美丈夫の嫁11 1





「彼女作らないんですか?」「え、彼女いますよね?同棲してるんですよね?」「結婚願望とかないんですか?」「彼女いるはずなのに、気配がしないのはなんでですか?」
 そんな話を振られても、曖昧に濁して乗り越えてきた。
 いや、乗り越えたと思っているのは俺だけなのかも知れない。彼らは懲りずに似たような話題を振ってくる。いつ飽きるのだろうかと、密かに願っていた。
 誰かと暮らしているなんて、俺は明言していない。実家を出たとは言ったけれど、誰と同棲しているのかなど、他人様には関係がない。
 しかし彼女と同棲していると半ば決め付けられていた。
 まあそれは別に良い。当たらずとも遠からずだ。けれど結婚しないんですか?という質問は止めて欲しい。
 結婚は俺にとって間近であり、ある意味遠いものだ。何故なら同性婚は現在の日本ではまだ認められていない。
 だが俺はすでに嫁の立場として、蔭杜の中で暮らしている。彼女はいないが、俺が彼女のようなポジションにいる。
 誰に説明する気もないのだが、説明のしようはなかった。しても理解を得られないだろうなという確信があった。
 平々凡々な人生を送っていたはずなのに、俺は随分道を踏み外したのではないだろうか。



「うちにはお父さんがいないから。母子家庭は可哀想だって言われました」
 蔭杜の蔵の一つ、みっちりと本が詰まった蔵で休日を満喫していると、立川さんの娘さんがひょっこりと覗き込んできた。
 以前扉が開いている蔵からお化けが出るのではないかと怖がって、中に俺がいるとも知らずに閉じ込めてしまったが。お化けなどいないという話と、頻繁に俺がこの蔵でくつろいでいる様に安心したらしい。最近はたまに蔵にやってきては、古い絵本や美術本などを一緒に読んでいた。
 暗い蔵の中、ランタンの光で本を読むというのが少女にとってはわくわくする空間らしい。目を輝かせて本を選ぶ子の姿に、自分も共感していた。
 自室でのんびり本を読むのも良いけれど。少し変わった空間で、いつもと違う光源に照られながら読書というのも気分が高揚するものだろう。
 読書にはシチュエーションも意外と大事なのだ。
 今日はアール・ヌーヴォの巨匠について描かれた美術本だ。十九世紀末にポスター画家として一世を風靡した画家は日本にも大きな影響を与え、今でも多くのイラストレーターにインスピレーションを与えている。
 少女にとっても彼の絵は魅力的なのだろう。綺麗、すごいと興味津々で読んでいた。読めない漢字は俺が代わりに音読しては、意味を軽く解説もしていた。
 志摩を思い出していると、少女は不意に父親がいない事実を口にした。
「……可哀想というわけではないと、俺は思うけどね」
 父親がいないというならば俺も同じだ。けれど俺が父を失ったのは十二歳だ。少女の年にはまだ父に肩車をされていた頃だ。
 それを思えば、彼女の寂しさを推し量るのは難しい。ましてこの子が今ここにいるのは、母親が五歳の弟にかかりきりになっているからだ。
 弟はまだ小さい、それにやんちゃ盛りでもあるらしい。母親が手を焼いているのも、娘の目からしても分かるそうだ。けれど自分にもちゃんと目を向けて欲しい。お姉ちゃんだからと我慢ばかりするのは辛い。
 そんな気持ちが混ざり合って、逃げるようにここに来た。詳しく話は聞いていないけれど、彼女の状況と表情からなんとなく察しは付いた。
(まだ九つ。弟とは四つ差か……我慢しろというのも酷じゃな)
 まだまだ親に構って欲しい年頃だろう。それにお姉ちゃんだから弟の面倒を見なさい。我慢しなさいというのは大人のエゴだ。
 ここに来ることで気分転換になればそれで良いがと思っていたところに、更に難しい問題を聞かされて唸ってしまう。
「可哀想じゃないけど、でもたぶん普通でもないんだと思います」
 敬語を学んだ子がたどたどしい口調で、だが真剣に語る。
(普通か……)
 有り触れた、頻繁に耳に入ってくる単語だ。だがその単語が含むところは複雑さ、曖昧さは混沌としている。厄介なそれに、母子家庭は含まれていないらしい。
「普通じゃないとは思わないけどな」
「でもクラスでお父さんがいないのは私だけなんです」
「……お父さんがいないことに関して、誰か何か言ってくる?」
「言わない。そういうことは言っちゃいけないことになってるみたい」
 なるほど、と独りごちる。俺が子どもの頃は母子家庭だの何だのと言って馬鹿にしたり見下したり、差別的なものもあったけれど。昨今ではそれも減ってきているのだろう。
 もしくは彼女の通っている学校が、穏やかな性格の子どもたちが多いのか。
 それにほっとはするけれど、母子家庭で他の子とは少し違う背景があるというのは、彼女にとっては憂いになっているのだろう。
「でも新しいお父さんは作ることが出来るって聞いたの」
「作るというのは、少し違うが。まあ、お父さんになってくれる人がいて、お母さんと弟君と君がその人にお父さんになって欲しいと思うなら、新しいお父さんは出来るね」
 立川さんにその気があるかどうかは謎だ。男なんてこりごりです、再婚なんて考えてません、という発言ならば以前聞いたが。娘の発言で気が変わる可能性もある。
「……新しいお父さんが欲しい?」
 母子家庭は彼女にとっては傷なのだろうか。
 誰に揶揄されずとも、蔑まれずとも、寂しさはあるだろう。愛情がもっと欲しい、構って欲しい。守って欲しい。という気持ちは責められるべきでもない。
「……わかんない。いた方がいいと思う。でもお母さんが泣くのはもう嫌」
「そうだね……」
 立川さんの離婚理由は夫からの暴力だと聞いている。少女がその場を見ているかどうかは分からないけれど、母親が幸福ではなかったことは、肌で感じ取っているだろう。
「上総さんはお父さんになれませんか?」
 大きな瞳は思いも寄らない提案をしてきた。意表を突かれて、無言で見詰め合ってしまう。
「……なれないなぁ」
「私のお父さんじゃなくて、私の彼氏でも駄目ですか?」
「もっとなれない」
「年の差ですか?」
「年の差というより、俺は人妻だから」
 俺は何を言っているのだろう。
 とっさにそう思った。
 こんな年の子の彼氏だなんて倫理的に無理だ。犯罪としか思えない。そもそも冗談でも彼氏になってなんて、そんな提案はよろしくない。
 そう理性的な判断が出来たはずだが。どうして口から出てきたのがこの単語だったのだろう。
「人妻って何ですか?」
「ああ……うぅん……人妻というのは、結婚している、女性のことで……」
「上総さんは男の人ですよね?」
「うん、そうだね。そうなんだけどね。妻になるのは何も女性だけではないというか、婚姻関係には男女の違いはなく、そもそも伴侶というのが本来正しいのかも知れない。昨今のジェンダーの平等に関する問題でもそれは関わってくると思う。旦那、嫁という表現ももはや古く、性別による呼称の区別というのものも不必要になってきているのが実情だろう。国際的な目線からしてもパートナーという呼び名が適している風潮になりつつあると、俺は感じているんだが」
「何を言ってるのか分かりません」
「俺も分からなくなってきた」
 自分の口から出てきた人妻というインパクトの塊をなんとかオブラートに包んで伝えようとして、堅苦しくなるしかなかった。しかし小学三年生にその堅苦しさは通用しなかったらしい。当然だ。
「俺はなれない、ということだよ」
 人妻という単語はどうか忘れて欲しいと、結論だけを教える。
「誉さんでも?」
「そうだね、誉さんもなれないよ」
「誉さんは人妻なんですか?」
「いや、あの人は人妻ではない」
 我ながらなんだかすさまじい会話をしている。
 美丈夫と人妻なんてこの世で最も結び付かないものではないだろうか。
 いや、本来なら俺にだって適応されない単語だ。そうだ、毒されてはいけない。俺だって人妻ではないのだ、世間的には。
「人妻と言ったのが悪かった。俺も誉さんもなれないよ。俺たちにはもう決まった相手がいるから」
 他の誰のものにもなれない。そう決めたのだ。
 少女は瞬きをしては肩を落とした。がっかりだ、と態度で示してくるけれど、さほど悲嘆に暮れているようでもない。
 当てが外れた。その程度の落胆のようだ。
「人妻がどうかしたんですか?」
 美丈夫が木漏れ日を背に蔵へ入ってくる。いつから聞いていたのか、人妻という俺が早く押し流して無かったことにしたい単語を口にしてくる。
「上総さんは人妻ですか?」
「えっ」
 少女のあどけない、無垢な質問に美丈夫は目を真ん丸にした。
 何の会話をしていたのかと、奇妙に思っただろう。
 少女に何を吹き込んだのかと訝しがられると思ったのだが、美丈夫は俺の予想を超えてきた。
「そうだよ」
 ものすごく良い笑顔だった。




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