美丈夫の嫁10 9





 美丈夫の過去を、俺はよく知らない。本家の事情も突っ込んだことは何も尋ねてこなかった。
 親戚の顔どころか数も把握していないが、それで良いと思っていた。
 俺はかりそめだ。一時、嫁という席を埋めるだけの置物。黙ってそこにいるだけの存在。どうせそう遠くないうちに、男の嫁なんてものは形骸化して、いるかいないかも分からないようなものになって、放り出されるだろう。
 そう推測していたのだ。
 だがもしかしてこの関係はそう簡単には終わらないのではないか、と思った時。俺はどこまで深入りして良いのか分からなくなった。
 どこに立っていれば良いのだろう。
 これまで邪魔にならないことだけを意識してきた。本家も俺が関わってくることを望んでいなかった。なので置物に徹しようとしていたのだが。
(知らなすぎるのやも知れぬ)
 叶さんが来て、美丈夫があれほどの冷たさや頑なさを持っていることを初めて目にした。一緒に暮らしていても知らないことなんて山ほどある。それはおかしくないことだとも思うけれど。
 知りたいと思った。
 美丈夫の叶さんに対しての態度が正しいか、間違っているのかを度外視して。何故こうなっているのかを理解したくなった。
(じゃがな、俺には信頼がない)
 目が曇っていると言われてしまえば、食い下がることも出来ない。
 そんなことはないと言ったところで、何も知らない人間が偉そうなことを言っても美丈夫の胸には響かないだろう。
(俺は少し、傷付いておるのかも知れんな)
 こうして美丈夫と真っ向から衝突して、美丈夫から跳ね返されたことはこれまでなかった。自分の言葉が一切届かないことに、落ち込んでしまっているのかも知れない。
(馬鹿馬鹿しいことじゃな)
 自分から関わらないように一歩どころか遙かに精神的な距離を取ってきたのに、いざ親戚の諍いを眼前にして、あれこれ気を揉んでいるなんて。美丈夫にしてみれば、叶さんに興味を持ちすぎだと思われても仕方がないのかも知れない。
(あの顔面がな)
 いや、追求してはいけない。あの顔は持って生まれたものであり、本人たちにはどうすることも出来ないものだ。
 悶々と悩みだけが降り積もる。休日をゆったり自室のソファで、本を開きながら心穏やかに過ごしたいのに時折溜息をついてしまう。
 昨夜の喧嘩にもなっていない美丈夫との衝突が尾を引いているのは間違いない。
 結局美丈夫はあの後、少ししてから普段通りの態度に戻っては、表面上平穏な日常に戻ったけれど。お互い腹の奥では、すっきりしないものを抱えているだろう。
「…………」
 無意識にまた溜息をつくと、ドアがノックされた。
「どうぞ」
 いつの間にかお手伝いさんの一人、立川さんが来ると約束していた時間になっていたらしい。俺が休みの日は家事を一通り請け負っているので、お手伝いさんたちの仕事はないはずだが。お菓子のお裾分けや、根気の要る掃除が残っているなぞの理由でこちらに来ることは度々ある。
「失礼します」
「……叶さん」
 ドアを開けたのは、思いも掛けない人で俺は思わず立ち上がった。
 どうしてこの家、しかも玄関ではなく俺の部屋のドアを開けるのか。驚いていると叶さんの背後にお手伝いさんの一人である立川さんが顔をのぞかせる。
「一昨日お話をしていたシフォンケーキを作ってきました。リビングのテーブルに置いておきますね」
「あ、はい。ありがとうございます」
 立川さんがシフォンケーキを焼くのでお裾分けをしたいと言われて、快諾したのだ。約束時間も守り、律儀に持ってきてくれたらしい。
 立川さんは頭を下げると玄関へと向かっていった。用事が済んで帰って行くのだろう。それを叶さんは笑顔で見送っている。
「……どうして、ここに?」
「鍵をお借りすることが出来ました」
 叶さんが古めかしい鍵の束をポケットから取り出す。それは俺も見たことがある。庭にある蔵の鍵束だ。
「一緒に探して下さいませんか。俺一人では、蔵をあさって泥棒をしたと言われると困ります。お手伝いさんの誰かにお願いしようと思ったんですが、みなさん忙しそうで」
 お手伝いさんたちの仕事を俺は把握していない。彼ら、彼女らが歩き回っていても、現在何をしているのかは察せられないので。おいそれと呼び止めるのははばかれた。
 きっと叶さんも似たようなことを思ったのだろう。
  「それに、お手伝いさんは本家側の人間ですから。白も黒と言うでしょう」
 お手伝いさんたちにとって本家の人間は雇い主であり、生活の基盤を握っている。
 どうも蔭杜の従業員への待遇はとても良いらしく、俺が一番よく接している立川さんからは蔭杜に対する感謝をたまに聞いていた。
 本家の意を汲んで叶さんが盗みなど働いていないとしても、盗んだと偽証する可能性があると疑っているのだろう。
「俺はそうは言わないと?」
「はい。どうかお時間を頂けませんか?」
 美丈夫の嫁であると知っているのに、俺は本家側の人間ではないと判断したらしい。本来なら俺こそ本家の肩を持つべき立場だろうに。
「……分かりました」



 蔵の目星は付いていると言われた。うっすらとした記憶に残っていたらしい。
 俺にとっては初めて入る蔵だった。錆が目立つ南京錠を開けて、観音開きの扉を手前に引く。扉はギィと軋みながらゆっくりと叶さんの手で開かれていく。
 叶さんが鍵を預かったのだから開けても問題ないはずなのに、異様な緊張感が走る。  蔵の中は当然真っ暗だ。ずっと閉め切っていたため、密度が濃くなった空気が流れ出していくのを感じる。ひんやりとしているが埃っぽい空間だ。思わず中に入るのに気合いを入れていた。
 まるで異界に繋がっている場所のようだ。
 書庫になっている蔵とは印象が大きく違う。あそこは最近俺が頻繁に開けるせいで、空気の入れ換えが出来ていたのだろう。元々蔵など気軽に足を踏み入れる場所ではないのだと改めて認識させられる。
 今日はどんよりとした曇り空で太陽光が降り注いでいない。地上がどこか薄暗いのだ。蔵の中などまして暗がりのたまり場であり、数歩先は一切見えないような状態だった。
 持ってきたランタンを点けて、俺は「あー……」と思わず声を漏らしていた。
「これは、苦労しそうですね」
 蔵の中には棚が幾つも置かれており、そこにみっちり物が詰め込まれていた。
 箱や筒、長持ちも見える。彫像や大型なものは置く方に押し込まれ、中を歩くのも大変なくらいに隙間が少ない。家財道具もあり、物置という雰囲気が漂っていた。
 その分雑多に物が保管されているわけで、ここで両手の上に乗るサイズの箱を探し出すというのはあまりに難易度が高い。
 途方に暮れていると叶さんが「すみません」と謝ってきた。
 こちらも弱ったと言うような顔をしている。まさかここまで物が溢れているとは叶さんも思っていなかったのかも知れない。
「本当にここにあるんですか?お父さんがここに片付けたとか?」
「片付けたというか、俺が箱を隠したんです。だって父は子どもの俺にはあまり構ってくれませんでした。だから少し困ればいいと思って、箱をこの蔵に。ですが父は箱のことなどすっかり忘れてしまった。思い出したのは、絶縁されてからです」
 それではもう回収することも出来ない。
 しかし子どもの頃の他愛も無い悪戯が今の叶さんの役に立つかも知れないと思えば、何が救いになるかは分からないものだ。
「じっとしていても仕方がありません。手分けして探しましょう」
「そうですね。俺は右側を、上総さんは左側をお願いします」
 棚の数や配置がざっくりとした左右対称になっている。なので入り口から奥へと真っ直ぐ区分けをして、片っ端からそれらしいものをあさっていく。
 叶さんが探している箱は赤い漆塗りで、鳥の絵が描かれているらしい。鳥の種類までは曖昧だが、鳳凰のような姿をしていたというのだから見応えのある箱だろう。
 足下にどんよりとした重たい空気が漂っているような気がして、扉を全開にして空気の入れ換えをしながら手探りで棚から箱らしきものを取り出していく。丁重に、壊すのは勿論傷一つ付けることがないように細心の注意を払っていた。
「貴重な美術品が無いことを祈ってます」
「俺もです。これ以上の借金は背負いたくない」
 蔭杜は長く続いた資産家であり、美術品が母屋に当たり前のように飾られている。俺にとっては目が飛び出るような金額の装飾でも、彼らにとってそれは身近にあって当たり前のものだ。その当たり前のものを、蔵に片付けているということが十二分にあり得る。
 手が震えるような品も、ここには無造作に詰め込まれているかも知れない。そう思うと全身に力が入っては指先に神経を向ける。
 今こうして掴んでいる木箱の中身がどんなものであるのか、実体は知らなければいけないのだが金額だけは永遠に知りたくない。
「万が一落として壊した、なんてことがあれば黙って庭に埋めて供養すればいいと思います」
「発覚した時が恐ろしいので……万が一なんて話は止めましょう」
 叶さんは庭に埋めたらなんて言うけれど、この庭は庭師がきっちり管理している。
 俺たちが掘り起こした跡を彼らが見付けるかも知れない。そうなれば大騒ぎになってしまう。
(蔭杜を追い出されるならともかく、弁償しろと言われた時が怖い)
 想像するだけで逃げたしたくなる。しかし蔵の内部捜索は一度引き受けたことだ、簡単に投げ出していけない。
「誉との同居はどんな感じですか?」
「どんな感じ、ですか?」
 赤い箱など見当たらない。それどころか掛け軸のようなものをどっさりと収納している箱を見付けて、そっと蓋を閉めたところだった。全部でいくらなのか、とおののいている俺の耳に届いてきた質問を一度訊き返してしまった。
「上総さんがご飯を作っていると聞きました。お手伝いさんがいるのに、掃除や洗濯もされるとか」
「休日だけですが。趣味のようなものです」
 他人に自分の生活の面倒を見て貰うのが、どうにも落ち着かないだけだ。自分のことは自分でやってきた。それが自分の心を整理する術でもあった。
 他人が自分の生活に割り込んできて、あれこれ片付けて、整えて、作り上げていくというのが俺には向いていなかったのだろう。
 それでも美丈夫がいるので、家のこと全部を引き受けるわけにはいかない。
 俺一人では手が回らないこと、また技術的な問題で粗相があるかも知れない。だからプロであるお手伝いさんに、仕事の日の家事と、俺の身の回り以外のことはお願いした。
 雑事を自ら引き受けようとする俺をおかしな人間だと本家の人たちは思っている節がある。叶さんもそうなのだろう。
「誉も家事を手伝っているそうですね。家事なんて自分がすることじゃないと思っているようなやつが」
「きっちりやってますよ」
 そうだ、美丈夫は俺が家事をやると言ったら手伝うと言ったのだ。本家の長男として家事などやったことはない、そもそも自分たちのやるべきことでもないと思っていただろう男が。風呂掃除とゴミ出しをしてくれている。
 箱入りのお坊ちゃんが、そんな雑用をいつまでも出来るものだろうか。
 最初俺はそんな意地の悪いことを思っていたのだが、美丈夫は忘れることも手を抜くこともなく続けている。誠実さを欠くことがない人だ。
「貴方のことが、大切なんですね」
「……大切に、してくださってます」
「誉は貴方が好きなんです。惚れ込んで、奥さんにした。そうですよね」
 叶さんはいつの間にか俺の傍らに来ていた。
 棚の低い位置にある段に手頃な大きさの箱を見付けた俺は、丁度床に膝を突いていた。なので叶さんを見上げる形になる。
 蔵の入り口から差し込んでくる光が叶さんの横顔を照らしている。だが角度のせいではっきりと表情が見えない。
 足下に置いたランタンの明かりも届かない、薄暗がりに覆われた顔と問いかけに、ぞわりとした。途端に冷や汗が背中に滲む。
「叶さん、赤い箱を見付けたのですが。これではありませんか?」
 問いに答えることはせず、俺は赤い箱を引き出しては叶に見せる。
 A4版くらいの大きさは少し予想を外しているけれど、正解かどうかは今は二の次だ。それらしいものを差し出して、話の矛先を変えられればそれで良い。
 どう答えるべきか、返事に窮していたのだ。
「いえ、これではないと思います」
 叶さんは箱を受け取ってはそっと蓋を開ける。中身は空っぽだ。
 外れたことにがっかりもせず、叶さんは元のように蓋を閉めては俺に返すのではなく自ら棚に片付ける。
 しゃがみ込んだ叶さんと距離が近くなり、反射的に後ろに下がった。しかし別の棚に背中が当たった。蔵の窮屈さに妙な焦りのようなものが生まれた。
「貴方を本当の奥さんのように扱いたい。形だけではない夫婦になりたい。そう誉は思っているはずです。でも、貴方はどうなんですか。男の嫁として、誉と添い遂げるんですか?」
 赤い箱を渡してうやむやにしたかった会話を、叶さんは戻してくる。しかし俺はそれに取り合うつもりはなかった。
 立ち上がっては、別の棚に手を付ける。
「俺なんて、どうでも良いことです」
「とうでも良くない」
 強く、そう言い切った叶さんに思わず手を止めた。しかし叶さんを振り返るようなことはしない。
 深く息を吸い込んで、自分を整える。空気が埃っぽく、多少のカビ臭さがあって更に気が滅入りそうだった。
「箱を探しましょう。貴方にとってはそれが一番重要であるはずだ」
 この話はしない。
 暗にそう伝えると叶さんは「はい」と意外と大人しく返事をした。けれどその声が先ほどの強さを完全に消して、弱々しく響いたことに胸が痛んだ。




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