美丈夫の嫁10 8





 学費を貸与することは出来ないのか。
 帰宅してつい、美丈夫にそう問うていた。
 美丈夫は日曜日で大学は休み、珍しくバイトも入っておらず一日オフだった。そのため玄関まで出迎えに来てくれた。
 相も変わらず首から提げていたペアリングを左手の薬指に通すところをチェックされる。もはや執念ではないだろうか。
 今夜も自らリングを指にはめて、俺はつい叶さんの借金について口出しをしていた。
 昼間、叶さんの元にかかってきた電話がずっと耳から離れないのだ。あんな風に束縛されれば、精神が保たない。逃げ出してしまうのも当然であり、たとえ三百万という借金を負ったとしても構わないと思ってしまうだろう。
 美丈夫は出迎えくれた時の笑顔をすっと消しては、真剣な面持ちで正面から俺を見る。叶さんに関しては肌がぴりつくほどに警戒を露わにするのだ。
「叶さんと、たまたま話をする機会があった」
「家で会っても無視して下さい」
「そういうわけにもいかんじゃろう」
 正しくは蔭杜の敷地内で会ったわけではない。けれど俺の職場までやって来たと言えば、美丈夫は良い顔をしないだろう。
 ただでさえ機嫌を傾けたのに、これ以上は避けたい。
「叶は人の情けにつけ込もうとします」
「おまえさん、そんなに叶さんが嫌いか」
「嫌いです」
 美丈夫は迷いも無くきっぱり言い放った。
 そうして誰かのことを嫌いだと明言することはこれまでなかった。断固として変わらないという強さすらもあって、俺は溜息をつきたくなる。
「あの人の現状と性格を知っておるか?」
「昔とさして変わっていないと感じています」
「困窮しておられるよ」
 変わっていないわけがないのだ。
 父親がいて、親に保護され自由に振る舞っていた子どもの頃と。親を亡くして一人で放り出され、学び生きていくためにかかった金を返せと迫られている。現状は激変しており、性格にだって影響が出ているだろう。
(でも美丈夫は過去を見ている)
 今の叶さんを見ようとはしていない。
「そうですか」
 淡々とした返事には一切の感情が込められていない。他人事よりも遠い話のようだ。
(困っていても関係が無い。美丈夫にとってはそういうものかも知れんな。俺にとっては美丈夫は心根が真っ直ぐで情に厚い人のように見えたが。それだけが美丈夫の顔かどうかなぞ分からん。それに蔭杜を守るため、ここで生きていくためには情を捨てることも必要だと言われれば、俺に反論など出来ん)
 蔭杜本家をこれからも繁栄させていくため、必要なものが何であるのか。美丈夫の方がずっと理解しているだろう。傍系の俺の意見などゴミでしかない。
 こうして叶さんについてあれこれ言うことも、きっと煩わしいはずだ。
 けれど、洋食屋で目の当たりにした叶さんの姿を哀れだと思ってしまう。
「手出しはされないほうがいい」
 哀れだと思った俺の気持ちの揺らぎを察知したように、美丈夫が忠告をしてくる。冷たい水を注ぎ込んで、生々しい記憶と同情を冷やそうとしているみたいだ。
「そうは言われても、目の前におられる」
「家から追い出します。なんなら今すぐに」
「そういう手段を執るのは非情ではないか。元いた場所に帰れば、どうなるか分からないと言っていた。俺もそう思う」
「何故ですか」
「世話になっていたというお父さんの友人から、電話がかかって来ていた。声も話の内容も多少耳にしたが、正気とは思えぬ。叶さんに相当執着しておるぞ。戻せば事件になるやも知れん」
 絶縁したなんて言っても、血は繋がっており、戸籍はそう簡単に切れないだろう。事件となれば本家にとってもよろしくない事態になるはずだ。
 美丈夫も目つきが変わった。
「あれだけの顔と、品格がおありじゃ。執着する者もおるのじゃろうな」
 美丈夫と似ているということは、十分に人目を惹く端正な顔立ちをしているということだ。男前という表現がこれほど似合う人を、俺は他には知らない。まして品性がそこに備わっており、傍らにいると自然と自分の中で背筋が伸びるような気持ちになれるのだ。
 狂おしいほど心奪われる者がいるというのも、頷ける。
 しかし美丈夫は鼻で嗤った。
「あの程度です」
「その程度が、世の中では良いものとされておる。おまえさんとて、顔立ちを褒められるじゃろうが」
「それほどに似ていますか」
 美丈夫は冷ややかな視線でそう口にする。
 最初にその質問をしてきた時のような当惑はない。まるで撥ね付けるような口調だ。
「……まあ」
「忌々しい限りです」
「随分と厳しいお言葉じゃな。まるで憎んでおられるように聞こえる」
 嫌いという感情を超えているのではないか。
 美丈夫は叶さんに対して常に重い憤りのようなものを含めている気がする。子どもの頃の思い出がそうさせるのだろうとは思うのだが、今の叶さんしか知らない俺にとっては、どうしても目に余る。
「憎んでいるというより……俺は、貴方にあの男に関わって欲しくないんです。あいつは俺の大事なものを壊したがる」
「子どもの頃の話じゃろう。それとも今もそんな素振りがあると?」
「今こうして蔭杜に来たことが、その始まりかも知れない」
(疑えばきりが無い)
 ここに逃げ込んできたこと自体、叶さんが美丈夫に何かしらの痛みを負わせるためではないか。そう不安に駆られているらしいが、あの電話を聞いてしまった俺からしてみれば、突拍子もない想像に思える。
「似ていると言われる分だけ、心配になります。貴方はこの顔も嫌いではないでしょう」
「…………嫌い、ではない」
 顔を寄せられて、間近で見詰められると視線が外せなくなる。
 初対面の頃から、美丈夫に関しては顔が良いと思っていた。嫁になってくれと言われた時も、顔に押し切られた面がある。
 それだけに顔の威力を説かれると、どうにも俺は弱い。
(というか俺が美丈夫の顔を気に入っていると、自覚しておるのか)
 自分の使えるものをしっかり有効に使っているらしい。
 これまで口にされていなかったけれど、美丈夫なりにあれこれアピールしてきていたのだろう。自分の好みが見抜かれているというのは、決まりが悪い。
(顔面は強い、俺を押し切るくらいの力はある。じゃがな!)
「人間は顔だけではない」
 心も大事なものだと、俺は胸を張るのだが美丈夫は目を鋭く細めた。
「叶の性格も悪くはないと捉えてますよね」
「……俺は、心変わりを疑われておるのか?」
 叶さんのことは可哀想だと、多少肩を持ったのは事実だ。美丈夫の顔が好みで、叶さんのことを美丈夫に似ているとも言った。
 しかしだからといって、叶さんを好きになるかどうかなど全く別の問題だ。
(そもそも俺は、男は恋愛対象ではないのだが?)
 美丈夫と付き合っているからといって、他の男に興味を持つのかと尋ねられればあり得ないと言い返す。
 大体恋人にするなら女性を選ぶ。美丈夫だけが別枠に入っているだけだ。
 それだけ美丈夫は俺に対して愛情を注ぎ、逃げ場を塞ぎ、この人ならばと俺に腹をくくらせた。
 たかが数日前に出会った男に、心奪われるはずもない。
 俺が簡単に男を乗り換えるような人間だと思っているとすれば、その時点で美丈夫を見損なった。しかし美丈夫は「まさか」と即座に否定する。
「貴方はそんな人じゃない」
「存外に尻が軽いやも知れぬが」
「あり得ません」
 俺自身より強く貞操観念の固さを保証する美丈夫に、俺は込み上げた不快感のようなものが霧散していくのを感じた。自分で思っているより、俺は恋愛に関して厳しいのかも知れない。
「ですが、同情は人の目を曇らせます」
「辛辣じゃな。俺の目は曇っておるか」
「失礼なことを申し上げているのは承知しております」
 だが美丈夫は言葉を撤回しない。
 俺の目は同情により、まともに現実を見ていないと、そう思っているのだ。
 冷静さを欠いていると言われて肩をすくめる。これでもそれなりに世間に揉まれたと思うのだが、美丈夫にとっては浅はかなのだろう。
「俺はそれほどに単純で、浅慮な人間か」
「いえ、そうではなく」
「良いよ。おまえさんにとってはそうなんじゃろう。俺とて、全く違うと言い切る自信もない」
 自分は浅はかではないなど、大見得を切れるような確信とてないのだ。そこまで叶さんを知っているわけでもない。
 けれど美丈夫の意見に耳を塞ぎたくなる自分がいた。美丈夫のようには思えないと、胸の内で呟きが広がる。
 ただ強情になるのは得策でも無ければ、俺たちの間に良い影響も無い。そんな半ば打算的な気持ちが働いて、唇を閉ざした。




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