫁になるかも知れん」
「は?」




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